「ありがとう。同じくビールで」
小夜の注文をきいた少年が厨房に戻ったのとほぼ同時に、店の引き戸がからりと開いた。
入ってきたのはファットガムではなく、眼鏡をかけた初老の男性。
「あれ、あんた」
初老の男性が、小夜をみとめて声を上げた。
小夜が初めてこの店に来たとき、ファットと話をしていた男性の一人だ。たしか分団長――おそらくは消防団の役職だろう――と呼ばれていたような気がする。
「あんた、ファットの彼女やん」
「なんやて!」
「ファットはサポート会社の営業さん言うとったで!」
分団長の言葉を受け、カウンター席に座っていた年配の男性ふたりが勢いよく立ち上がった。
「どういうことや」
「ちょお、詳しく」
彼らは立ち上がるだけではあきたらず、小夜のいるテーブルの周りに集まり、そして座った。小夜の向かい側、つまり先ほどまでファットが座っていた席に。もちろん分団長もだ。
「あ……あの」
「や、隠さんでもええねん。おっちゃんたちはふたりの味方やで。外でこのこと話したりせえへんから安心し。俺はここらで不動産屋をやっとる者や。消防団の団長をしとるんで分団長呼ばれとる」
「ほんで俺はな……」
と、頼みもしないのにおじさんたちはおのおの自己紹介を始めてしまった。
残りのふたりはそれぞれ老舗和菓子屋、自社工場を有する鞄店の店主だという。自己紹介を終えた和菓子屋の店主が続ける。
「で、分団長はなんでふたりのこと知っとんねん。俺らなにも聞かされてへんぞ」
「なんや往来でいちゃいちゃしとったんやわ。極楽通りの焼き鳥屋あるやろ」
「ああ、あのうまいとこな」
「あっこのつくねをな、仲良うわけあって食うとったんやわ。あーんちゅうてな」
どっと額から汗が噴き出した。
あれを見られていたのか。たしかにつくねを手ずから食べさせてもらう姿は、そう思われてもしかたがない。
「いや……そうではなくてですね。わたしはただのサポート会社の社員で……」
「なんや、今日びのサポート会社の営業さんは、ヒーローにあーんしてもろて焼き鳥食わしてもらうんか」
鞄屋の主人の言葉に、小夜は困り果ててしまった。それを言われると返す言葉もない。
「……そ……それは……」
「ほなら、そういうこっちゃろ」
「おっちゃんら、近いで。もうちっと下がり」
しどろもどろになっていた小夜と年配者たちの間に割って入ったのは、お店の少年だった。彼はテーブルに中ジョッキと新たな串カツを置いて、続ける。
「それにな、たぶんこのふたりまだそういう仲ちゃうわ。いまめっちゃ微妙なとこやからあんま邪魔したらあかんで。で、分団長何にする?」
「なんや、往来であーんとかしとんのにまだくっついてへんのか。俺はいつもんでええわ」
「あいつ、案外へたれやな。ぼん、俺に焼酎のおかわりくれや」
「あと串てきとうにみつくろって持ってきてや。で、おねーちゃん、あいつのなにが嫌なん? つきおうたらええやん。ファットはええ男やで」
独りごちたり、注文したり、小夜に語りかけたりと、おじさんたちは忙しい。――と、最後に小夜に語りかけた鞄屋の店主がにやにやしながら続ける。
「せや、せっかくやから、おねーちゃんがファットに惚れてまうように、おっちゃんたちがあいつがどんだけの男か、いままでの活躍をお話しといたろ」
「そらええわ」
こちらが口を挟む間もなく、年配者たちは自分たちの皿やグラスを小夜たちのテーブルに運び、どんどん話を進めていく。なんだか変な流れになってしまった。
もちろん、このひとたちに悪気はないのはわかっている。おそらく危険もないだろう。
ファットガムが地元で人気があるのは、愛嬌たっぷりの人柄だけでなくその強さからでもある。彼は市民には優しいが、こと敵とみなした相手には容赦しない。それを目の当たりにしてきた江洲羽のひとたちが、彼の連れに手を出すとは思えなかった。
それに、自分の知らないファットガムの話を聞きたい気持ちも、たしかにある。
「なにから話そか」
「やっぱりファットちゅうたらあれやろ」
「ああ。組事務所に単身乗り込んで壊滅させたっちゅう……」
「ちゃうやろ。ここでファットの話するなら、まずは江洲羽商店街爆破事件やろが」
「……わかっとるわ。ちょっとボケただけやんか」
「爆破事件?」
聞いたことのない事件の名に、小夜は思わず口をはさんだ。
「せや、あれはすごかったなぁ」
「俺ら消防団員は、ぜんぶこの目でみてしもたもんなぁ」
それは四年ほど前のこと。
江洲羽商店街に、一帯全てを吹き飛ばす規模の大型時限爆弾がしかけられた。幸いにもその爆弾は犯人が予告した時間の三十分前に発見されたが、実際に爆弾にセットされていた時刻は、予告時間よりかなり早かったという。
発見時、爆破までの時間は、二分を切っていたと。
爆発まで二分と知らされた時、消防団の面々は凍りついた。予告時間三十分前に撤収する算段で避難誘導の手伝いをしていたからだ。
「……どうなったんです? 二分で爆発物を処理できたんでしょうか?」
「そこやで」
おそらく無事に処理されたのだろう。大型の爆弾であればそれなりの被害が出て、江洲羽の民ではない小夜の記憶にも残ったはずだ。
だがそれにしては事件名がおかしい。爆発しなかったなら、江洲羽商店街爆破「未遂」事件と呼ばれるべきだ。
そう口にした小夜に、和菓子店の店主が白髪まじりの顎ひげを擦りながら、まあ聞けや、と嘯いた。
「そん時に自分の身体を盾にして爆弾の威力を封じ込め、街を守ったんがファットや」
ぞわ、と全身の毛が逆立った。
そんなことをしたら、ファットガムは――。
鞄屋の店主が後を続ける。
「ほんま無茶しよるわな。あん時はみんなファットは死んだ思たわ。まあ、幸い無事だったわけやけど」
「あれ、一歩間違えたら死んどったやろ。全身複雑骨折で集中治療室からしばらく出られんかったくらいやし」
「臓器の摘出も検討されたちゅう話も聞いとるで」
幸いにもファットガムの臓器はそのまま残されたのだが、それでも一ヶ月の入院を必要としたという。
「あの爆弾をファットがとめへんかったら、ここら一体がえらいことになっとったわ」
「……そんな大きな事件なのに、わたし、まったく存じ上げませんでした」
「そらあそうやろ。ケガをしたのは当のファットひとりでな、市民は全員無事やったし、街にもたいした被害が出えへんかった。当日のニュースで、『敵のしかけた爆弾をヒーローのファットガムが身体を張って止めました』って流れただけで終わったわ」
「そうだったんですね……」
分団長の話をきいて、小夜は大きく息をついた。
職業がら、ヒーローの殉死については何度か耳にしたことがある。彼らヒーローは文字通り命をかける。市井の人々を守るために。
そんな彼らが命を落とさぬために小夜たちが開発しているのが、ヒーロースーツであり、サポートアイテムだ。以前ファットガムが「このスーツは俺らの誇りや」と言っていたのは、そういうことだ。
「以来、俺ら江洲羽っこはみんなファットが大好きや。全国区ではオールマイトやエンデヴァーが幅きかせとるかもしれんがな、俺らにとって、ヒーローいうたら、やっぱりファットや。ご当地ヒーロー、ファットガムが一番なんや」
「あんたがいま一緒におる男はな、そういう男やで。どないや」
「ええ男なんやわ。大事にしたって」
「ですから……」
許されるならそうしたいと思いながら声を詰まらせた小夜の横で、酒を運んできた少年が、口をひらいた
「おっちゃんら、おねーさん困っとるで。そのへんにしとき」
「なんや、なまいき言うようになったやん。自分あの爆破事件の時、こっちが引くほどわんわん泣いとったやんか」
「あ……あんときは小さかったからや。おねーさん、今のは忘れたって」
少し照れくさそうに頬を染めながら、少年は続ける。
「やけど、俺にとっても憧れのヒーローちゅうたらファットやな」
「ぼんはあの頃からずいぶんかわいがられとるからな」
「せやな」
きけば少年は、この街で生まれ育ったわけではないらしい。
彼は四年前、両親の離婚により横浜からこの街に越してきた。越してきたばかりの頃は、なかなか街にも新しい学校にもなじめなかったと彼は言う。それでもいいと斜に構え、いつもひとりでいたところに声をかけてくれたのが、ファットガムだったという。
「ファットはこの街を守りながら、ちっぽけな子どもの心も救けようとしてくれてたんやわ。もしこの街にファットがおらへんかったら、俺、どないなってたかわからへん……ほんできっと、そういうの、俺だけやないと思うねん。ファットはきっと、ああやって街の弱いもんを見つけては守り、救けてきたんやわ」
ファットガムが街を歩くと、街の人々は声をかける。彼が笑うと街の人々は安心する。それはゆるキャラのような見た目のかわいさからだけではなく、また、圧倒的な力で敵を制するからだけでもない。
BMIヒーローファットガムは、ずっとこうしてこの街を守ってきたのだ。地味だけれども、地道に。
その時、からりと戸があいて、電話を終えたファットガムが顔を出した。なにかあったのだろうか、やや眉を寄せた表情はひどく厳しく、小夜がいままで見たことがないものだった。
「お?」
一拍ほど置いて、ファットガムがこちらを向いた。瞬時に、彼の周囲にまとわりついていた剣呑な雰囲気が消える。次いで大柄なヒーローは軽く眉をさげ、少し呆れたように笑った。
「おっちゃんら、俺の席で俺の連れ囲んでなにしとんねん」
「おお、今な、このおねーちゃんにおまえのこと売り込んどいてやったで」
「なんや、それ」
「おまえのかつての活躍をな、教えたったっちゅーわけや。なあおねーちゃん、聞いたら惚れてもうたやろ」
そうですね、と小夜は本音半分、愛想半分に笑った。
ファットガムが、悪いなぁ、と言いながら小夜の隣に腰を下ろす。さきほどまで彼が座っていた席が、年配者たちに占拠されてしまっていたからだ。
「やめたってや、明らかに困っとるやんか。小夜ちゃん、すまんなあ。おっちゃんら悪気はないねん、許したって」
「大丈夫です。楽しかったですよ」
「ほら、言うたやん」
「おっちゃんは黙っとって」
呆れ声でそう言うと、ファットガムはテーブルの串カツをがっと掴んで口に入れた。次いで特大ジョッキのビールをがぶがぶと飲み干し、少年におかわりを要求する。
本当によく食べよく飲む人だと、小夜は思う。
「で、何きいたん? ヤクザの事務所に乗り込んで潰したやつ?」
隣のファットが、ちょっと目を細めて小夜を見つめた。
この笑い方はだめ、と小夜は思う。だって、どきどきしてしまうから。
それにこの距離もまずい。ファットガムは痩せても身体が大きいから、数人が座れる席であっても、一緒に座るとちょっとしたはずみで身体の一部が触れてしまう。彼の身体に触れている自分の肩が、とても熱い。
そしてこのひとは、自分の持つ色気に気がついているのだろうか。
距離感と色気に当てられていっぱいいっぱいになってしまった小夜がファットに応えるその前に、和菓子店の主人が口をひらいた。
「それもあるけど、ファット言うたら爆破事件やろ」
「おっちゃんにはきいてへんちゅーねん。しかも、よりにもよってあれかいな。女のひとドン引きするやつやんか」
とファットガムがため息をつく。
「なんや自分、まだあの子のこと忘れとらんのか」
「そこに触れるの、もうやめたってぇ」
ファットガムが苦笑した。
――前にちょっと大きなケガしてん。そんときにな、あない危ないことするならもうついていかれへん言われて、振られてしもたんよ。
以前彼が語った言葉が、脳裏によみがえる。
その時、分団長がぽつりと言った。
「まあ、あん子も、かわいそやったな……自分の彼氏が死にかけとるとき、情報番組でそのニュース読まされて」
「アッカーン!」
ファットガムの声が分団長の言葉を遮った。が、小夜にははっきり聞こえてしまった。
そして、テレビでニュースを読む職業といえば、ひとつ。
「そら、絶対言うたらあかんやつ!」
初めて会った時、ファットガムは小夜の出身校を当て、その後、少し微妙な顔をした。
小夜の母校である姫百合女学院は、私立女子大の中では一二を争う高偏差値校だ。女性アナウンサーも多く排出している。その中に、現在関西で圧倒的な人気を誇る美人アナがいたはずだ。小夜より七つ、ファットガムより三つ年上。だが童顔なので実年齢よりはやや若く見える。かわいくもあり、美人でもある、そんなひと。
「あの……もしかして、わたしの先輩に当たる方ですか?」
ファットガムは口をへの字にまげたまま答えない。けれどこれは、おそらく無言の肯定だ。
「朝見アナ?」
ぼそりとつぶやくと、ファットが、げっ、と声をあげた。
「おねーちゃん、すごいな」
「なんでわかったん?」
「以前、わたしの出身校の話になったときに、ファットガムさんが微妙なお顔をされていたので」
「なんや君、怖ッ!」
そう叫んで、ファットは串カツを五本まとめて口に放り込んだ。あっという間にそれを飲み込み、彼は続ける。
「他で言わんといてや。俺はええけど、あっちは人気商売やから」
「はい」
微笑みながら小夜はうなずく。
けれど、その内心で、小夜は打ちのめされていた。ファットガムのことを知りたい気持ちはあったけれど、これに関しては知りたくなかった。
とうてい太刀打ちできる相手ではない。
朝見アナは、テレビでは明るくてよく食べるきさくな美人という位置づけだが、その実、とても優秀な人物だった。五カ国語を操るうえに、卒論で外部の賞も取っている。また主席で小学部に入学し、そのままずっと主席を通して大学を卒業したという、学内では伝説の人物でもあった。
やや童顔で頑張り屋のかわいいひと、妙に具体的なそのたとえにぴったりの女性だ。
(きっとあの時、ファットガムさんは朝見アナのことを言っていたんだ。別れた今でも、きっと彼は……)
そう考えたら泣きたくなった。かたや関西地区で絶大な人気を誇るヒーロー、かたや関西ナンバーワンの女子アナ。人気者同士でお似合いだ。
「食いっぷりのええ、かわええ子やったな」
和菓子屋の店主の言葉に、せやな、と、ファットガムがほんのわずかに口角をあげた。微かなさみしさを含んだようなその笑みが、小夜の胸につきささる。
「まあ、気丈な子やったな。忘れへんわ。顔色ひとつ変えずにあの事件のニュース読んで、番組終わったその足で病院に駆けつけてな、その後はおまえのいる集中治療室の前で、ずっと声も出さず泣いとった」
「それ言われると、返す言葉もないわ」
しみじみ語る分団長とファットの間に、鞄屋の店主が割って入った。
「しかし、自分よくすんなり別れたな。振られたちゅうても、惚れとるからこそ耐え切れへんちゅうて切り出された別れやろ。そのへんうまいこと答えておけば、別れんとすんだんとちゃうか?」
「そらあ……できんよ」
「なんでや。自分、あの子にめちゃめちゃ惚れとったやんか」
それなァ、とファットは笑った。
「惚れてたよ。ものごっつう惚れとりました。せやけど、またおんなじような事件が目の前で起きたら、俺はまたおんなじような行動をとるわ。ほんで、そういう俺が嫌やちゅうんならしゃあないやんか。なんやかんや言うても、俺はヒーローやし」
ほろ苦く笑いながら告げられた言葉に、小夜の胸が強く痛んだ。
「せやろ。俺らヒーローが高い金もろて、市民のみなさんにちやほやされるのはなぜや? おのれの身体張って、市民の皆さんと街の平和を守るからやないか!」
ごっごっごっごっ、と音をたて、ファットガムは巨大ジョッキのビールをまたしても飲み干した。
「ぼん、おかわり」と叫んで、彼は続ける。
「ぼくはヒーローです。個性と身体に恵まれました。悪い奴をやっつけます。せやからみんなにちやほやされます。同世代の普通の男の何倍も収入あります。地元のCMにもばんばん出ます。ぼくの宣伝しとるたこ野郎のでかタコはうんまいで、買うたってやー。ほんでも、やっつけるのは自分より弱い相手だけで、ほんまに危険な勝負はやりません、って、なんやそれ」
ファットガムは吐き捨てるように、一気に語った。だが強い口調とはうらはらに、彼はひどく悲しそうに見えた。
金かがった琥珀色の瞳がかすかに揺れているのを、小夜はたしかに見て取った。
「……それはヒーローやのうて、クズやな」
「それ、ちゃんとあの子に話したんかいな」
「おう、話したで。キレ散らかしながらなぁ。せやけど、それも理解した上で、危ないことはせえへんといてって泣きながら言われたわ。そん時、俺はもう無理や思うた……なんぼ惚れた女の頼みでも、俺はクズにはなれへんよ」
「おまえ、まだ彼女に未練あるんか?」
「いや、四年も経っとるんやで、さすがにそれはあらへんよ。あらへんけども、せやな……」
と、ファットガムは少し考えるような顔をした。言葉を探しているように。
「やさしいひとやったんや……頭のええ、やさしいひとやった。せやから、あんときも自分の言うとることがどんだけのことか、ちゃんとわかっとったやろ。苦しかったはずやな。そんなあのひとに、あっこまで言わせてしもたんは俺や思うと、今でも苦しなることがある……そんだけや」
うっすらと金がかったアンバーの瞳が、透明感のある琥珀が、大きく揺れている。
それをこれ以上見ていたくなくて、小夜はそっと彼から目をそらした。
「そらあかんやろ」
と、その時、変声期特有の掠れた声と共に、ファットガムの頭をすぱんと叩いた者がいた。小夜が驚きつつ顔を上げた先に立っていたのは、おかわりのビールを持ってきた少年だ。
次に小夜ははたかれたファットガムに視線を移した。彼は一瞬はっとしたような顔をして、次に、微笑しながら頭をかいた。
「せやな。今のはファットさんがあかんかった。せっかく小夜ちゃんといるのに、こんな暗い話したらあかんやんなあ」
場を和ませるように、ファットガムが笑う。彼に乗っかる形で、おじさんたちも「せやな」「あかんかった」「俺らアウトや」と言いながら互いの頭をすぱん、すぱん、と叩きあう。
儀式のようなはたき合いが終わると、分団長が口を開いた。
「ほんならあれやな。おまえのデビュー戦の話したろか。あれ、めっさおもろいねん」
「ちょお、待ちぃ。それこそほんまにあかんやつやん。堪忍してえな」
「ほんでな、おねーちゃん。こいつそんときな」
「やめえ言うとるやろ」
結局この年配者たちはこのままファットガムと小夜を解放してくれることはなく、ファットガムの食欲もまた、平太の食材がつきるまで続いたのだった。
***
「なんや、今日もいろいろうるそうて、すまんかったなぁ」
店の外に出たとたん、すまなさそうにファットガムが小夜に告げた。
「いいえ。楽しかったです」
「そう? ならええんやけど……」
ファットガムがくちごもった。彼は少し考え混むような顔をして、腕時計を見やる。ガンメタリックの、文字盤が大きな時計だ。それは彼がさきほど好きだと言っていた、ちいさなメーターがたくさんついたクロノグラフ。
「もう一件ちゅーにはちょっと遅いねんな。ファットさんが駅まで送ってったろ」
そう告げて、ファットガムが歩き出し、小夜も歩を進める。
年末の繁華街は騒がしい。人でごった返しているメインストリートはさけ、人の少ない、だがそれなりに明るい通りをとりとめのない話をしながらふたりで歩いた。
ファットガムは背が高い。自分のそれよりもはるか上にある彼の顔を見るために、小夜は軽く上を向く。
やっぱりかっこいいな、と小夜は思った。
いつもの丸い姿もかわいいけれど、肉が落ち、目鼻立ちがはっきり際立つ今の姿もまた好きだ。金がかった琥珀色の瞳、上向き気味ではあるが形のいい鼻、大きい口と白い歯。
痩せたファットガムは、きれいな顎のラインをしている。頭のかたちも同様だ。普段は隠れている耳がかわいく、短く切りそろえられた後ろ髪とそれに続くうなじがセクシーだと思った。
マウンテンパーカーの上からでもわかる、首から肩に続く僧帽筋の盛り上がりがすてき。広い肩、厚い胸、がっしりと張った腰、常よりも細い、けれどしっかり筋肉のついた長い足も。
けれど小夜が好きなのは、こうした見た目だけではない。ファットガムというひとの生き方が、このひとのすべてが、こんなにも好きだ。
でもこのひとはわたしのことを見ていない、小夜は内心でそうつぶやく。
あなたはその琥珀の瞳で、いったい誰を見ているのでしょうか。あの美しい年上のひとを、いまでも?
「なん?」
「いえ」
悲しくも切ない気持ちに気づかれたくなくて、小夜は当たり障りのない言葉を探した。けれど答えはみつからない。だから黙って下を向いた。その時。
「昔のことやで」
ぽつりと呟かれた言葉。
弾かれたように顔を上げると、小夜の頭よりすこし高い位置に、腰を大きくかがめてこちらをのぞき込む、ファットガムの顔があった。
「今はもう、ちゃうねん」
「……はい」
金がかった琥珀色の瞳の上で、金色の短髪が揺れている。そのむこうには、やはり金に輝く見事な満月。
冬は空気が澄んでいるから、星や月がより美しい。墨を掃いたような空に浮かぶ氷輪は、煌めく星々を従え、冴え冴えと輝く。
ああ、なんて綺麗な、きんいろの月。
「「あ」」
二人同時に、声をあげた。
「なんや、かぶってしもたなあ」
「ほんとに」
「君からどうぞ」
「たいしたことじゃないんで、ファットさんから」
「ええんや。レディーファースト言うやんか」
すきなひとと、綺麗な景色を共有したい。しごく普通の感情だ。かつて「人は美しいものを見た時、愛した人にそれを見せたいと思う生き物だ」と言った作家がいた。それは本当だなと小夜は思う。だから。
「見てください」
「んー?」
小夜が上空を指さすと、ファットガムもそれに合わせて上空を振り仰ぐ。
「月がきれいですね」
告げたとたん、ファットガムが元から大きな目をますます大きく丸くした。そのリアクションを見て、小夜もはたと気がついた。
「月がきれい」という言葉は、遠回しな愛の告白でもあると。
「あ、いえ……今のはですね」
慌てて否定しようとしたその時、ファットガムがやわらかく笑んだ。琥珀の色をした目を、少し細めて。
「せやな、俺もそう思うで」
ファットガムはマウンテンパーカーのポケットに手を突っ込んだまま、小夜に言った。もう一度、空を見上げて。
白い息と共に吐き出された声は、いつもよりも甘い気がした。
「ほんま、きっれいなお月さんやわ」
ふたたび軽く背を曲げたファットガムが小夜のほうに向き直り、いたずらっぽく、にっ、と笑った。
そしてファットガムはそれ以上、何も言わなかった。だから彼の言葉がただ単に景色を褒めたものなのか、それとも別の意味があったのか、小夜にはわからない。
それでも、なぜか心はあたたかかった。
玲瓏とした金のひかりがふりそそぐ、今宵は天満月の夜。
太陽光より優しく柔らかなひかりを浴びながら、小夜はファットガムと駅までの道を歩いた。お互いになにも語らぬそのままで。
2021.4.14
四年前の爆破事件とお店の男の子とのお話「俺のヒーロー」は【こちら】に置いてあります。ちなみに元カノは出ません。もしご興味があれば
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