ビルの谷間から覗く小さな夜空を見上げながら、ぽつりと独りごちた。
先の大戦で巨悪が倒された。おかげで敵は減りつつあるが、同時にヒーローもずいぶんと減った。あの戦いの前にして、引退した者が多かったからだ。
あれから街の復興はかなり進んではいるものの、大戦前に比べればまだまだで。
だから繁華街のヒーローであるファットガムがこんな夜更けになっても帰宅しないことは、今となってもざらだった。
小夜も仕事をしているので、帰宅を待たず、先に寝ていてくれと言われてはいる。今週は急ぎの案件が多く、疲れているのも確かだ。
けれどやはり、ファットの顔は見たいし、話もしたい。
だから小夜は少し悩んで、もう少しだけ待っていようと答えを出した。
幸いにして明日は土曜、小夜の会社は休みだ。
秋の夜長は読書が進む。先日買った文庫本を一冊読んでいるうちに、時間は過ぎてくれるだろう。
厚めの一冊を読み終え、ハーブティーを淹れていると、かちゃりという解錠音と共に、玄関の扉が開いた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
と、応えたファットは、微妙な表情をしていた。笑いたいのかそうでないのかわかりにくい。うれしさと戸惑いが入り交じったような、そんな表情。
深刻そうな時はそっとしておくことにしているけれど、こういうときはどうしよう。そう逡巡していると、こちらの気持ちを読んだのか、ファットがこちらを見おろして、いたずらっぽく笑った。
「どないした?」
「いや、太志郎さん、なにか嬉しいことがあったのかなと思って」
これは聞いてもいいやつだな、と判断し、小夜はそう告げた。ファットは開けっぴろげな性格だから、こういう場合はストレートに聞いた方がいい。
すると彼は、なんでもお見通しやなあ、と少し困ったように、だがどこか嬉しそうに、大きく笑んだ。
「実はな、今日ヒーロービルボードチャートの順位が出たみたいで、さっき連絡きたんや」
ほんで、とファットは言葉を切って、またくすぐったそうに肩をすくめた。
「十一位やて」
「ええ?」
思わず大声をあげてしまった。
ファットガムは主に関西を拠点として活躍するヒーローだ。だから関西圏では絶大な人気を誇る。それこそ、トップファイブに迫るくらいに。けれど、全国的な人気はそこまで高くはなかった。前回の順位は、たしか五十八位だったはず。
そこからの十位台は、どう考えてもかなりの快挙だ。
「やっぱり、みんなちゃんと見てくれていたのね」
「どうやろ。正直な話、俺、先の戦いではあんまええとこなかったんやけどな」
「そんなことないよ! 太志郎さんは立派だった」
先の大戦で、ヒーローをやめてしまった者も多くいる。そんな中、常に身体を張って前線で闘い続け、大戦ののちも救助や街の復興の為に力を注いだファットガムの姿は、今でも人々の目に焼き付いているはずだった。
小夜はそんな彼を、心から誇りに思う。
「お祝いしなきゃね。久しぶりにビールでも飲む?」
「いや、今日は連絡くる可能性がないとは言い切れへん。酒はやめとくわ…………そや。アイスでも食べよか。サー・ボーデンのいっちゃんデカいやつ。あれならコンビニで買えるやろ」
特大サイズの業務用アイスは、普通コンビニでの扱いはない。が、ファットガム事務所――つまりは我が家――から最も近い店舗だけは、ファットの為にそのアイスを常備してくれている。
「うん。じゃ、買ってくるね」
「いやいや、なに言うとるん。こない夜遅くあぶないやん」
「すぐ近くだから大丈夫」
「あかんあかん。俺が行く」
「だめ。だって太志郎さんのお祝いじゃない」
「ほな一緒に行こか。おててつないで」
おててつないで、という言い方が、かわいらしいと思った。このひとの愛嬌たっぷりのこういうところもまた、人を引きつける要素の一つだ。
だから小夜はちいさくうなずいて、大きな手のひらに自分のそれをそっと重ねた。
「もうすっかり秋やなぁ。涼しいくらいや」
「こないだまで熱帯夜だったのにね」
「俺は暑がりから、これくらいのほうがええわ」
そんなことを話しながら、小夜は空を見上げた。
ビルとビルの間から見える空は、額に入れられた絵画のようだ。けれどそのフレームの中に、ひときわ明るく輝く大きな星があった。太陽系最大の質量を誇るその星の名は、木星。
――一番大きくて一番重いだなんて、まるで太志郎さんみたい。
「どないした?」
「木星が見えるな、と思って」
どれどれ、と大きな彼もまた、空を見上げた。
「あー、あのひときわ明るいやつか」
「うん。一番大きくて一番明るくて、まるで太志郎さんみたい」
「ほな、その隣のかわいいお星さんは小夜ちゃん」
普段は呼び捨てだが、ファットが小夜をちゃん付けをするときにはちょっとした意味がある。それを察してはっとした小夜に対し、ファットは照れくさそうに笑みながらウインクをした。
こちらも恥ずかしくなったので、黙ったまま首肯すると、ファットが大きくかがみ込み、小夜の額にちゅっと音をたててキスをした。
「十一位は今の俺には過ぎた順位やけど、これにふさわしい活躍をして、維持して行きたい思とんねん。だから見とって」
うん、と今度は声を出してちいさく答え、彼を見上げる。
「ほな、明日からもまたがんばろ」
と言ってから、大きな人が、大きな身体を大きくひらいて、大きな声で高らかにわらった。
2025.8.29
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