メトロの階段を上がった先で、冬の夕焼けをバックに、まあるく大きな影がこちらに向かって手を振った。
それだけのことで、仕事の疲れがぱっと消えてしまうのだから大概だ、と小夜は思う。
「ただいま。お休みなのにわざわざ迎えに来てくれてありがとう」
「ええて。俺も早う会いたかったし」
「今朝別れたばかりじゃない」
「ええやん。俺ら新婚さんやもん」
逆光の中、おなかを揺らして笑うのは、この街を守るヒーローだ。けれど今日の彼が着ているのは、世間の人が見慣れた黄色を基調にしたヒーロースーツではなく、オリーブグリーンのモッズコートに芥子色のパーカーだった。つまり、今日の彼はオフ。
「今日のおかずは平太の串カツで決まりやで」
ファットが片手に持っていた袋を、小夜に向かって掲げた。迎えに来てくれただけでなく、夕飯のおかずまで用意してくれるのだから、このひとは優しい。ほんとうに。
「ああ、またこない冷えてもて」
あいているほうの手で、ファットがそっと小夜の指先を包みこむ。
小夜が冷え性なものだから、外での待ち合わせの際、ファットはいつもこうして、小夜の手や指先を暖めてくれる。あたたかくて、そして優しい大きな手。
わたしはこの手がとても好き、と小夜は思う。
ファットガムの体はこんなにまんまるなのに、不思議と手だけはごつごつしている。節くれだって分厚くて、あちこち硬い、戦うひとの手。
脂肪の少ない部位だからか、それとも武闘派として拳をふるってきた時の名残か、この優しくもあたたかい手には、いくつもの傷痕がある。それはこのひとがおおらかに笑いながら、誰かを守るためにたくさんの血を流してきた証。
そう思ったらどうにも切なくなってしまって、小さな傷跡をすりすりと撫でた。
「どないした?」
と、くすぐったそうにファットが笑う。
「今日は甘えたやな。せやったら、今夜はいっぱいかわいがったるわ。楽しみにしとってな」
これはいつもの彼の軽口。ファットは照れたり恥ずかしがったりする小夜の反応を見て、楽しむことがあるのだ。優しいくせに、ちょっと悪趣味。
もう、と小夜はいつものように答えかけ、口をつぐんだ。
ちょっと恥ずかしいけど、照れずにはいと答えたら、彼はどんな顔をするだろう。常のように、おひさまのように笑うだろうか。それとも。
「……よろしくお願いします」
ちいさくうなずいて、彼を見上げた。
するとその先に、沈みかけたおひさまのように赤く染まった、まあるいまあるいお顔があった。
「……太志郎さん?」
「や……ちょお……意外やったから……小夜、いつもやったら照れるやろぉ?」
告げながら首をかしげたその顔の、なんとかわいらしいことか。
あけすけに誘ってきたくせに、それにイエスと答えただけでこんな顔をするのだから、このひとはずるい。そんな顔をされたら、こっちはますます恥ずかしくなってしまうではないか。
だからなんとなく意地悪をしたくなって、赤面しながらこちらを見おろしている彼の大きな手を、口元へと持っていった。琥珀色の瞳を覗き込みながら。
「小夜?」
ただでさえ大きな目をますます大きく見開いたファットに小さく笑んでから、下を向いて、太く長い中指の先を、かりりと噛んだ。
「おま……っ……なんちゅうえっちなまねを……」
舐めたならまだしも、指を甘噛みするのって、そんなにえっちなことだろうか。そう不思議に思いながら、小夜はふたたび、彼を見上げる。
「……帰ったら覚えとき」
片方の眉を高々と上げ、口を大きくへの字に曲げた彼がなんだかとてもかわいくて、小夜はふたたび彼の手を自分の口元へと運び、爪先にひとつ、キスを落とした。
2022.9.14
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