小夜は残業で疲れた身体を駆り立てるように、喧噪の中、家路を辿る。
手前の歩行者信号が点滅を始めたので、足を速める。が、もう少しのところで信号が赤に変わってしまった。小さくため息をついて、空を仰いだ。
視線の先には、見事な満月。
不意にSNSで見かけた「今日は今年最初の満月です」というポストを思い出した。
(早く会いたいな)
凜然と輝くウルフムーンは、同じように黄色くてまんまるな、優しい人とよく似ている。一緒に暮らしているというのに、仕事帰りにはいつもこんなふうに思ってしまう。
大好きで大好きで、大好きな人。
今日の彼は非番だけれど、このところ取り締まりで忙しく、昼夜逆転に近い生活を送っているから、先に寝てしまっているかもしれない。それは少しさみしいけれど、疲れているであろうファットを起こすのは、やはり忍びない。
だから、もし彼が寝てしまっていたら、もちもちの二の腕にしがみついて眠ろう。そして同じ朝を迎える。言葉を交わせないなら、ぬくもりだけでも共有したい。
そんなことを思いながら鍵をかざして、玄関扉を開ける。と、室内は暗く、そして静まりかえっていた。
やっぱり寝てるのかな、と心の中で独りごち、そっとリビングの戸を開ける。と、奥から、「おかえり」という、低くくぐもった声が響いた。
明るく元気なはずのファットガムは、ごくまれに、こういうふうになることがある。それは仕事で人命にかかわるようななにかがあった時だ。強いひとだから、愚痴をこぼしたり、弱音をはいたりすることはない。ただこうして、静かに己を責め、そして見つめ直す。彼はそういうところがあった。
「ただいま」
と、答えてから、洗面所に向かった。手を洗い、服を着替えて再びリビングに戻ると、未だ暗い部屋の中で、一人座っているファットの姿があった。
「隣、座っていい?」
どうしようか少し迷ってそう告げると、ほんのすこしの間があいて、もちろんと返された。ありがとう、と告げて、大きなひとの隣に座る。彼はこちらを見てにこりと笑い、視線を開け放たれたカーテンの先へと向けた。つまりは、窓の外へと。
ビルの合間から望む街の空は狭い。けれど、あのウルフムーンはよく見える。
「ずっと、空、見とった」
「そう」
そして、ふたりは沈黙する。
外は繁華街特有の喧噪に包まれているけれど、防音ガラスに守られたこの部屋は、とても静かだ。
少しして、ファットの周りの空気が、和らいできたような気がした。
「……月」
そっと、声を上げてみる。と、彼がこちらを向いて、優しく笑んだ。
「ん?」
「今年最初の満月だって。綺麗だね」
「……せやな」
と答えた大きな手を、そっと握った。手の大きさがあまりにも違うから、ちっぽけな小夜の手で包み込めるのは、彼の親指くらいだけれど。
「ホンマに綺麗なお月さんや……って、こんな会話、昔したなあ。つきあう前に」
「わたしも、それ思った」
「あんときは、君に好きやって言えなくてなあ」
あの日も満月で、年末の繁華街を二人でぷらぷらと歩きながら、同じようなことを言ったのだ。大好きだ、という気持ちを抱えながら。
「わたしもね、あなたに好きって言えなくて、かわりに月が綺麗って言ったの」
大きな親指を包み込んでいた小夜の手を外しながら、うん、とファットがうなずいた。わかっとるよ、と言うように。
そして彼は大きな手で、小夜の手を包み込む。
「月が綺麗やなぁ」
それはつまり、愛しているということだ。
「ずっと見ていたいね」
死んでもいいわなどという縁起でもない返しをしたくなかったので、そう答えた。彼はきっと、気持ちを汲んでくれるだろう。
「せやなあ、月も空もおてんとさんも、ずっと君と見てたいわ」
先ほどよりもずっと柔らかい声で、ファットが応える。
「そうしたら俺、また明日から頑張れる」
返事のかわりに、太い腕に身体を預けると、うん、と、力強くファットはうなずいた。
空には、凜と輝くウルフムーン。
こうして今年最初の満月の夜は、静かに優しく更けてゆく。
2025.1.15
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