湿度のみでなく、じわじわ気温までもが上がり始めたのを肌で感じながら、カッシーナのソファに腰掛けたままオールマイトは寝ぼけ眼をぐいとこすった。
隣に座っていたくるみが急に立ち上がったからだ。
そして彼女は高らかにこう宣言した。
「今日はマイトさんのしたいことを、思う存分してもらおうと思います!」
私の小悪魔がまた変なことを言い出した、とオールマイトは思った。
くるみはいつもそうだ。
しかも意見に同意しないと、膨れてすねてやや面倒なことになる。
ローテーブルの珈琲を手に取り、一口啜ってから低い声でゆっくり答えた。
「じゃあ旧岩崎邸にでも行こうか」
「そんなのダメ!」
「あれ? 君、行きたがってなかった? 可愛い服を着て素敵な洋館の前で写真を撮りたいって、前に言ってたじゃないか」
「だめなの。今日はマイトさんの行きたいところに行くの。お休みでゆっくりしたいならふたりでゆっくりするの。家でマッサージとかでもいいよ?」
小鳥みたいに小首を傾げてくるみは言う。
こういう素の部分に破壊力があるのが、小悪魔の小悪魔たる所以だ。
だが今の気分のまま『よし、このままベッドに直行だ』などと言ったら、彼女が怒るのは目に見えている。
「いや、君の行きたいところに行こうよ」
「今日が何の日か忘れたの?」
くるみがぷううと頬をふくらます。
今日が自分の誕生日であることに、オールマイトはようやく気付いた。だが可愛い反応に、ついついいたずら心が顔を出す。
「君、あれに似てるよね。ちょっとつつくとまんまるに膨れ上がる、黄色いフグ」
「!」
オールマイト曰くの小悪魔は、本当に遠慮などしない。
もう!ばか!などと言いながら、彼の弱点でもある左側の胸元をばしばし叩いてくる。
「痛い痛い。そこはやめてくれっていつも言ってるじゃないか。君、いつもここを狙って叩いてくるよね。左側はほんとにやめて」
「だって、マイトさんここじゃないと痛いって言わないんだもん」
ふんと横をむいてすねはじめたくるみを見つめながら、しかし、とオールマイトは思う。
くるみは確かに気紛れでわがままだ。
だがその実、彼女は本当に自分に尽くしてくれている。
低血糖にならないようにと、毎日弁当を三つも作って持たせてくれる。三つの弁当に同じおかずが入っていたことはない。
オールマイトの朝がどんなに早くても、必ずきちんとした朝食が用意されている。
帰りがどんなに遅くなったとしても、彼女が寝ていたためしなどない。
最近では栄養学の勉強まで密かに始めたようだ。おそらくは、胃袋がなく体重を落とし続けているオールマイトのために。
くるみは気づかれていないと思っているようだが、オールマイトは知っている。
「じゃあさ、新宿にちょっと変わったレストランがあるらしいんだけど、行ってみないか? そこでバースデーケーキを食べよう」
「マイトさんが行きたいならいいけど」
「うん、前から気になっていた店なんだよね」
嬉々として支度を始めたくるみを横目で見ながら、オールマイトは微笑んだ。
くるみがクローゼットから引っ張り出してきたのは、レースやフリルがあしらわれた七分袖のワンピースだ。不思議の国のアリスが着そうなふわふわしたデザインだが、地色がグレーでレースが黒なので、甘さはほんの少しだけ抑制されている。
薔薇に憧れるガーベラといった風情の彼女にはとてもよく似合っていた。
彼自身は、いつものアメカジではなく英国調の服装を意識してみた。糊のきいたシャツに、グレンチェックのベストとプレスの効いたパンツを合わせる。靴は茶系のストレートチップ、それと同色のハットを被った。
二人並んだその様子はさながら、帽子屋のお茶会に呼ばれたアリスと三月うさぎだ。
オールマイトにとって、自分の誕生日は周囲の人に感謝する日でもあった。
感謝の気持ちを少しだけくるみに返したい。彼は常にそう思っていた。
帰宅すると連絡を入れれば、家に着くころにはいつも温かい食事が用意されている。
汗を流したいと思った時に、バスタブの湯がちょうどいい温度に調節されている。
個人であることより公人であることを優先する彼を、黙って支えてくれている。
それがどれだけありがたいことかわからないほど、オールマイトは子供ではなかった。
あの店は、きっと彼女の気に入るだろう。そう確信してオールマイトは密かに笑むのだった。
***
「ねえ、ここ本当に来たかったの?」
「もちろんだよ」
ふくれっ面のくるみに、オールマイトがすっとぼけた声で答えた。
オールマイトは嘘つきだ。
『オールマイトは嘘をつかない』などと言うくせに、彼は時折、こういう優しい嘘をつく。
エントランスには本の形のオブジェが立ち並び、その奥にはハートの女王の城や帽子屋のお茶会をモチーフにした座席が待ち受ける。
ジョン・テニエルの挿絵による不思議の国のアリスの世界を再現したレストランは、さすがに彼の趣味とは思えない。
これはもう、完全にくるみの好みだ。
メニューの中ですら完璧にアリスの世界が再現されていることに、感嘆のため息が出る。
チェシャ猫のミートローフやハート型のピザ、トランプ兵のブラウニー。女王様のサラダには可愛い食用花があしらわれて。
「かわいい……」
「さすがにここは、君とじゃないと来られない」
「ねえ、だからブリティッシュトラッドっぽい服装にしたの?」
茶系のグレンチェックのベストと同系色のパンツは細身の彼によく映えていた。金色の髪の上にさりげなく鎮座しているハットもまた同様に。
パンツとシャツはいつものように大き目だったが、ベストだけは今の彼の体躯に合うサイズだ。クラシカルなシルエットが命の英国調スタイルは、スリムな方が似合う。
そして手足が長くて背の高い彼は、それだけで人目を引いた。
くるみの問いに、ふふ、とオールマイトが小さく笑んだ。
本当に食えないひと、と、くるみは心の中でため息をつく。
それにしてもこんな店をどこで探してきたのだろう。本当にオールマイトは女子力が高い。
ヒーロー時の彼の姿を思い描きながら『メルヘンヒーロー・オールマイト』と心の中で呟いたら、あまりにおかしくて笑ってしまった。
笑うくるみを見て、オールマイトはますます嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。
彼はいつもそうだ。
くるみが彼を甘やかしたいのに、彼はくるみを「私の小悪魔」と呼び、べたべたに甘やかす。クロテッドクリームや蜂蜜がたっぷりのったスコーンのように。
嬉しい、それはほんとうに嬉しいけれど、自分は彼のためにいったい何ができるのだろう。
せめてお誕生日くらいは、彼を祝わせてもらえないだろうか?
世界を支える孤独な英雄。
彼が無理に笑わなくてもいい場所を、心からくつろげる場所を、自分は用意できているだろうか。
くるみはいつも自分にそう問いかけている。
***
アリスのレストランを堪能した後、西新宿の街を駅方面に向かって歩く。梅雨の晴れ間は気温も湿気も跳ね上がり、不快指数も総じて高い。
こんな日は、犯罪件数が上昇する。
とその時、絹を引き裂くような女性の声が響き渡った。
くるみが思わずオールマイトを仰ぎ見る。
彼がへにゃりと苦笑する。
諦めたような無言の笑顔で彼女が答える。
「ゴメン」
声だけ残して、彼は雑踏の中へと消えた。
おそらくすぐに、事件は解決するだろう。
だがそのヒーローがどれだけの犠牲を払っているのか、人々は知らない。
帰ってきたら、彼の疲れを労おうとくるみは思う。
リラックスできるようなアロマのお風呂を用意して、腸にやさしいお料理を作って、気持ちよく眠れる寝床を用意して。彼が安心して休める場所を作る。
それがくるみにできる、ただ一つのことだから。
人込みを避けた物陰でマッスルフォームへと姿を変えながら、オールマイトは思う。
只々ありがとうと。
オールマイトはヒーローとしては一流だが、私人としては三流以下だ。
こうして常に、ヒーロー活動を優先してしまうのだから。
だから彼は感謝している。くるみがそばにいてくれることに。
この日この世に生まれてきてくれた、あなたに。
この世に生をうけたこの日、君に。
心からの祝福と、そして感謝を。
2015.4.23
2015オールマイト生誕祭企画に提出したお話