通りを渡る爽やかな風が、街路樹を揺らしている。わたしの想い人の瞳と同じ色をした空は、どこまでも高い。ここちよい、五月の晴れの日曜日。
けれどわたしの心は、あの空とはまったく逆の曇天模様。なぜって、わたしはまたしても、マイトさん……オールマイトに約束をすっぽかされたから。
話は、半年ほど前にさかのぼる。
「ウェディングドレスなんだけどさ、オーダーしたらどうかな」
六本木のマンションで、テレビから流れる除夜の鐘をききながら、マイトさんがいきなりそう言った。
オールマイトは秘密主義。結婚を公にしない、披露宴もしない、挙式にも彼の関係者はこない。式に参列してくれるのは、わたしの母と弟だけだ。わたしは結婚式に、友達も親戚も、呼ぶことはできない。
それだけではない。写真は撮ってもかまわないし、人に見せてもいい。けれど、それをはがきにして送ってはいけない。つまり、二人の写真を誰かの手元に残るようにしてはいけない、ということだ。
『オールマイト』の事情はわかっている。わかっているけれど、ないない尽くしの結婚は少しさみしい。そう思っていた矢先の、一言だった。
「でも、ウェディングドレスなんて、一度しか着ないのにもったいないよ」
「なに。一生に一度だからこそじゃないか。どうせだったら、セミオーダーではなく、フルオーダーにするといい。もちろん、お金は私が出すよ」
デザイン、生地、レース、モチーフ。それらすべてを自分の好きに決められる、フルオーダー。世界にたった一枚の、わたしだけのドレス。それを夢見たことがないと言ったら、嘘になる。
「ああ。やりたいって顔だね。そうしろよ。一生の記念になる一着だ。君の好きなように作るといい。デザインや生地を選ぶときは、私も一緒に行くからさ」
マイトさんは爽やかに笑みながら、そう言ったのだ。
しかし、その「一緒に行く」という約束は、一度も果たされることはなかった。
サンプルドレスを試着しながら大まかなデザインを決めた一月の時も、採寸して生地や細部の作りを決定した二月も、仮縫いの三月の時も、本仮縫いの先月も、そして最終フィッティングの今日も、彼は時間に間に合わなかった。
ティアラもブーケもなにもかも、結局、わたしが一人で決めた。
あなたの衣装はどうするのときいたときも、自分で用意するからいいよと言われてしまった。仕事柄、タキシードも数着所有している彼だ。手持ちのもので間に合わせるつもりなのかもしれない。
一度、どれにするかをたずねたけれど、当日までナイショだよ、と言われてしまった。
マイトさんは、着道楽の伊達男。色だけは「白にして」とお願いさせてもらったが、小物その他のコーディ-ネートも、彼のセンスなら、きっと問題ないだろう。
しかし一つだけ、心配がある。
手持ちの服ということは、おそらくマッスルフォームのサイズで作られたもの。普段の、あの痩せたマイトさんの体に合わせたものではない。
もしかして、結婚式の途中で事件が起きたら、わたしを置いて人助けに行くつもりなのだろうか。
あり得ない話ではない。
だって彼は、自己を殺したエゴイスト。己の決めた道のため、己の命を削って生きる、オールマイトなのだもの。
式当日、たったひとりチャペルに取り残される自分の姿を想像して、かなしくなった。
「お嬢様」
フィッティング担当者に声をかけられ、我に返った。
ごめんなさい、大丈夫です。と、答えてから、鏡の前の自分をみつめる。
ああ、やっぱり素敵。
フランス製のリバーレース――もちろんモチーフは薔薇だ――をたっぷりと使用した、プリンセスラインのウェディングドレス。もちろん、トレーンは長く、贅沢に。
ウエストのバック部分には大きなリボン。リボンの中央にも薔薇のモチーフがひとつ。
自分で言うのもなんだけど、とてもかわいい。
こんなにかわいい花嫁さんなんか、そうそういないんだから。今日見なかったら、当日まで見られないんだからね。マイトさんのばか。……と、心の中で、まだ来ぬ彼に悪態をついた。
***
ため息をいくつもつきながら、外苑東通りをとぼとぼと歩く。
通りを渡る、爽やかな風。青く澄みきった空に浮かんだ白い雲。風薫る五月。わたしはこの季節が好き……なはずだけれど、心の雲はちっとも晴れない。
覚悟はしていたはずなのに、彼と結婚したらきっとこれが日常になるんだと、ちょっと泣きたくなったりもして。
約束を反故にされることなんて、今までだって何度もあったはずなのに。もしかして、これもマリッジブルーの一種なのだろうか。
今日はこのあと、マイトさんの家に寄ることになっている。この通りをこのまままっすぐ進めば、十五分ほどで着くだろう。けれど、たまにはこちらが約束を破ることがあってもいいんじゃないかなんて、意地悪なことを考えた。
いやだな、そんなことをしても、誰も幸せになれないのに。
そう何度目かわからないため息をついたとき、聞き覚えのある声に名を呼ばれたような気がして、わたしは立ち止まった。
まさか、と思いながら振り返る。
瞳がとらえたのは、わたしが今来た通りを駆けてくる、ひときわ目立つ長身痩躯。
「ゴメン……間に合わなかった。入れ違いに……なっちゃったみたい……だね。店に行ったら……君はもう……帰ったと言われてしまって……」
「きてくれたんだ……」
ああ、こんなに息を切らして。こんなに額に汗を浮かべて。
ふいに、ドレスを作ると決めたときのやりとりが、脳裏に浮かんだ。
「純白のウェディングドレスは絶対はずせないけど、色ドレスも着たかったなぁ」
ぽつりとそう漏らしたわたしに、マイトさんは言った。
「それは写真館で撮影したらどうかな。なんならそっちのドレスも作ればいい」
「……白無垢と色打掛も着たかった」
「それも着たらいいよ。仕立てるかい?」
さすがに色ドレスと着物はレンタルでいいと答えたけれど――当然、写真は撮る――君が希望するならば全部作ってもいいよと、彼は言ってくれたのだ。
それだけじゃない。
マイトさんは、これからふたりで使う家具のほとんどを、わたし好みのもので新調していいと言ってくれた。彼がどうしてもと残したがったのは、欧州製の大きなソファがひとつだけ。
婚約指輪はわたしの憧れのブランドの、憧れのデザイン。
結婚についてだってそうだ。マイトさんは今年に入ってすぐの入籍を望んだけれど、ジューンブライドにこだわったわたしのために、六月まで待ってくれた。
クリスチャンでもないくせに、教会での挙式にこだわったわたしのせいで、マイトさんは教会での講習を余儀なくされた。一回一時間半の講習を、五回も。
そちらに時間をとられたのだから、ドレス選びや仮縫いに彼が来られないことは仕方がないことなのだ。
それなのに。それなのにわたしは――。
さきほどまでのいじけた自分がなさけなくて、涙が出そうだ。
「ごめん。本当に」
わたしの表情を勘違いしたマイトさんが、申し訳なさそうにこちらを見おろす。
「違うの。間に合わなくても、こうして来てくれただけで嬉しい」
「……もう、君って子はホントに……」
マイトさんが、わたしをきゅっと抱きしめた。彼の腕はとても長いから、平均的な身長のわたしは、中にすっぽり収まってしまう。
「でも、今日も間に合わなくて、ごめん……」
「ほんとはわたしもね、ちょっとだけマイトさんのばか、って思ってた」
そう告げると、ゴメン、とまたマイトさんが眉をさげる。
「でもね、お店のひとにちゃんと写真撮ってもらったよ。あとで見てくれる?」
「もちろんだよ。ドレス姿の君は、きっと世界一かわいいだろうな」
「うん。わたしもそう思う」
「……君のそういうところ、出会ったころからまったくぶれないよな……」
「そんなところも好きでしょ?」
君ねぇ……と一瞬呆れ顔をして、マイトさんがわたしの頭をくしゃりと撫でた。
***
六月の、最初の日曜日。わたしたちは朝一番で婚姻届を出し、そのままの足で、二人そろって教会にきた。
わたしたちが式をあげるのは、都心にあるとは思えない、小さな森の中のこぢんまりした教会だ。ファサードが蔦に覆われた、おとぎ話の中に出てきそうな、かわいいチャペル。
支度が済み、母と話をしていると、マイトさんが新婦控室に顔を出した。
わたしを見たマイトさんは、一度大きく目をまたたかせ、少しの間そのままでいたが、やがてちいさな声で、きれいだ、と言った。
「ありがとう」
「ほんとうに、とてもきれいだよ。私は世界一の幸せ者だな」
そう言って、気の早い新郎はわたしのベールにキスを落とした。
「もう……キスはまだダメ。神様の前で誓ってからにして」
「了解。じゃあ、あとでたっぷりね」
もう、とふくれると、ははは、と彼は高らかに笑う。
「それ……」
と、わたしはマイトさんの姿をまじまじと見つめてつぶやいた。
約束通り、今日の彼は白のタキシードを着ている。けれど想像していたのとは大きく違い、細い彼の体にぴったり合った衣装だった。
「いつもスーツをオーダーしているところで作ったんだ」
「タキシードはいくつも持っているのに、わざわざ?」
「そりゃあそうさ。今日は私たちふたりにとって、特別な日だからね」
「……うれしい……ありがとう。そのタキシード、とてもよく似合ってる」
背の高い彼は、思った通り白いタキシードがよく似合う。黒やグレーも、金色の髪がよく映えて、それは素敵だろうと思うけれど。
でも、わたしが彼に白のタキシードをリクエストしたのには、他にも理由がある。
白は何物にも染められていない色。だから花嫁の色は白と言われる。だけど、わたしばかりがあなたの色に染まるなんて、そんなの本物の愛じゃない。
もちろん、ヒーローとしてのオールマイトを変えることなんて、誰にもできない。だからふつうのひととして生きているときのマイトさんを、八木俊典を、わたしの色に染めたいの。
わたしはあなたの色に、あなたはわたしの色に。互いに互いを染めあって、そこから生まれた新しい色が、家族のカラーになってゆく。そんな夫婦になりたいという願いを込めて、互いの衣装を白にした。
「我々の門出が天候に恵まれて本当によかった。六月は雨が多いからね」
「本当ね」
控室の窓から、外を見やった。
この季節ならではの濃い緑のすきまから、さしこむ木漏れ日。光のかけらたちがきらきらとふりそそぐあの小道を、わたしは彼と歩んでいく。神様の前で、八木俊典の妻となることを誓った、その後で。
ヒーローとして完璧なオールマイトの内側は、矛盾した部分だらけの普通のひとだ。優しくて強くて、そして本当は脆いひと。自己を殺して生きる利他主義者なのに、別の意味ではひどく利己主義。そんな彼の帰る場所に、わたしはなりたい。
しあわせになろうね、と笑うマイトさんに、うん、とちいさくうなずいた。
ああ、本当に。わたしたちが過ごすこれからの日々が、すばらしいものになりますように。
そう願いながら、わたしはそっと微笑んだ。
初出:2017.10.8(夢本書き下ろし)