彼の珈琲 彼女の紅茶

「うう、寒い」

 思わず言葉が滑り落ちた。十一月の終わりともなると、ビルの谷間を吹く夕刻の風の冷たさは骨身にしみる。痩せてしまってから、寒さに対して弱くなった。

 それにしても、久しぶりの休日にいい歳をした男が一人で「若者の街」をうろつく姿はどうなんだ?
 ノエルに向けたイルミネーションで彩られた坂道をひとりぼっちで歩いたって、何も楽しいことはない。

 本来ならば、ひとりで来る予定ではなかった。くるみと寄り添い歩くはずだった道。三時からの映画を一緒に観て、帰りにイルミネーションを楽しむ。
 そういう手はずになっていた。
 どうしてもこれが観たいのと映画の座席をネット予約したのも、無駄に背が高い私が後ろに気を使わずに済むよう最後列の席をとったのも、くるみの方であったのに。

 けれど私は若者向けの恋愛映画を、結局ひとりで鑑賞した。
 少女漫画が原作のアイドル主演映画はとても甘酸っぱい恋物語だったけれども、中年期に差し掛かった男が一人で観るにはつらすぎた。

***

 喧嘩を吹っかけてきたのは、くるみの方だ。

 昨夜遅くに帰宅した際、ただいまの言葉がまず無視された。どうしたのかと尋ねても、なかなかくるみは答えない。
 仕方がないので、うしろから包み込むように抱きしめて、耳元で「なに怒ってるの?」と囁いてみた。こうすれば、たいていくるみは返事をしてくれる。
 だが、それも見事に無視。

 そのまましばらく無言でいたくるみだが、急にリモコンをひっつかみ、テレビモニターの電源を入れた。映し出されたのは、録画された映像だ。

「あ、これは先日収録した対談番組だね。今日放送だったんだ。……で、どうして君はそんなに怒ってるんだい?」
「マイトさん、浮気したからもう嫌い」
「は?」
「ほら、ここ!!」

 くるみが一時停止ボタンを押した。
 モニターの大画面に映し出されているのは、司会の一人である美人女優と腕を組んでいる私の姿だ。女優の大きな胸が、私の腕にぎゅっと押し付けられていた。
 隣ではもう一人の司会である男性アナウンサーが、困りながら作り笑顔を見せている。

「浮気って……見てただろ? これは向こうがしてきたんだよ。私はすぐにさりげなく腕をほどいたじゃないか」
「さりげなくじゃなくて、もっとあからさまにやってほしかった」
「……女性の腕を乱暴に振り払うわけにもいかないだろ」

 私の大ファンだと女優は言った。
「オールマイトさんと腕を組んで歩くのが夢だったんです。一度だけ、組ませてもらってもいいですか?」
 そう言って、彼女は私の腕に自分のそれを絡ませてきたんだ。
 いきなりかよ!?と、正直驚きもしたけれど、あんなふうに言われたらやっぱり私も断りにくい。

「本当はもう少しああしていたかったくせに。あの女優さん、すごい美人だし……おっぱいも大きいし……」
「彼女より君の方が可愛いよ」
「嘘! このマイトさんすごい嬉しそうだもん。胸を押しつけられて、すごいだらしない顔してる」

 え? そんなに鼻の下伸ばしてたか、私?
 実際はけっこう困ってたんだぜ。
 ……まあ……困ったけれども、嫌な気分ではなかったな。
 うん。そこは認める。腕に当たる胸の感触もね、正直な話、悪くはなかった。ぶっちゃけちまうと、良かったよ!

 美人にすり寄ってこられて、嫌な気分になる男はまずいない。
 でも私にとっての一番は君だ。それがどうしてわからない?

「マイトさんのウソつき! 大嫌い!」 
「嘘じゃないって」
「絶対、ぜーったい、嘘だもん! あの女優さんの方が綺麗だってどうして正直に言わないの? そんなわかりきった嘘をつくくらいだから、やましいことしてるんだ」
「……それはどういう意味だい?」
「最近帰りが毎日遅いもん……事件があった日ならまだしも、そうじゃないのに遅かったりするもん……」
「……あのね、テレビのニュースになるような華々しい救助だけが、ヒーロー活動じゃないんだぜ」
「そんなの信じられないもん」

 おい、なんだそれ。さすがの私もカチンときたぞ。

「私が言うことが信じられないなら、もう君に語る言葉はないよ」

 するとくるみは印象的な瞳に大粒の涙を浮かべた。いつもだったらこれに負けてしまう私だけれど、今回は折れてやる気になれなかった。
 疲れがたまっていたせいもあるのかもしれない。

「マイトさんのばか! もう一緒に寝てあげないんだから!!」
「好きにすればいいだろ」

 オーケー、そうかい。わかったよ。
 そんなに私と一緒に寝るのが嫌なら、ソファででもどこでも寝ればいい。風邪ひいたって知らないからな。

 わあわあ泣きわめきながら、くるみはリビングから出ていった。まったく、いつまでも子供みたいで困ったもんだ。
 少々甘やかしが過ぎたかと、ソファにぼすりと身を沈める。

 あー、とっとと風呂に入らないとな、でも今日はこのまま眠ってしまおうか、とにかく疲れた。
 大きく溜息をついたところに、ふたたびくるみが姿を現した。
 
 ああそうだった、君はここで寝るんだったね。
 そう言いかけた私の上に、どさりと乗せられた柔らかいなにか。

 ……うん、これは毛布と私の枕だね……って、ちょっと待て!
 ここは私の家なのに、家主がベッドを追われるわけかい?
 ふざけるなよ。私はとても疲れてるんだ。
 なのになぜ、私がリビングで寝なきゃならない。

「……くそ! 覚えてろ!」

 一人残されたリビングでつぶやいた台詞は、自分でもどうかと思うほど安かった。

***

 カップルだらけの若者の街を、駅方面へとひたすら歩く。
 昨夜のことだが、私は負けたわけじゃない。

 今は十一月の終わりだ。
 冷暖房完備のマンションとはいえ、朝方なんかはめっぽう冷える。
 あんなところでくるみを寝かせて、風邪をひかせるわけにはいかない。
 我が家のリビングは無駄に広いから、実際ちょっと寒かった。

 いいか、もう一度言う。誰に対して弁明しているのかよくわからないけど、重ねて言うぞ。私は譲ってやったんだ。

 それをふまえて今朝のことを思い出すと、ますますもって腹が立つ。
 こちらから「映画に行こう」と折れてやったのに「一人で行けば」ときたもんだ。
 はらわたが煮えくり返るとは、まさにこのこと。
 ただでさえ胃袋がない私のはらわた――腸――は忙しいんだ。これ以上酷使させないでくれ。

 やっとのことで駅につき、地下鉄に直結している商業施設に足を踏み入れた。目的は地下二階にあるベーカリー。あそこの天然酵母パンはうまいんだ。
 そうだ、断じて同フロアにある有名パティシエの店なんかに寄ったりしないぞ。ぜったいにだ。

 お目当てのパンを買ってエレベーターに向かう途中で、紅茶専門店の看板が目についた。
 くるみはたしか、ここのフレーバーティーが好きだったはずだ。イタリアの冒険家の名を冠した、甘くて爽やかなフルーツの香りがするお茶が。

 こんなときでも、くるみの好きな物に反応してしまうのはしゃくだなあ。そう思いながら紅茶を眺めていたら、白いシャツと薄茶色のスーツを着たスタッフが声をかけてきた。

「ご贈答品ですか?」
「や、家用に……と思ってね」

 ……くっそ……なんで私がくるみのご機嫌を取らなきゃいけないんだ。
 悪いのは向こうだろ。浮気だのなんだの、あんなの事故みたいなもんじゃないか。
 だいたいそれを言うんなら、くるみの方がひどいよな。
 初恋の男だか何だか知らないが、ほいほい後をついていったりして。

 そこでハタと気がついた。
 ……私が本当に気に入らなかったのはここだ……
 二か月ほど前、くるみが他の男とふたりで食事をしたことがあった。ヴィランの個性に騙されたのだ。
 「浮気してると騒いでいるが、君の方はどうなんだ」と私はあの時、本当はそう言いたかったんじゃないのか。
 あの話はしっかりくるみに釘を刺したし、ちゃんとけじめもついている。なのに終わった話をいつまでも根に持っていたなんて、女々しいのにもほどがある。
 私の腕に女優が胸を押しつけたくらいで怒るくるみもくるみだが、私の方も大概だ。
 ああ、穴があったら入りたい。

 いずれにせよ、昨夜のあれは、完全なる売り言葉に買い言葉。
 互いに少々余裕がなかった。

「あの……お客様?」
「ああ、すまない。そちらの茶葉を100グラムもらえるかい?」

 不思議そうにこちらを仰ぎ見ているスタッフに、私は静かに微笑んだ。

***

 さて、ここからが問題だ。
 あの流れで私から謝るのもやっぱり変な話だし、どうやって仲直りしたらいいものだろうか。

 玄関のチャイムを鳴らすかどうか躊躇して、結局、自身の鍵で扉をあけて中に入った。

「……おかえりなさい」
「……ただいま」

 くそっ、やっぱり気まずい感じのままか。
 どうするかなと思いつつ、キッチンカウンターに紅茶とパンを置いた。

「これ、お土産だから」
「……うん」

 おや、意外なことにしおらしい。
 「そんなものじゃごまかされないんだからね!」と返されるかと思ったのに、なんだか拍子抜けで、逆に少し心配になる。

 とりあえずコートを片付け手を洗い、再びダイニングに戻る。
 扉を開けた途端、鼻腔に飛び込んできたのは、馥郁たる珈琲の香り。

 くるみがハンドドリップで淹れた珈琲を、ゆっくりマグカップに注いでいる。
 そこに無造作に置かれたパッケージを見て、私は思わず目を見開いた。
 あれはアラビカ種の最高峰の珈琲だ。産地はインドネシア。
 ソフトな苦みと深いコク、ブラックでも感じられるごくわずかな甘み、ふくよかに広がる芳醇な香りがたまらない。私の好きな銘柄だ。

 でもこれ、今、切らしていなかったっけ? 
 ……もしかして、わざわざ買いに行ったのか。

「それ、トラジャ?」

 私の問いに、くるみはこくりと頷いた。

「私も君の好きな紅茶を買ってきたんだけど」
「……うん」
「……仲直り、する?」
「……うん」

 うしろから抱きしめると、腕の中から「ごめんね……」と弱々しい小さな声。

「いや、私も大人げなかった。……私には君だけだよ」
「……うん……ほんとうは知ってた……」
「君と一緒に映画を観たかったな」
「わたしもマイトさんと観たかった……面白かった?」
「んー、悪くはなかったけど、アイドル主演の青春恋愛映画は、おっさんが一人で観るにはきつかったな。特に周囲の目が」
「マイトさんはおっさんじゃないもん」
「ありがとう」
「コーヒー淹れたから……一緒に飲もう?」
「ああ」

 私好みの珈琲と、くるみの好きな薫り高い紅茶。
 それは互いに互いを想った証。

 大きく屈んで、さくらんぼみたいな唇に軽い口づけを落とす。

「この続きは、またあとで」

 そう囁けば、くるみの頬は薔薇色に染まる。
 私の小悪魔は、喧嘩の後もやっぱりかわいい。

 でも、もう、寝室から締め出すなんて真似はしないでくれよな。頼んだよ。


2015.11.27
月とうさぎ