東京の夏は暑い。ぎらつく太陽と街行く人々の熱気、アスファルトの照り返しの強さに、眩暈がしそうだ。
マイトさんと身体を合わせるようになって知った。ベッドの上で触れる、男のひとのからだは熱い。
夏の熱とあのひとの熱、わたしはその両方に狂わされている。
マイトさんは優しい。けれど、あの人といるといつも大きな不安がつきまとう。
マイトさんは、時々なにかを言いかけてはやめる。
マイトさんは、ときたままったく連絡がとれなくなることがある。
マイトさんは、しょっちゅう血を吐く。
あのひとはなにを隠しているのだろう。いいえ、わたしは、あのひとのことをどこまで知っているのだろうか。
マイトさんの身体は、全身傷だらけだ。ことに左胸からわき腹にかけての傷がひどい。あれが原因で臓器を失ったのだろうと、彼の口から聞くまでもなく推察できる。
だが古傷だけではなく、身体を合わせるごとに増える、新しい傷。
いやな想像が頭をよぎる。
あのひとがなにをしているのか、ずっと謎だった。
はじめは、オールマイトと声があまりにも似ているので、忙しいトップヒーローの声を使う部分で、その代わりを務めているのではないかと思っていた。
が、どうやら違う。そんな仕事で傷を負うことはまずない。
もしヒーロー活動をしているなら、やめてほしいと思った。どんな個性を持っているのかは知らないが、あの身体でヒーローなどという過酷な仕事を続けていたらどうなるか、小さな子供でもわかろうものだ。
そしてもっともわたしが気になっていることは、事務所の書類の中に、『マイト』という名前がないことだった。どこをあさっても、彼に関する記録はひとつも見つからない。
それなのにあのひとは、特別な人間しか立ち入ることができないエリアに、なんの制限もなく出入りしている。
オールマイトはマイトさんになにをさせているの?
ナンバーワンヒーローが表ざたにできないような、汚い仕事を?
特別扱いはそのためなの?
疑惑は次々と空気が送り込まれる風船のように日々大きくなり、わたしを押しつぶそうとする。
しかもわたしは、マイトという名前が、彼の本名かどうかさえ知らないのだ。
わたしが秘書を通してオールマイトからの呼び出しを受けたのは、そんな疑惑が限界まで肥大化した、猛暑の昼のことだった。
オールマイトの執務室は、フロアの最奥。いくつものセキュリティを通り抜けた先にある。
マイトさんと出会ったのは、この、立ち入り禁止と書かれたひとつめの扉の前だった。けれど、今日そこでわたしを出迎えてくれたのは、オールマイトの美しい秘書だ。何度か食事をしたことがある。連絡先も交換している。
それなのに、この日の秘書はずっと無言のままだった。美しい秘書は執務室の重厚な扉の前で立ち止まり、かたい表情をくずさぬまま、わたしを中へと促した。
見た目通りの、重たい扉をあける。
毛足の長い上質そうなじゅうたんと、その上に置かれた革張りのソファーセットが真っ先に目に飛び込んできた。奥にはオーク材でできた巨大なデスクと、それと同じ色の書類棚がずらり。
そして、二メートルを大きくこえる巨体が、立ち上がってわたしを出迎えた。
「ああ。よく来てくれたね。まあ、かけたまえ」
聞き覚えのある、心地よい低音だった。あのひととよく似た、落ちつきのある渋い声。
少し緊張しながら、それにいらえる。
「いいえ、このままで大丈夫です。あの、本日はどういったご用件でしょうか?」
「そんなに硬くならなくても大丈夫だよ。君に話があるんだ」
「はい」
と、答えた瞬間、違和感をおぼえた。
オールマイトが着ている、光沢のある茶色のチョークストライプのスーツ。そのとろりとした生地に、見覚えがある。
なんだろう、嫌な感じだ。妙な既視感。
わたしはいまままで、重大なことに気づかずにきたのではないだろうか。
空調が効いているはずなのに、この部屋はやけに暑く感じる。そのせいだろうか、それとも奇妙な既視感のせいだろうか。ひどい眩暈がした。
ぐらりと身体がよろけたところを、さっと伸びてきた逞しい腕に支えられた。
礼を言おうとした瞬間、自分の鼻腔に飛び込んできた香りに、全身の毛が逆立った。
わたしの身長は女性としてはごく平均的だ。だからオールマイトの腹のあたりに顔が来る。
そこから漂うドライフルーツ入りのブランデーケーキのような、バニラの甘さにスパイスと白檀が追いかけてくるような、複雑な香りに覚えがあった。
この香りは――。
気づけば、自分を支えてくれていたオールマイトを突き飛ばすように、距離を取っていた。
ああ、そうだったのか。
今まで謎だったことのすべてが、パズルのピースがはまるように、収まるところに収まってゆく。
マイトさんの「マイト」は、苗字でもなければ名前でもない。かのヒーローの名前の一部を取ったもの。そしてそのヒーローとは……。
「……マイトさん……なの?」
私の問いかけに、オールマイトが身じろぎをした。
やっぱり、と、絶望的な気持ちで目の前のひとをただ見つめる。
オールマイトが、大きく息をついた。まるで、なにかをあきらめたかのような表情で。一瞬ののち、大きな身体を水蒸気のようなものが覆いはじめた。ナンバーワンヒーローの体躯からみるみるうちに筋肉が落ちてゆく。そして水蒸気の中から、よく知っている、痩せた身体が現れた。
「あなたが私を呼び出したのは……このことを知らせるため?」
「そうだ……今まで隠していてすまない……」
くるみ、という声と共に伸ばされた手を、反射的に払った。瞬間、マイトさん……痩せたオールマイトは、ひどく傷ついた顔をした。
「騙すつもりはなかった。ずっと言わなければと思っていた。君には……」
「すみません」
オールマイトの声を遮ったのは、驚くくらい冷静なわたしの声だった。
「もう、業務に戻ってもよろしいでしょうか」
ぐっとオールマイトが息を飲んだ。
「…………わかった……戻りたまえ」
彼はそれ以上のことは口にせず、しずかに口角をあげた。見慣れたはずのマイトさんの笑顔が、なぜか泣き顔のように見え、胸が痛んだ。
***
事務室に戻ると、事務長をはじめとする面々に、なにがあったのかと心配された。
「弟がオールマイトの設けている奨学金を受けているんです。そのことでした」
ごまかして、笑いながら席に着く。
だが、自分のデスクに戻っても、仕事が手につくはずなどなかった。
まさか、マイトさんがオールマイトだったとは。
けれどそれならばわかる。社内に設けられた、あの異常なまでのセキュリティの理由が。
オールマイトの肉体があそこまで衰えていることを、外部はおろか、内部にも知られてはならない。このことが公になれば、それこそ世界がひっくり返る。
彼の立場を思えば、いくら恋人とはいえ、そう簡単に明かせることではないと思った。それに、出会いの状況からして、本当のことは言い出しにくかったに違いない。
あのひとがずっと言いよどんでいたのは、このことだったのだ。だから、騙されたとは思わなかった。
けれどこれから、いままでどおりのつきあいを続けていくことはできない。
あんな身体になっても、あのひとはヒーローをやめられないのだ。引退どころか、その衰えですら、外部に明かすことができないのだから。
胃を失い、肺の半分を失い、全身を己のものか敵のものかもわからぬほどの血で染めあげて、オールマイトはそれでも笑う。なにも知らない民衆は、助けてくれと彼を呼ぶ。彼の痛みに気づくことなく、オールマイトは無敵と讃える。
ぞっとした。
彼は今まで、どれほどのものを背負って生きてきたのだろうか。
――いつか王子様が迎えにきてくれる。そしてわたしは、王子様とお城の中でしあわせに暮らすの――。もちろん、現在のこの国では、そんなことは望めない。だから王子様のかわりに、オールマイトに見初められたい。それがマイトさんと出会うまでの、わたしの夢だった。
どこまでわたしは子供だったのか。ナンバーワンヒーローの妻になるということは、そんなに生易しいものではないというのに。
たとえなにが起ころうと、彼は笑いながら孤独の淵に立つだろう。
どれほどの苦痛に襲われようと、彼は笑みながら、死に立ち向かってゆくだろう。
真実を知ってしまったわたしは、彼と同じように微笑んで、去りゆく大きな背中を見送らなければならない。
無理だ。できるわけがない。耐えられるわけがない。
真実を知らなかった時ですら、危険な事をしているならすぐにやめてほしいと思っていたくらいなのに。
臓器を失い、血を吐きながら、それでも戦うあのひとを見ていることなど、きっとできない。愛すればこそ、見守り続ける自信がない。
皮肉だと思う。
あれほど憧れた、ナンバーワンヒーローとのつきあい。なのに、マイトさんがオールマイトであると知ったことで、わたしは彼との別れを考え始めている。
そしてわたしは、この日を境に、マイトさんとの連絡を絶った。
***
沈む夕日を、ただ眺めていた。オレンジ色に染まる夏の空が、ひどく美しく見えて、わたしはひとり、息をつく。
あの空の下で、あのひとは今日も抗い続けているのだろうか。人知れず、血を吐きながら。
あれから、ひと月近くが経過しようとしている。
送られてきたメッセージは、読みもせずに放置した。かかってきた電話にも、一度たりとも出ることはなく。
それを二週間ほど繰り返したら、やがて、あちらからの連絡も途絶えた。
メッセージを読まなかったのも、電話に出なかったのも、会いたくなってしまうから。
会ったりしたら、別れることなどできないだろうと思うから。
けれど、自分から別れのメッセージを送ることもできなかった。
わたしは本当にいやな女だ。
初めてあのひとと出会った日から、まだ四か月しか経っていない。そのはずなのに、ひどく遠い昔のことのような気がする。
オールマイトとの結婚を夢見ていた女の子は、もう、どこにもいない。
味噌汁の鍋に刻んだねぎを入れたその時、携帯が鳴った。画面に映し出された「マイト」の文字。
コールは四つ、五つと続いていく。
出てはだめ。
でもこれを逃したら、きっともう連絡はこない。会えなくなるのはいや。
それでも出てはだめ。出てはいけない。
八つ。九つ。コールは続く。
十コール目の途中で、わたしの指と感情は、わたしの理性を裏切った。
「もしもし」
耳孔に流れ込む、懐かしい低音。締めつけられる胸、相反するふたつの気持ちに、切り裂かれる心。
「君に会いたい」
そのささやきが聞こえた瞬間、ほろほろと涙が落ちた。
これは誰のための涙なのだろう。
弱い己を責めるためなのか。それとも、電話の向こうの、強くて優しい人のためなのか。
結局わたしは、マイトさんと会う約束をしてしまった。
会いたい、会いたくない。会いたくないのに、会いたい。
本当は今すぐにでも駆けだして、あの薄い胸に飛び込みたい。
けれど、それをしたらおしまいだと思った。
彼を想い案じるからこそ、共に修羅の道を進む勇気がもてない。
孤高のヒーローとして生きようとしている彼を、黙って送り出すことなどできやしない。
相反する気持ちと同じように、見ることができないくせに消すこともできないニュースの音声が、室内を流れ続ける。
『今日もオールマイトが事件を解決しました』
『オールマイト、平和の象徴』
『世界を守る無敵のスーパーヒーロー』
『その存在そのものが、悪への抑止力となる』
満身創痍でこの世界を守り続けているヒーローは、誰にも救けてもらえない。
だれかお願い、あの人を救けて。
あの孤独な背中を、あの傷だらけの身体を、あの優しい笑顔を、誰か守って。
せめてあの気高い心だけでも、どうか安らかでありますように。
ああ。わたしはこんなにも、まだ彼のことを愛している。
涙をふいて、窓の外を見やった。さきほどまでオレンジ色だった空を、墨を刷いたような闇がじわじわと飲みこんでいく。
夕闇に包まれていく街をながめながら、あの空は今のわたしの心のようだと思った。
いつかまた、この心にも太陽が昇る日がくるのだろうか。
誰よりも強くて優しいあのひとは、わたしにとって、太陽だった。
2015.3.18
2017.10.8 加筆修正