最終話 晩夏の薔薇

 空調の効いた執務室から、夏の終わりを満喫する人々でにぎわう、日本庭園を見ていた。上層階から見下ろす庭園は、まるでよくできたジオラマのようだ。
 もう夏も終わるのかと、大きくため息をついた。この部屋でくるみと話してから、もうすぐ、ひと月になる。あれを最後に、彼女と連絡がとれなくなった。
 メッセージを入れても電話をしても、梨のつぶてだった。二週間近くそんなことを繰り返して、さすがに、もうだめなのだろうと思い至った。

 私はこの執務室にいて、くるみは事務室にいる。同じビルの同じフロアにいるのに、姿を見ることすらできない。
 眼下には、小さな日本庭園。あの庭園のベンチで彼女と語り合ったのは、晩夏の逃げ水のような、まぼろしであったのだろうか。
 いや、あの恋を夢幻にしてしまったのは、私だ。
 春の嵐のようなあの子は、私の手をすり抜けて、遠い所へ行ってしまった。

「オールマイトさん」

 呆けたように庭園を見おろしていると、背後から、やわらかなアルトに声をかけられた。

「少し、よろしいでしょうか?」
「ああ、君か。なんだい?」
「もう、あのお嬢さんとはお会いにならないのですか?」

 驚いて、どういらえるべきか少し迷った。
 長年ヒーローをやっているが、私の私生活に踏み込み、ずけずけと物を言うことができた部下は、今ここにいない元サイドキックただひとり。

 たいていの秘書がそうであるように、この女性は雇い主の私生活に口をはさむタイプではない。この才媛が秘書に就任してからの四年の間、そんなことは一度もなかった。
 それだけに、君には関係がないと簡単に切り捨てることは、できないような気がした。

「ああそうか。君たち、たまにランチをする仲だったね」
「あれ以来、くるみさんとは一度も会っていません。けれどわたしは、今でも彼女の友人のつもりでおりますわ。ところで、オールマイトさん。ご存知でしょうか?」
「なにをだい?」
「わたし、あのお嬢さんに『マイトさん』のことをたずねられたことがないんです。マイトさんがここで何をしているのか、本名はなんというのか、オールマイトとマイトさんの関係がなんなのか。私がそれを知っているだろうと承知しながら、くるみさんは一度たりともその質問を口にしませんでした。それが、どれほどのことかわかりますか?」
「……手厳しいね」
「そこまでの覚悟ができる女性は、なかなかいません。本当に、このままでよろしいのですか?」

 しっかりしろよと、背中をばしりと叩かれたような気がした。

「出過ぎたことを申しました。お許しください」
「いや。君の言うとおりだ」

 くるみに真実を伝えるのなら、梅雨冷の夜、恵比寿のホテルルームできちんと話をすべきだったのだ。
 あの日言いかけてカルバドスと共に飲み込もうとした真実は、アダムが飲み下せなかった林檎のかけらのように、今もなお私の喉の奥にひっかかり続けている。
 真実を伝えなければと思いながら、それを一日、また一日と引き伸ばしていたのは私だ。

 秘書が言うとおり、あの子の中に、私が何者なのかという疑問は、ずっとあったはずだ。けれどくるみは、私にすらそれをたずねてこなかった。否、それとなく探りをいれてはきていた。けれどそれをはぐらかしているうちに、たずねることを諦めたようだった。
 一度、きかれたことがある。定期的に昼食をとるようになって、何度目かの昼のことだ。
 スペイン料理の店で、くるみはわたしの目をじっと見つめて、問うたのだ。

「ねえ、マイトさん?」
「ん?」
「オールマイトの事務所に入って、長いのよね」
「……まあ……そうだね……ずいぶん経つよ」
「大物ヒーローの事務所には、存在を明らかにされていないヒーローや影武者がいるって、本当?」
「なんだい? それ?」
「昨日そんな番組を見たから……」
「それは都市伝説関係の番組だな? 影武者なんているはずないじゃないか」
「……そうなんだ」
「でもね、これはうちの事務所にそういう人間がいるって話じゃなくて、ヒーロー界っていう大きなくくりでの話だけど、オールマイトが本名を公開していないように、自分のプライバシーをまったく明かさないヒーローはいるよ。家族に自分がヒーローであることを隠している者もいると聞いたことがある。ま、個人のスタイルや事情によって、いろいろだろうな」
「そう……」
「ン? どうしたの?」
「ううん。なんでもない」

 以来、くるみが私について、根掘り葉掘り聞くことはなくなった。

 今にして思えば、私は甘えていたのだ。
 奔放なようで、重要な部分では常に私の立場を尊重してくれる、くるみの優しさに。
 そしてあの子が私を避けているのは、私がオールマイトであることを隠していたことだけが原因ではないような気がした。
 もちろん、それも大きな要因であるだろうが、一番ではない。
 いつもあの子は、私の身体を心配していた。血を吐くたび、息切れして休むたび、新しい傷が増えるたび、常に泣きそうな顔で私を見ていた。
 だからこそ真実を知ってしまった今、くるみがどんな気持ちでいるのか、なんとなくわかる。

 しかし、本当にこのまま終わりにしていいのだろうか。
 普通に考えれば、あきらめるべきだろう。別れを決意した相手にすがることほど、ぶざまなことはない。
 だが、終わりになるならなるで、きっちり始末をつけたいと思った。このまま連絡も取れず、自然消滅するなど耐えられない。

「すまないが、少し席をはずしてもらえないか」
「はい」

 秘書は目だけで微笑んで、執務室を後にした。

 ぶるり、と身震いした。執務室の気温が、一気に数度下がったような気がしたからだ。
 ばかばかしいと独りごちて、肩を一度ぐるりと回した。

「出てもらえなかったら、これできっぱり諦めよう」

 と、ぽつりとつぶやく。

 大きく深呼吸をしてから、くるみの番号を呼びだした。
 ひとつ、ふたつ、と心の中でカウントをとる。覚悟を決めて聞いたコール音は、常よりもひどくゆっくりとしたものに感じられた。
 ななつ。やっつ。コールは続く。
 そして十コール目で、懐かしい声とつながった。

「もしもし」

 柔らかな声を聞いた瞬間、情けないことに足が震えた。
 なんということだ。どんなに強い敵と対峙した時も、こんなに不安な気持ちになることはなかったというのに。

「会いたい」
「……」

 電話の向こうで、泣いているような気配がした。
 許されるなら、いますぐくるみの住まう街まで飛んで行って、あの細い肩を抱きしめたい。だが、それをすることは許されない。
 彼女は、電話の向こうで逡巡しているようだった。

「会いたいんだ。君がもう終わりにしたいというのなら、それでもかまわない。最後に一度だけでも、会ってもらえないだろうか」
「……今度の土曜……薔薇」
「え?」
「土曜の午後一時に、北区の都立庭園で……」

 その声は、やっぱり、泣いているようにしか聞こえなかった。

***

 北区にあるその庭園は、かつての貴族の邸宅跡だ。武蔵野台地の特徴をいかしたつくりで、小高い丘には洋館、斜面にはテラス式の洋風庭園、そして低地には日本庭園を有している。
 おとぎばなしに出てくるような洋館の前に広がる庭園は、春と秋には見事な薔薇が咲くという。
 あの子は、ここが大好きだと言っていた。秋になったら一緒に薔薇を見に行こうと、約束した覚えもある。
 しかし今、春の薔薇はとうに終わり、秋の薔薇はまだこれからだ。
 私とくるみの関係は、春の薔薇と秋の薔薇、いったいどちらになるのだろうか。

 それにしても、夏ももう終わろうというのに、なんという暑さだ。
 スーツで来てしまったことを後悔しながら、ひたすら歩く。
 洋館から西門に続く道の前に、移動式花屋のワゴン車が止まっているのが見える。
 薔薇や鉢植えがずらりと並ぶのを眺めるうちに、かつてくるみが嬉しそうに語っていたことを思い出した。

「ダズンローズでプロポーズされるのが夢なの」

 柔らかな声で、そう語ったくるみ。
 ダズンローズとは、古代ヨーロッパの風習らしい。男はプロポーズの時に、十二本の薔薇を女性に渡す。薔薇を受け取った女性は、その中から一輪を抜き取り、それを男の胸元に挿すことで、快諾の意を表すという。

『オールマイトに一ダースの薔薇と共にプロポーズされて、承諾の証にその一輪を彼のスーツのフラワーホールに刺すの』

 あの時の夢見る少女のような顔を、私は今でも鮮明に思い出すことができる。

 ダズンローズか、と小さく呟いた。
 確かに最終手段だが、今それをするのは大きな賭けだ。彼女が別れを選択しているとしたら、これ以上重い小道具はないだろう。

 しかし別れを決めているのなら、わざわざ会ったりするだろうか?
 あのまま、もうあなたとは会えないと言えば、それで済んだのではないだろうか?
 情けない話だが、こんな小さな希望にもすがってしまう自分がいる。

 洋風庭園を横目で見ながら、目的の場所に向かって歩いた。茶室のわきを通り抜け、階段を下りる。
 たどりついた日本庭園は、池の周囲に大滝や枯山水などが配された、しっとりとした雰囲気だった。
 夏の終わりを告げるような、セミの鳴き声が聞こえる。
 木陰のベンチに座り、くるみを待った。
 あつらえられた滝から、水の流れる音が聞こえてくる。涼しげな音に少し慰められた気がして、ふうと一つ、息をついた。
 そのとき、私の心臓が大きく跳ね上がった。くるみがこちらに向かってくるのが見えたからだ。

 会ったら話したいことがたくさんあった。伝えたいこともたくさんあった。だがいろいろ考えていたことすべてが、くるみの姿を見たとたん、忘却の彼方へ吹き飛んだ。

 しかし、彼女が抱えているのはいったいなんだ? いや、なにを抱えているのかはわかる。が、なぜそれを抱えているのかがわからない。
 不思議そうな顔をしているだろう私に、くるみが微笑む。でも、どうみても、それは作り笑いにしか見えなくて。

「もう大丈夫、わたしが来た」

 くるみがいきなり、そう言った。

「は?」
「わたしがあなたを守ります」

 守る? そんな小さな君が、私、オールマイトをか。

 そしてずいと目前に差し出されたのは、十二本の赤い薔薇。

 完敗だ。
 こんなに見事な敗北があるだろうか。
 くるみ。本当に、君はいつも、私の予想の上を行く。

 ぽろぽろと涙をこぼしながら、くるみが必死で笑顔を作る。
 これを決意するまで、どれほど苦悩したのだろう。真実を知りながら私と共に歩もうとするなど、並大抵の覚悟ではできない。

 会わない間に、君は少し痩せたね。すまない。ああ、そんなに泣いて。泣きながら笑うもんだから、また鼻水がたれているじゃないか。かわいい顔がだいなしだよ。

 個人として守るものができると弱くなると思い、独り身を貫いてきた。
 いつ死ぬかわからない身であるから一人でいいと、常に自分に言い聞かせてきた。
 そんな考え、いますぐここで捨ててやる。

 今、こんなにも、君が愛しい。

「くるみ」

 くるみの差し出す薔薇の中から一輪だけをそっと抜き取り、適度な長さにぽきりと折って、スーツのラペルにそっと差しこむ。
 涙と鼻水にまみれながら笑顔を作るかわいい頬を一撫でし、残り十一本の花ごと、くるみをふわりと抱き上げた。

2015.3.18
2017.10.8 加筆修正
月とうさぎ