薔薇の園で

 やわらかな秋の陽光が、咲き乱れる薔薇の上に、燦々と降りそそいでいる。

 階段状に連なる薔薇園のテラスと、その上にそびえるレンガ造りの洋館は、少女時代からのわたしの憧れ。王子様のようなひとと、こんな素敵なところで暮らせたらいい。
 抱いていたのは、甘いばかりの、そんな幼い夢。

「天候に恵まれてよかったな」

 かつて憧れた薔薇園で屈託なく笑う背の高いひとは、年の離れたわたしの恋人。彼は王子様と呼ぶにはずいぶんトウが立っているけれど、それでもわたしはしあわせだ。
 マイトさんは夢の中の王子様より、ずっと素敵なひとだから。

「ほんと、いいお天気。薔薇もすごいきれい」
「そうだな。先月はほとんどの枝がつぼみすらつけていなかったのに」
「ここね、昼もすてきなんだけど、夜になると薔薇園と洋館の両方がライトアップされるの。闇の中にぽうっと浮かび上がる洋館と、淡い光に照らされた薔薇の花がとても幻想的なんだよ」
「そうか。じゃあ、春の薔薇は夜に見に来ようか」

 うん、と小さくこたえて、彼の人差し指をきゅっと握りこんだ。六本木の小さな日本庭園で紫陽花を見た、あの日のように。
 わたしのしかけたいたずらに気づいたマイトさんが、ふふっと笑う。わたしも彼に笑みを返した。
 ピンク、黄、赤、白、オレンジ、セピア。とりどりの薔薇が咲き乱れるここは、さながら楽園。

「ここまでは無理だろうけど、わたしもいつか、自分の庭で薔薇を咲かせてみたいな」
「薔薇のある暮らしも悪くないね。戸建てに住むなら、私は大型犬を飼いたいと思っているんだけど、犬が薔薇の根っこを掘り返したりしないかな」

 わたしの夢の話なのに、マイトさんが自分の将来と重ねてくれたことが、とてもうれしい。
 だめだめ、とわたしは自分に言い聞かせた。
 ひと月ほど前、わたしはこの庭園でマイトさんにダズンローズを渡した。ダズンローズは、たしかにプロポーズの儀式のひとつではあるけれど、彼はあれを求愛と受け取っただろうが、求婚とは受け取っていないと思う。だからきっと、今のはただの軽口だ。ヘンに期待してはだめ。
 マイトさん……オールマイトは長年独身を貫いてきた。もしかしたら、命を削ってヒーロー活動を続けている彼は、生涯そのスタイルを貫くつもりなのかもしれない。
 彼は、わたしとどういうつもりでつきあっているのだろうか……そう情けないことを思いかけ、かぶりを振った。
 そういうことを、考えてはいけない。あの夏の日に、わたしは覚悟を決めたのだから。

「しかし、薔薇っていうのは、ずいぶんたくさんの種類があるんだな」

 咲き乱れる薔薇の花を眺めながら、マイトさんがまた笑う。
 薔薇は原種の交配の歴史が古いため、品種改良がすすみ、今では何万種類もの品種があるという。人の名前がついた花も多い。
 この一角だけでも、真紅のクレオパトラ、ローズピンクのマリアカラス、青紫のシャルル・ド・ゴール。ローマ教皇や英国女王の名をつけられた薔薇もある。

「あのピンクの薔薇はかわいいな」

 マイトさんが、カップ咲きの淡いピンク色の薔薇を指した。華麗さではきりりとした高芯咲きには一歩譲るが、ころりと丸いカップ咲きの薔薇は、やわらかでかわいらしい印象だ。

「まるで、君みたいだ」
「ふふ……ありがとう。あ、マイトさん、見て!」

 ピンク色の薔薇の隣に、鮮やかな黄色の、ひときわ大きな薔薇が咲いている。花径だけで軽く二十センチはありそうだ。超巨大輪の薔薇はいくつか見たことがあるけれど、ここまで大きいものは初めてだ。

「ね。あの大きな薔薇、ちょっとマイトさんみたい」
「ああ。あれはね……」

 マイトさんの言葉の続きを聞く前に、花壇の縁のプレートを見やった。そこにくっきり刻まれているのは、『オールマイト』の文字。

「え? これ……オールマイトっていうの?」
「うん。数年前になるけど、この薔薇の品種登録の際に依頼があってね。名前の使用許可を出した」

 法王猊下や女王陛下の薔薇に混じってひらく、彼の薔薇。
 こんなとき、民間人である自分とスーパースターである彼との差を感じて、わたしはすこしさみしくなる。わたしが好きになったのはオールマイトではなく、ただのマイトさんなのに。

「ほら、あっちに君が好きそうな物がたくさんならんでいるよ」

 というマイトさんの声をうけ、顔をあげた。
 薔薇園を出た先に、いつもの移動式花屋がある。その隣に、いくつかテント張りの売店が出ていた。
 売られているのは薔薇の香りの紅茶や石鹸。薔薇のオブジェなど、薔薇にちなんだお土産物だ。
 そのなかの「薔薇のはなびら入りアイスクリーム」と大きく書かれた看板に、わたしは目を奪われた。

「わあ、マイトさん。薔薇のアイスだって!」
「食べたい?」
「食べたい!」
「じゃあ、一つ買おうか」
「マイトさんは?」
「うーん。私、いまあれを全部食べきれる自信がないんだよね」

 へにゃりと笑んだ、その顔がかわいい。本当にかわいいひとだな、なんて思ってしまうのは、恋のなせるわざなのだろうか。

「じゃあ、ひとくちあげるね」
「ありがとう」
「わたし、買ってくるね」
「くるみ、待って」

 自身の名を持つ薔薇の前で、マイトさんがわたしの手首をつかんだ。いつになく、真剣な表情で。

「マイトさん?」
「俊典っていうんだ」
「はい?」

 いきなりの言葉に、意図がわからず、ただ聞き返した。

「八木俊典。それが私の本名だ」
「あの……マイトさん」
「なんだい?」
「それ……わたしに教えちゃっていいの?」
「ああ」
「だって……ナイショなんでしょう? プライベートは、いっさいあかさないんでしょう?」
「うん。一般にはね。でも君は、私にとって特別なひとだから」

 ほろりとひとすじ、涙がこぼれた。
 恋人の名前を知らないなんて、普通だったらあり得ない。けれど彼は秘密だらけのオールマイトだ。だからそれでも仕方がないと、ずっと自分に言い聞かせてきた。

「伝えるのが遅くなって、すまない」

 マイト……俊典さんが、ひざまずいて、わたしの手の甲にくちづけた。ううん、と静かに首を振る。
 この薔薇園で、あの美しい洋館の前で、王子様に愛を告げられる日をわたしがどれほど夢見たか、このひとは知らない。

 名前なんて、愛の言葉でもなんでもない。他の人にとってはきっと。けれどオールマイトである彼にとっては違う。名前をあかすということは、何より深い、愛の表現。
 そう思ったら、涙がぼろぼろとあふれ出た。

「ほら、そんなに泣くと、また鼻水が垂れちゃうよ。私の愛しいお嬢さん」

 マイトさんがひざまずいたまま、そっとわたしの頬に触れる。

「マイトさん……」
「俊典だよ」

 そっと触れるだけのキスをして、彼がわらった。

「涙を拭いたら、アイスを買いに行こうか」
「うん……ね、マイトさん」
「……俊典」
「ごめんなさい……つい……」
「いや……たしかに、ずっとそう呼ばせていたからね。急に名前で呼べと言われても困るよな。しばらくはマイトでもいいよ。ただ……」
「ただ?」

 と、彼が一度、言葉を切って、晴れわたった空の色をした目を、すっと細めた。こういう笑い方をした時のこのひとは、たいていイケナイことを考えている。

「そのかわり、ベッドの上でだけは、ちゃんと名前を呼んでくれよな」
「え?」
「君はちゃんと言えるかな。アイスを食べたら試してみようか」
「……こんな日の高いうちからは、ちょっと……」
「暗くなってからなら、いいんだ?」

 いたずらっぽく、にやりと笑った彼の胸を、どんと叩いた。

 やぎとしのり。
 初めて知った彼の名前は、珍しくもないありがちなもの。けれどその普通のお名前が、すごく大切なもののように思える。
 としのりさん、だなんて、なんだかとてもくすぐったい。もしかしたらわたしは、そのお名前を、普段呼ぶことはできないかもしれない。
 呼ぶのはきっと、特別なとき。

 大きな手をとって、ごつごつした甲に唇を落とした。いたずらものめ、と言いながら、彼がゆっくり口角をあげる。
 ああ、わたしはとてもしあわせだ。
 やわらかな秋の陽光が、微笑みあうわたしたちの上に、燦々と降りそそいでいる。

初出:2017.10.8(夢本書き下ろし)
月とうさぎ