窓の外は篠突く雨。
六月も終わりだというのに、今日の気温の低さはどうしたことだ。
上着の襟を整えながら、私は先日自分の身に起きたことを思い出していた。困ったことに、あの小悪魔の作った弁当はうまかった。まったく、至極うまかった。
まずいな、と正直思う。ないはずの胃袋を、がっちり掴まれてしまった気がする。
あの日、池のほとりで手をつないだ。まるでティーンのカップルみたいに、池の向こうに咲く花を二人で眺めながら。
まったく、私は何をしているのか。
かわいさに騙される青い男ばかりじゃないとか、男がみんな同じだなんて思うなよとか、ほざいていたのはいったい誰だ。
あの子の場合、本人がモテを意識してやっていることより、無意識の行動の方により威力があるのだから、始末が悪い。
くるみ、悔しいが認める。どうやら、掴まれたのは胃袋だけではないようだ。
***
今日のランチは、六本木通りから一本入った路地にある、こぢんまりした割烹だ。この路地は、気取らないけれど雰囲気のいい店が多い。
意外なことに、玉の輿を狙っているはずのくるみは、なかなか私に奢らせてくれなかった。最初にレストランでランチをしたとき、あろうことかワリカンを提案された。
冗談じゃない。それなりの年齢の男が、若い女性と食事をしてお金を払わせることほど、格好の悪いことはない。
そう伝えたら会計の場では私を立て、菓子やパンなど、軽くつまめるものを――出会った頃、少量の食事を複数回とる、と言ったことを覚えていてくれたのだと思う――後から渡してくるようになった。
それが手をつないだあの日以来、弁当にかわった。外食をしたら、次はくるみが弁当を作ってきてくれる。
そんなに気を遣わなくていいのにと思う気持ちが半分、手作りの弁当を食べられて嬉しいという気持ちが半分。
ざまあみろ、オールマイト。お前はまだくるみの手作り弁当を食ってないだろう。そんな風に、思ってしまうことがある。
恋する男ってのは、馬鹿なもんだな。オールマイトは私なのに。
***
本日のランチメニューである揚げ鶏のプレートをつつきながら、くるみが口を開いた。
「ね、オールマイトの秘書、知ってるよね?」
「ん……ああ」
「こないだランチしたんだ」
「え? いつの間にそんなに仲良くなったの?」
「ハンバーガーショップで並んでいたら、あちらから声をかけてくれて、そのまま……」
「ああ、そう」
秘書とどんな話をしたのだろう。オールマイトのことでも聞き出したのか……と思った瞬間、胸の奥がきりりと痛んだ。
「あのひと、超きれいよね。知的だし。率直にきくけど、どう思う? 好みのタイプ?」
「オールマイトのかい?」
「ううん、マイトさんの」
「彼女は仕事上のパートナーの一人だから、そんな目で見たことはないな」
「うっそだぁ」
「まあ、美人だとは思うよ」
そう告げた瞬間、くるみのかわいい顔が大きくひきつった。やきもちを妬いてくれているのだろうか、そうだとしたらとても嬉しい。
心配いらないよ。彼女は美人だけれど、私が好きなのは君だから。
そう言えたなら、どんなにいいだろう。けれど、それを口に出すことはできない。
なぜならくるみが惹かれているのはただのマイトではなく、オールマイトの経済力と知名度なのだから。
困ったことに、私は自分に嫉妬している。こんなに間抜けな話はない。
いっそ、自分がオールマイトであることをあかしてしまおうかと思ってしまうことがある。くるみはオールマイトに近づきたい。私はくるみとつきあいたい。互いの希望がおそらくかなう。
だが、やっぱりそんなやり方はしたくない。彼女にはヒーローのオールマイトではなく、この姿の私を好きになってほしい。
子どもじみている、と思う。くだらない、ちっぽけなプライドだと。
けれど男ってやつは、そんなちっぽけなプライドってやつを、何より大事にする生き物だ。
***
恵比寿のラグジュアリーホテルで開かれた会合は、想像以上に豪華なものだった。
マッスルフォームでいられる時間は限られる。こうした会への出席は極力辞退してきたが、かつてお世話になった元ヒーローの、自伝出版のレセプションパーティーとなれば、そういうわけにもいかなかった。
当の元ヒーローにはスポンサーがべったりくっついており、私は私で群がるお偉いさんに囲まれて、あいさつ程度の話しかできないまま、パーティーは終了してしまったのだが。
まあ、仕方ない。こんな日もある。
会の終了と同時に、トイレに駆けこんだ。周囲に誰もいないことを確認してから、個室でトゥルーフォームに戻り、エレベーターに乗りこむ。しかし今日は疲れたなと、大きくため息。
明日の予定を秘書に確認しつつエレベーターから降りたその時、聞き覚えのある声が私を呼んだ。
「マイトさん?」
振り向いた先に立っていたのは、私のかわいい小悪魔、くるみだった。
そういえば、今夜は恵比寿で友達と会うと言っていた。恵比寿と言っても、店はたくさんある。まさか、同じホテルで食事をしていたとは思わなかった。
「どうして?」
「なにが?」
「だいきらい!」
公衆の面前であるにもかかわらず叫んだくるみは、なんの躊躇もせず、ホテルの外へと飛び出していった。
外は、朝からの強い雨。
「いったい、どうしたんだ?」
「本当にわからないんですか?」
呆れたような秘書の声に、私は軽く眉を上げる。いや……わかると小さくつぶやき、悪いねと目で合図すると、どうぞと目礼が返ってきた。こういう時、大人の女はありがたい。
泣きながら飛び出していったくるみを追って、私も土砂降りのなかを走り出す。
小悪魔はどっちの方向に行ったのだろうかと自問して、おそらく駅の方だろうと自答した。己のカンを頼りに、恵比寿の街をひた走る。
疲労困憊、吐血寸前、勘弁してくれ。
限界を迎えるその寸前、四十階建てのタワーに抜ける道の途中で、くるみが座り込んでいるのを見つけた。
滝のように振り続ける雨に打たれ、ご自慢の流行の髪形も、かわいい服もだいなしだ。
「風邪をひくよ」
「別にいいもんっ!」
「いいからほら、とりあえず濡れないところに……ぐえっ」
言いかけたところを、くるみが私の腰をめがけてタックルしてきた。危なくひっくり返りそうになり、なんとかこらえる。
いくら油断していたからとはいえ、ナンバーワンヒーローが女の子に倒されたんじゃ話にならない。
「ばかっ!」
くるみが私の左わき腹を、ばしばし叩いた。
そこはやめてくれ、弱いんだ。君の力でも充分痛い。
「いったい、どうしたっていうんだ?」
「知らないもん。マイトさんなんか嫌い」
「それはさっき聞いた。だから、どうして?」
「あのひととはなんでもないって言ってたのに!」
「あのひとって秘書のことかい? 本当になんでもないよ。さっきのは仕事で……」
「そんな雰囲気には見えなかったもん。だいたいどうして、オールマイトじゃなくてマイトさんが秘書と一緒にいるのよ」
痛いところをつかれた。
けれど、秘書といただけで浮気がばれたみたいになっているのはどういうことだ。
「雰囲気うんぬんに関しては、君の主観だろう? だいいち、君はオールマイトをゲットすることにしか興味がないんじゃなかったのか?」
「そんなのもういい。オールマイトはもうどうでもいい」
涙をボロボロ流しながら、くるみが私にしがみついて叫んだ。
「好きなんだもん。わたしはマイトさんが好き!」
この瞬間、世界から私たち二人以外のすべてが消えたような気がした。
滝のような雨音も車のクラクションの音も聞こえない。人々の姿も、しゃれた街並みもなにも見えない。
反射的にくるみを抱きしめ、なかば強引に唇を奪った。
噛みつくようなキスに応えるどころか口を閉じたまま硬直しているようすに、おそらく初めてなのだろうと、ますます愛しさがつのる。
もうこのまま、すべてを奪ってしまいたい。
唇をゆっくり解放すると、くるみが私の名を呼んだ。
君ねえ、自分がいま、どんな顔をしているかわかっているかい?
雨と涙と鼻水で、手間暇かけたメイクとやらが、全部流れてぐちゃぐちゃだ。だけどそんな顔してすがってこられるほうが、きっちり化粧をして取り澄ましている時よりも、ずっと愛しく思えるんだから、男ってのは難儀なもんだ。
梅雨冷、梅雨寒……六月だというのに初春に逆戻りしたような冷たい雨が、私たちの上に容赦なく降りそそぐ。
ふたりともぬれねずみだ。これでは電車にも、タクシーにも乗れない。けれどこのままでは風邪をひく。
困ったなと思いながら、思い切って問うてみた。
「さっきのホテルに戻って、濡れた服をどうにかしようか?」と。
***
「マイトさん……大丈夫?」
エレベーターに乗ったと同時にそう問われた。おそらく高級ホテルでの宿泊費を心配したのだろう。そういえば、この子はお金で苦労をしていた。
「あのね、私にもそれなりの収入があるんだよ」
だから大丈夫と、しずかに微笑む。
だがその時、くるみが小刻みに震えているのに気がついた。寒いのかと思いきや、どうやらどうではないらしい。顔をひきつらせて、まるで決死の覚悟を決めた兵士みたいな顔をしている。これから起こるだろうことを予測してのことなのだろうか。
まいったな、君が嫌がることをするつもりは毛頭ないんだ。君を欲しいとは思うけど、無理強いする気はまったくないよ。本当に、服と体を乾かすだけでかまわないんだ。君の怯えた顔なんて、一度見ればもう充分だ。
それに私は、一番大切なことを、まだ、君に話していない。
高層階に設けられたエグゼクティブ専用ラウンジでチェックインをすませ、部屋に入った。
高台に位置するこのホテルは、東京タワーや汐留の高層ビル群がよく見える。雨に濡れた都心の夜景は、映画のワンシーンのように美しい。
だがそんな夜景も目に入らないほど、くるみはがちがちに緊張していた。
気づかないふりでランドリーバッグを渡して、シャワーに行くよう促した。私もチェックイン時に頼んでおいた特大サイズのバスローブに着替え、サービスエキスプレスに連絡を入れる。
こうして、濡れた衣類を入れたランドリーバッグを出しておけば、指定の時間までにクリーニングを済ませておいてくれるのだから、便利なものだ。
浴室から出てくると、愛しい娘がバスローブ姿のまま、窓にしがみついて夜景を眺めていた。
「綺麗だろ」
背後から声をかけると、くるみは初めて会った時と同じくらい、大きく飛び上がって驚いた。
そんな反応しなくてもと、苦笑が漏れる。
「あのね、私は君がいやがることをするつもりはないんだ。時間をかけて、ゆっくり進めばいい。今日はここでのんびり過ごそう。なにか飲むかい? 君、お酒飲めたっけ?」
立石に水のごとく一息にまくしたててから、自分もそれなりに緊張していることに気がついた。冷静になれと己に言い聞かせつつ、ミニバーを眺めやる。
リラックスしたいときは、ごく少量のアルコールの力を借りるのがてっとり早い。
幸いにも、ミニバーには小さなカルバドスの瓶が置いてあった。冷蔵庫の中を確認すると、おあつらえ向きにレモンスカッシュが入っていた。これなら、ムーンライトクーラーが作れる。
「カルバドスで簡単なカクテルを作ろうと思うんだけど、どう?」
「カルバドスってなに?」
「リンゴで作ったブランデーだよ」
「飲んでみたい」
声を受け、高さのあるグラスに氷とカルバドス、レモンスカッシュをいれて軽くステアした。本来ならば炭酸水、レモン汁、シュガーシロップを使うのだけれど、細かいことは気にしない。
自分用にも、ロックグラスに極小量のカルバドスと氷を入れた。それをほんの少しだけ、ちびちび舐めればそれでいい。
くるみにカクテルを手渡して、そっとまぶたに口づける。と、私のかわいい小悪魔は、くすぐったそうにくすりと笑った。
***
東京タワーのライトアップをのぞめるソファの上で、幾度も口づけを繰り返した。
ついばむように、貪るように、喰らいつくすように。
髪に、額に、まぶたに、頬に、耳元に、首筋に、鎖骨に、そして唇に。
ロックグラスの氷が解け、小さくからりと音が鳴る。そのわずかな音を合図に、くるみからそっと身体を話して微笑んだ。名残惜しいが、これ以上進んだら、途中でやめることが難しくなる。
だが意外なことに、彼女は驚いたように、大きく目を見開いた。
「でも……」
「怖いんだろう? 一日で一気に進まなくてもいいんだ。ゆっくりいこう」
「……怖くないもん」
「無理しなくてもいい」
「……本当は怖いけど……マイトさんとなら大丈夫……」
消え入りそうな小さな声で、やさしくしてね、と、ささやかれた。
耳孔に忍び込んだその甘い声は、脳髄をとろけさせる媚薬だ。理性という名の箍が、一気に飛んだ。
たえきれず細い首筋に唇を寄せ、そのままくるみを抱き上げた。
くるみ、私は君に、伝えなくてはいけないことがある。でも、それは今でなくてもいいだろうか。
白いシーツの上にそっと彼女を横たえて、また口づけを交わした。
浅く、深く。弱く、強く。やさしく、激しく、また優しく。
梅雨冷の都心の夜景は、映画のように美しい。
時刻は深夜零時。東京タワーのランドマークライトが、ぷつりと消えた。
林檎の香りの吐息が、ひとつ……ふたつ……ゆっくりと部屋の中を満たしていった。
2015.3.14