赤ずきんちゃん気をつけて

 爽やかな風が、くるみの髪を揺らした。秋の風は心地よい。その風にのってどこからか漂ってくる、この香りは金木犀。
 公園内に植えられているのだろうかと、ぐるりと周囲を見渡す。残念ながら、金木犀は見つけられなかった。
 けれど公園内の木々は赤く色づいていて、とても綺麗だ。

「あれ? 君……」

 金木犀の香りと共に、背後から懐かしい声が響いた。
 覚えのある声に、くるみは胸を躍らせながら振りかえる。その先に立っていたのは、予想通り、かつて淡い恋心をいだいていた相手だった。

***

 芝生広場に面したレストランで、くるみは男と向き合っていた。

「へえ、君、この辺に住んでるんだ」
「ええ。あなたは?」
「勤め先がこのあたりなんだよね」

 そう言って笑う彼の目の前にはペンネアラビアータとエスプレッソ。くるみの前には、フェットチーネとカプチーノ。彼は、くるみが高校時代に好きだった相手だ。
 中堅どころの都立高。その普通科にいたくるみと、ヒーロー科の彼。

 高校三年の時に、彼とはほんの少しだけ付き合った。学校から駅まで一緒に帰ったり、遊園地に二人で出かけたりした。そのうち互いに受験や就職活動で忙しくなり、自然消滅してしまった。そんな程度の付き合いだった。
 それでも、少女時代の淡い恋心というものは懐かしいものだ。

 だからランチをとりながら、お互いの現状を話し合った。聞けば彼は、この近辺のヒーロー事務所に勤めているという。

「え? このあたり? どこ?」
「ここだけの話なんだけど」

 と、声を落として彼は続ける。

「事情があってマスコミには発表していないんだけどね、実は、三年ほど前からオールマイトのサイドキックとして働いてるんだ」

 あまりの衝撃に、頭がくらくらした。
 悲しいが、彼は嘘をついている。それが本当であれば、自分がオールマイトの事務所に勤めていた時期と重なるはずだ。けれど彼の名前は聞いたことがない。どうしてそんな嘘をつくのだろうか。
 悲しい思いで、彼を見つめた。
 よく見ると、彼はどことなくだらしなかった。スーツの袖口はほつれ、シャツの首筋にはうっすらと輪染みが浮き出ている。まだ二十代前半だというのに、まるで生活に疲れた中年男性のようだ。
 声も顔も、彼が大人になったらきっとこんな感じだろうと想像していたままなのに、かつての彼と今の彼とは、なにかが大きく違ってしまっている。
 思い出の中の彼と、目の前で嘘の活躍を語り続けるくたびれた男は、まったくの別人のように思えた。

「ねえ、君の連絡先を教えてくれないかな」

 食事がすむと、彼はくるみの手を取り、そう言った。
 心が、ますます冷えていった。
 つき合っていたころはキス一つできなかった彼が、あんなにシャイだった彼が、数年ぶりに合った相手に、こんなことをするなんて。
 さりげなく手を振りほどきながら、くるみは思う。
 懐かしさに「ランチだけなら」と、誘いに乗ってみたけれど。本当に軽率だった。

「ごめんなさい。さっきも話したけれど、わたし、結婚してるの」
「そんなの、ダンナに黙っていればわからないよ」
「そういうことはしたくないの」
「……そうかよ」

 彼は固い声でそう告げて、荒々しく席を立った。あろうことか、自分の食べた分すら支払わずに。
 残念なことだが、彼は変わってしまったのだ。
 美しかった思い出が汚されてしまったような気がして、くるみは大きくため息をついた。

***

「ただいま」

 誰もいなくても、ついついそう声に出してしまう。これは習慣のようなものだ。
 だが今日は、普段なら返ってこないはずの応えがあった。

「おかえり」
「マイトさん? 帰ってたの? お仕事は?」

 だが、これに対する返答はない。
 おかしいなと思いながら、くるみはオールマイトを見やった。彼はお気に入りのソファに長身をあずけたまま、こちらのほうを見ようともしない。

「マイトさん。体調でも悪いの?」

 だが、これに対しても反応はなく。

「ね? どうしたの?」

 新聞とオールマイトの隙間に頭を突っ込んで、そこに無理矢理入り込み、もう一度たずねる。
 すると、いつもなら笑ってくれるはずのオールマイトが、不快そうに顔をそむけた。

「君さ」

 不機嫌そうな低音に、びくりとした。もともと、彼の声は太くて低い。ちょっとした抑揚で、簡単に迫力が出てしまう。

「なに?」
「今日、どこ行ってたの?」
「どこって、買い物だけど」

 ほら、と、先ほどまで両手に抱えていたたくさんのペーパーバッグを指差した。それでも、オールマイトは納得しないようすだった。

「どこに?」
「駅の向こうまで足を伸ばしてみたけど、どうして?」
「こっちにもたくさん店があるのに、わざわざ駅の向こうまで繰り出したってわけかい?」

 らしくない言い方だな、とひそかに思った。

「あっちにはわたしの好きなパティスリーがあるの、マイトさんだって知ってるじゃない。どうしてそんな言い方するの?」
「芝生広場のテラスで食べたパスタはうまかったかい?」
「パスタはたしかにおいしかったけど……」

 と、答えて、はたと気付いた。
 昼間のあれを見られていたのだ。
 別にやましいことなどないけれど、オールマイトにしてみたら、気分のいいものではないはずだ。

「マイトさん」
「なに?」
「もしかして、見てた?」
「……」
「見てたでしょ?」

 ふいとそむけられた頬を両手で挟んで、無理やり自分のほうを向かせた。
 本当なら力でかなうはずなどないのだけれど、優しいオールマイトは、ちゃんとくるみに合わせてくれる。くるみはそれを、知っている。

「……見たよ」

 落ち窪んだ眼窩の奥の青い瞳をぎらぎらと光らせ、不服そうに口をへの字にしている大男。これが平和の象徴と呼ばれている、我が国一の英雄なのだ。
 オールマイトのこんな顔を見られるのはきっとわたしだけだろう、とくるみはかすかに頬を緩めた。

「なにがおかしいんだい?」
「だって、嬉しくて」
「嬉しい?」
「やきもちやいてくれてるんでしょ?」

 オールマイトが言葉に詰まったかのように、ぐっと息を飲んだ。

「だから嬉しい」

 ぎゅっと抱きつくと、オールマイトが口をとがらせた。

「で、あれは誰?」
「高校時代の同級生」
「それにしては、楽しそうだった」
「連絡先をきかれたけど、教えなかったよ」
「……ふーん」
「夫がいるって、ちゃんと言ったよ」
「……そうかい」

 オールマイトの頬がぴくりと動いた。
 最近気づいたことだけれど、オールマイトは独占欲が存外強い。それと同時に、あなただけよと告げると喜ぶという、子供じみたところもある。

「わたしが今好きなのは、あなただけだもん」

 抱きついたまま、上目づかいでオールマイトの肉付きの悪い顔を見上げた。オールマイトは決まり悪そうな顔で、くるみを見おろしている。
 もう大丈夫かな、と、くるみが思ったその時だった。
 くるりとひっくり返されて、気づけば大きなソファの上に横たえられていた。自分の上に覆いかぶさっているのは、かの有名な英雄様……の痩せ細った姿。

「今は……ってことは、昔はどうだったの?」

 オールマイトの青い瞳の中に、金色の炎のような揺らめきが見える。この揺らめきは、彼の中で情欲のスイッチが入ったあかし。

「えー?」

 目を逸らしながら逃げようとするが、当然それはかなわない。こうなったときのオールマイトは、逃げの言葉を許さない。

「昔はどうだったんだい?」
「彼のこと……高校の時、ちょっと好きデシタ」
「それだけじゃないだろ? ただの友達だったなら、連絡先くらい教えられるはずだ」
「短い間だったけど、付き合ってマシタ……」
「私が君以外の女性と、しかも昔の恋人と二人で食事なんかしたら、どう?」
「……オモシロクナイデス……」
「それだけかい?」
「……たぶん大騒ぎすると……思う」
「たぶん?」

 オールマイトの青い眼がすっと細められる。まるで狼のそれのような、鋭い視線。
 狼に食べられそうになった赤ずきんって、こんな気分だったのだろうか。

「絶対……大騒ぎシマス」
「だよな」


 と言う声と同時にキスをされ、唇を優しく甘噛みされた。
 それに反応する間にも、オールマイトの大きな手がくるみの衣服を丁寧に脱がしていく。

「え……ちょ……ま……まだ、外明るいから」
「関係ないよ」
「シャワーも浴びてないし」
「気にしない」
「……待って……」
「待たない」
「そろそろ夕飯のしたくをしないと」
「そんなの後でいい。なんなら、外食したってかまわない。っていうか、今日は外食でいい、決定!」
「でも」
「君は、私だけのものだよね」

 痛いところを突かれて、くるみは押し黙った。事情はどうあれ、オールマイト以外の男性と二人で食事をしたのは事実なのだ。

「ん……」

 胸元に優しく唇を落とされて、甘い声がもれた。

「まったく、とんだ赤ずきんだ。世の中には狼がウヨウヨしているというのに」
「じゃあマイトさんは狼? それとも狩人?」
「どっちだと思う?」
「今の状況だと、狼?」
「そうだよ、この手が大きいのも力が強いのも、すべて君を美味しく食べるためさ」

 そうしてくるみは、そのままオールマイトに美味しくいただかれてしまったのだった。

***

 ベッドの上で満足そうにまどろんでいる小悪魔を見下ろしながら、オールマイトは心の中でつぶやいた。

――まったく油断も隙もない。狼に誘われてふらふら後をついていく、君はまるで赤ずきんだ。君が今日会っていた男はね、女性を食い物にするヴィランだよ――

 男は、相手に幻覚を見させる個性の持ち主だった。その個性は、己の姿をターゲットの初恋の相手に見せるものだ。甘い思い出を利用して、女性から金品その他、大切なものを奪い取る、たちの悪い詐欺師。
 その容疑者を、警察とヒーローが協力し、監視しつつも泳がせている最中だった。

 ――いいかい赤ずきんちゃん、男はみんな狼だ。気をつけたまえ。私以外の狼に食べられることなんか許さない。
 初恋の相手か……まったくもって腹立たしい。君があの男に声をかけられ振り返った時の嬉しそうな顔、私はぜったい忘れないからな。
 もしも本当の元彼に出会ったとしても、次はついていったりしないでくれよ――

 まったくもう、と肩をすくめて、オールマイトは可愛い赤ずきんの頬に唇を落とした。そして彼女が目覚めたらどう真実を話したものかと、心の中で深いため息をつくのだった。

2015.9.16
月とうさぎ