「誕生日おめでとう」
銀座の一等地にあるフレンチのお店で、マイトさんが水色の箱をわたしに差し出した。
「ありがとう」
「開けてみて」
促され水色の箱にかけられた白いリボンをほどくと、お花をモチーフにしたペンダントがあらわれた。
ピンクサファイア――いや、少しオレンジがかっているからパパラチアサファイアかもしれない――の周りを、花びらの形をしたダイヤモンドがぐるりと囲んでいる。チェーンと土台はピンクがかったローズゴールド。
ニューヨークに本店がある、高級宝飾店のジュエリーだった。
「かわいい! つけてみてもいい?」
「もちろん」
マイトさんが満足そうに眼を細める。
五つ星レストランでの美味しいお料理と高級ジュエリーで、祝ってもらえる誕生日。
背が高くて優しい彼は、我が国が誇るナンバーワンヒーロー。彼と共に暮らす自宅は、都心の一等地にある。
エントランスにはコンシェルジュとドアマンが常駐し、居住者用のスポーツジムからバーラウンジまで用意された超高級マンションだ。
幼いころに憧れたお姫様さながらの生活。
わたしはとても幸せだ。
***
「くるみ……」
ドアを開けて部屋に入るなり、マイトさんに後ろから抱きしめられた。バニラと白檀とシナモンが入り混じった男性用フレグランスの香りがふわりと漂う。
振り返ると、すぐに優しい唇が降ってくる。
甘い言葉と、甘いキス。わたしの彼は優しいだけでなく、とても情熱的だ。
「あのね、先にお風呂に入りたいの」
「いいよ」
「いっしょにはいろ?」
わたしは少し甘えてみたい気持ちになって、口づけに応えながら囁いた。
マイトさんは自分から行動するときは大胆なくせに、こちらから誘うといつも慌てる。わたしはそんな時の、彼の表情が好き。
ほら、耳が真っ赤になってる。本当に可愛いひと。
「マイトさんの背中、洗ってあげる」
マイトさんがわたしの頭をなでる。これは肯定のしるしだ。
「嬉しいけどね、今日の主役は君なんだぜ」
そう囁きながら、マイトさんはバスルームへと消えていく。
***
照明の消えたバスルームの中は、薔薇の香りでむせ返りそう。
明るいところで裸になるのに抵抗があるわたしのために、彼が用意してくれたのは、ローズの香りのキャンドルと、色とりどりの薔薇の花びらが浮かぶお湯。
ろうそくのひそやかな明かりの下で、ゆらゆら揺れる薔薇の花。湯船の中でたゆたう、ベビーピンクとマゼンタと、オレンジと赤と、白と紫、それから黄色。
この薔薇の花もお風呂に入れるために買っておいてくれたのかと思うと、笑みがこぼれた。
優しい彼は、いつもこうしてわたしを甘やかす。
「ん……」
薔薇の香りに包まれて、もう何度目になるかわからない口づけを繰り返した。
最初にマイトさんとキスをしたのは、あの梅雨冷の日のことだった。土砂降りの恵比寿の街並みの中で。
あの夜、今と同じように何度も口づけをかわした。
ついばむように、貪るように、噛みつくように、奪うように、喰らい尽くすように。
思えば、あれがわたしたちの初めての夜だった。
あれからわたし達はどれだけの夜をすごしただろう。千一夜とまではまだいかないけれど、二人で過ごした多くの夜。
「くるみ」
マイトさんはいつもわたしを抱くときに名を呼ぶ、そこにわたしがいるのを確かめるかのように。
だからわたしも彼の名を呼ぶ、彼がそこにいるのを確かめるかのように。
癖になってしまった「マイトさん」という呼び方。普段はそれを許してくれているのに、彼は行為の最中だけは、頑なに本当の名を呼ばせたがる。
マイトさんはそうすることで、ヒーローではない本当の自分の存在を確かめようとしている。そんな気がする。
「俊典さん」
名を呼ぶと、満足そうな笑顔が返ってきた。そうして彼は、わたしの身体を優しくひらく。
国家を担う英雄の背負った重圧と彼が背負った運命を、わたしは彼自身と共に自分の体内に受け入れた。
今、この時だけでも、彼の重荷の一部だけでも背負えるように。
むせ返るような薔薇の香りと優しい愛撫と、それに続く快楽と。
彼の楔は、乙女たちと一夜だけの結婚をし、翌朝彼女たちを処刑していたあのお伽噺の王様のように、わたしに夜毎の死を刻む。
エクスタシーは小さな死。一度の行為で、彼はわたしに一度ならず幾度もの死を与えていく。
***
「お誕生日、おめでとう」
「ありがとう」
今日何度目かわからない祝いの言葉と共に、マイトさんが冷蔵庫から冷えたサングリアを出して、わたしに手渡してくれる。
サングリアは赤ワインにフルーツと甘味料を入れた飲み物だ。冷やして飲むととても美味しい。それを目の位置で掲げて、彼がにこりと微笑んだ。
ふかふかのカッシーナのソファに身体を預けて、フルーツの香りがする赤ワインを干した。
頬にキスを落とされて、わたしはとても幸せな気分になる。
夜毎の死を迎えようとも、こんなに幸せな姫君はそうはいないだろう。
王様に話を聞かせることで生きながらえ、最終的に妻の座に納まったシェヘラザードより、きっとわたしは幸せだろう。
ああ、神様。
わたしは思わず心の中でそう叫ぶ。
こんなお姫様みたいな暮らしなんか、本当はいらない。
高級ジュエリーも五つ星レストランも、本当はいらない。
このひとさえいれば、わたしは何もいらないのです。
だから神様、このひとをわたしから奪わないで。
「ね、お願いがあるの」
「なんだい?」
「ずっと一緒にいてね」
マイトさんは少し困った顔をしてあいまいに笑った。
ずるいひと、はっきりした約束をくれないなんて。
けれど彼が困るのを知っていてこんなことを願う、わたしもやっぱりずるいのだ。
だからわたしは言葉を変える。
「マイトさん、大好き」
「ありがとう……私もだ」
困ったような表情のまま、マイトさんが微笑んだ。
いなくなったりしないで。ずっとわたしの側にいて。
大事な言葉を飲み込んで、わたしは彼にしがみつく。
彼はそんなわたしを、黙って優しく抱きしめる。
願わくば、来年の誕生日も二人で祝えますように。
どうかこの幸せが、一日も長く続きますように。
薔薇の残り香に包まれながら、わたしは静かに目を閉じた。
2015.9.16