しあわせはいつも
たこ焼きの香りと
ともにやってくる

 子どもの頃、しあわせはいつもたこ焼きの匂いと共にやってきた。
 まんまるでふわふわとろりと柔らかい、出汁とおかかとソースの香りがするたこ焼きを、口に入れるだけで幸せだった。
 当時のファットガムにとってたこ焼きは人生であり、世界のすべてでもあった。
 その頃と同じとまでは言わないが、やはり今でもたこ焼きの匂いを嗅ぐと幸せな気持ちになる。

 だが大人になった今、ファットガムにはもうひとつ、幸せを運んでくれる香りがあった。
 それは淡いピンク色のブーケのような、優しくて甘い花香だ。それは目前の女が愛用している、開花する花束という名を持つ香水の薫香。

「いかがでしょうか?」

 紺のスーツに身を包んだ小夜が、ファットに告げた。まったくもって堅苦しいビジネス的な会話だ。仕事中なので当然といえば当然なのだが、見えない線を引かれてしまったようで、なんだか寂しい。
 この場には自分と小夜しかいないのだから、そんなにかしこまらなくてもいいではないかと思ってしまう。

「ええんちゃう?」

 せっかく二人きりなのに、頑なな態度を崩さない彼女。それが少し悔しくて、あえてぶっきらぼうに、そういらえた。

***

 サポート会社、ウィクトーリア社の営業担当である小夜から新素材で作ったコスチュームができたという連絡がきたのが、三十分ほど前のこと。
 新素材は夏向けのもので、今までのものより通気性、速乾性、そして伸縮性にすぐれ、しかも丈夫だ。利用しない手はないと思い、デザインはそのままに、素材だけを新しくした夏用のバージョンを試作してもらった。

「できたんなら確認は早いほうがええなあ。ちゅうても、明日はCM撮りが入ってて終わり時間が読めへんのや。業務時間ギリギリに言うて悪いけど、今日、これから持ってこられる?」と、たこ焼きの生地を作りながら告げたファットに「承知いたしました。それではこれから伺います」 と、小夜は答えた。

 彼女が事務所を訪れたのは、それからきっかり十分後。
 存外早い到着に驚きながらも、ファットは作った生地を冷蔵庫に入れ、新コスチュームを試着し――そして、今に至る。

***

「では、こちらで発注承りました」
 
小夜はぺこりと頭を下げ、そのままきびすを返そうとした。

(エー! そのまま帰ってまうの?)

 と、ファットは内心で叫び、続く言葉を声に出す。

「そらたしかに特に約束はしてへんかったけど、ちょおクールすぎるんちゃう?」

 すると小夜は足をとめて、にこりと笑んだ。

 あっ、とファットは内心で小さく声をあげた。今のはポーズだ。

(これ、誘われるん待っとるやつやな。表面上だけでも、仕事中はクライアントと営業のテイを崩したないちゅうことか。ええで、のったる)

 ファットはデスクに肘をつき、まっすぐに小夜を見つめながら口角を上げた。

「あー、湧水さん。今日、この後の予定はどうなっとります?」
「本日は直帰の予定です。その後、私的な用事は特にありません」
「せやったら、このあとぼくとお食事でもどうですか?」
「ありがとうございます。ご相伴に与ります」

 そこまで言って、顔を見合わせて笑った。

「お堅いなぁ。いつもみたいに話してくれへんの?」
「いまはまだ、仕事中ですから」
「俺たちの他は誰もおらへんのやし、別にええんちゃう?」
「だめです。就業時間が終わるまでお待ちくださいね」
「へーい」

 口をへの字にまげつつそう返事をし、時計をちらりと仰ぎ見る。
 時刻は五時五十五分。ヴィクトーリア社の終業時刻は六時なので、残り時間はあと五分。

 小夜はこのやりとりを楽しんでいるようだ。
 ならば最後までこのお遊びを続けてみるのも一興だろう。

「食事はなにがええですかねぇ?」
「ファットガムさんはたこ焼きのつもりだったんじゃありません?」
「あれはおやつにしよ思て作っとったやつですわ。せやけど冷蔵庫入れとけば一日二日は持つよって、明日にまわそ思とるとこです」
「わたし、ファットガムさんの作るたこ焼きが大好きなんですよ」
「お?」
「いつ食べても、世界一美味しいと思います」
「えー。そうなん?」

 答えた声が舞い上がり、表情もまた緩んでしまう。
 たこ野郎の広告塔を務めている身なので大きな声では言えないが、ファットガムは己の作るたこ焼きが世界で一番うまいと自負している。
 その自慢のたこ焼きを褒められたら、正直悪い気はしない。しないどころかめちゃくちゃ嬉しい。

「ほんなら、ここで俺のたこ焼き食うてから、どこぞで一杯やります? 先月マイトサインの裏手にできたワインバーなんてどないですかねぇ」
「わたしはたこ焼きだけでお腹いっぱいになれますからバーでも大丈夫ですけど、ファットガムさんはそれだと足りないんじゃありません?」
「ワインバーちゅうても、ダイニングバーに近い感じらしゅうて、食事のメニューもけっこう充実しとるみたいなんですわ。一緒にちょこちょこつまみながら飲むっちゅうのはどないやろか」

 はい、と小夜がうなずいたその瞬間、彼女の端末がピリリと鳴った。
 時刻は六時ちょうど。まじめな小夜が、普段から退勤時間をアラーム設定しているはずもない。おそらくは、今このときのためにセットしておいたのだろう。

(こないなとこが、ほんまかわいくてなぁ)

 口元が緩みっぱなしのファットの脇で、小夜が端末を使い、オンラインにてタイムカードに打刻する。

 先ほどは少し寂しく思ったけれど、結局自分は、小夜のこういうところも含めて惚れているのだ、とひそかに思った。
 誰が見ているわけでもないのに公私の区別をつけたがったり、多少ごまかしてもわかりはしないのにカラ残業をしなかったり、真面目なのだ。本当に。
 真面目なところが好ましく、初心なところが愛らしい。ゆえにいじりたくなってしまう。そこは自分の良くない癖だ。

「そこなぁ、個室もあるそうやで。なんなら俺の腹の上で食う?」
「太志郎さん」

 ファー、と笑い声を上げると、小夜が赤面しながらとがめるような声をあげた。だがいま呼ばれたのは本名だ。それは、彼女の気持ちがオンからオフに切り替わったというしるし。

「ま、今のは冗談として、たこ焼き作るか」
「その間に、わたしはバーの予約をしちゃいますね」
「おん、頼むわ」

***

 ファットガムが鼻歌交じりに鉄板に火を入れ、冷蔵庫へ向かう。
 大きなボールの中にはたっぷりの生地。鉄板が充分に熱されたタイミングで、さあっと生地を流し入れた。とたんに広がるたこ焼きの匂い。

(俺、いまほんま幸せやな)

 予約の電話を入れる小夜を横目で見ながら、ファットガムはたこ焼きを焼く。

***

 大きな手がなめらかに動き、机上のたこ焼きをくるくると回してゆく。
 まるで魔法みたいだ、と小夜は思った。以前自分が作ったときは、うまく回すことができず、ぐちゃぐちゃになってしまったというのに。

「じょうずねえ」
「そら年季入っとるからな。もうたこ焼きは俺の担当にすればええんちゃう? これから先も」
「これから先も?」

 突如として告げられた意味深な言葉を復唱すると、彼は鉄板のたこ焼きを見つめながら、せや、とだけ答えた。
 今の言葉の意味することはと考えかけ、深読みしすぎるのも期待しすぎるのもよくないな、と思い直した。今はまだ、この幸福な現状を噛みしめるだけで充分だ。

「ほい、あーん」

 と、目の前に串にささったたこ焼きが差し出された。反射的に口を開けると、ファットガムがそこにたこ焼きを入れてくれる。あまりの熱さにはふはふと口を動かすと、彼が満足そうに目を細めた。

「おいし」
「せやろ」

 小夜がひとつのたこ焼きを食べる間に、彼はその数倍の量を口に入れ、そして咀嚼し飲み込んでいく。いつもながらの食べっぷり。
 食べ方はきれいなのに、なぜか口の周りが汚れていくのも、また、いつものことだ。

「太志郎さん」

 おくち、と言いながらウエットティッシュをさし出すと、ん、という声と共に大きな顔が突き出される。甘え上手だなぁ、と思いながら拭いてあげると、おおきに、とかわいい笑顔が返された。
 そうして小夜は、皿の上のたこ焼きを口に入れる。作りたてのたこ焼きは、やっぱり熱い。

「あつ……」
「おう、たこ焼きも俺たちとおんなじアツアツやな」
「……太志郎さん、なんだかちょっとおじさんみたい」
「エー。環なんかに言われんのはしゃーない思うけど、四つしか離れとらん君に言われると、ちょおショックやわ」

 金色の眉と大きな口をぐいっと下げて、ファットガムがうなだれる。慌ててごめんなさいと告げると、あらたな生地を鉄板の上に流し込みながら、彼は口を尖らせた。

「や、許せへんな。太志郎さんめっちゃ傷ついてもうたもん。もうこれは小夜からチューしてもらわへんとご機嫌なおらんわ」

 あなたほんとはたいして傷ついてないでしょ、と心の中でツッコミながらも、小夜はしごく真面目でまっとうな返答をした。

「ここ、オフィスですよ」
「ええやん。誰もおらへんのやし……なによりココは俺の事務所や。ボスたる俺がええちゅうとるんやからそれでええやん」

 なー、と首をこてんと横にかしげる、かわいいかわいいファットガム。このかわいさに小夜が勝てたことなどなくて。

「じゃあ、ほっぺになら」
「エー。お口やないといややぁ」
「お口にするのは、私が大人になるまで待ってください」
「いや、君すでに大人やん」
「大人ですけど、恋愛に関してはまだ子どもみたいなものなんです」

 そうなん?と言いながらも、ファットガムは絶対に無理強いはしない。

「ほんじゃ、そのかわりほっぺに二回にしてな。こう、右と左両方」
「はい」

 ほっぺなら、と小夜が体を乗り出して、ファットの頬にキスをした。むっちりとした柔らかい頬。丸いときのファットガムは、どこもかしこもふわふわもちもち。だからついつい、埋もれてみたいな、なんて思ってしまう。

「おおきに! ほな今度はこっち側」

 元気よく反対側のほっぺを突き出して来た彼に、もう一度唇を寄せようと身を乗り出した。と、その途端、むっちりとした腕が小夜を包んだ。
 え、と声を上げる間もなく抱き寄せられて、次いで降りてきたのは彼の口唇。ちゅっと音をたてながら小夜のくちびるにキスを落として、ファットガムはいたずらっぽく笑った。

「うばっちゃった」
「……不意打ちはやめてって言ってるでしょー」
「ええやん。大好きなんやもん。もしかして小夜は嫌やった?」

 嫌ではない。ただどきどきしてしまっただけ。それがなんだか悔しくて、小夜はついとうしろを向いた。

「エエ……小夜……小夜さん? もしかして怒ってもうたん?」

 やや心配そうに、こちらをのぞき込んでくる琥珀色の瞳。

「怒っちゃったから、もう一個たこ焼き食べさせて」

 甘えるようにそう言うと、ファットは金がかった琥珀の瞳を輝かせ、大きな口を広げて笑った。

「君が欲しい言うんなら、一個と言わず俺の分まで全部食わせたるで」
「いや、それはちょっとムリ」

 せやろなァ、と言った彼の、少年のような表情がかわいい。
 あーん、と小夜は口をあける。そこに、ほい、と彼がたこ焼きを入れてくれる。とたんにお口の中でとろりと広がる、お出汁とソースの香り。
 熱っ……と声を漏らしながら、小夜は思う。
 これは幸せの匂いだ。大好きな彼が連れてくる、しあわせの香り。

「うまい?」
「うん。おいしい」

 たこ焼きの匂いが充満する事務所の中で、ふたりは思う。
 しあわせはいつも、たこ焼きの香りと共にやってくる。

初出:2021.9.19

夢本「恋のつぼみ」に収録した書き下ろしの短編です

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