窪んだ眼下に落ちる、深い影。秀でた額にうっすらと刻まれた皺と、その上にかかる黄金色の前髪。掛け布団の上に無造作に投げ出された左腕は、枯れ枝のように細い。
これが平和の象徴と謳われる、オールマイトの真実の姿。彼は、またひとまわり痩せてしまったようにみえる。
マイトさんは、かわらず規則正しい寝息をたてている。時計の短針が差しているのは、九の文字。休みの日も早く起きることが多い彼にしては、珍しい。
けれど、それも仕方のないことだ。
来春から母校である雄英高校に勤めることになっているマイトさんは、あちらと東京を行ったり来たり。その間もヒーローとしての活動をこなし、同時に事務所の準備を進めている。
昨夜も、正子を大きく回ってから帰宅した。疲れているのも当然だろう。
彼を起こさないようゆっくりとベッドからおり、わたしはキッチンへと向かう。
*
「あ、いいかんじ」
冷蔵庫の中身を確認し、思わず声を上げた。
バットの上には、もっちりとした白い物体が四つ。
これは昨夜ホームベーカリーで一次発酵させたあと成型しておいた、丸パンの生地。ラップをして、そのまま一晩、冷蔵庫の中で二次発酵させた。
これを二百度に予熱したオーブンで、二十分ほど焼けばいい
きっとマイトさんは、パンが焼けるまでに起きてくるだろう。だからすぐに朝食を提供できるよう、おかずやスープの準備をしないと。
マイトさんは胃袋がない。しかし、意外と何でも食べられる。料理法も常人のそれとさほど変わらず、制限されることはあまりない。
ただし、一度にたくさんは食べられない。だからそのぶん、回数を増やす。
大変だろうとマイトさんは気遣ってくれるが、これが自分の役割だと、わたしは考えている。
『微風』というささやかな個性しか持たないわたしができることは、『オールマイト』が思いきり活動できるよう、『八木俊典』の身の回りを整えること。それだけ。
軽く鼻歌をうたいながら、鍋に湯を沸かした。
スープの中身はキャベツとにんじんと玉ねぎと、ブロッコリーの茎を細かく刻んだもの。それからベーコン。味付けは簡単に、コンソメキューブと塩とこしょうで。
ブロッコリーのつぼみの部分も、かために茹でてとりわける。
おかずのメインはスパニッシュオムレツ。具材はほうれん草と、じゃがいもと玉ねぎ。
溶き卵に、粉チーズと塩とこしょう、それにあらかじめ炒めておいた具を混ぜ合わせ、重たい鉄のスキレットで、じっくりゆっくり焼き上げる。
卵にゆっくり火を通している間に、もう一品。
テフロンのフライパンに下処理をしたエビとごく少量のにんにくとオリーブオイルを入れ、エビに火が通ったら、さきほど茹でておいたブロッコリーを投入する。塩とマヨネーズで味を調え、完成だ。
ここで八割ほど火の通ったオムレツをひっくりかえして、裏面を軽く焼く。
「うん。いいかんじ」
冷蔵庫を開けた時と同じ言葉を漏らした自分に気がついて、心の中で苦笑した。
三品目はサラダ。ベビーリーフとプチトマト、薄くスライスしたマッシュルームをお皿に散らして、ドレッシングであえれば終了。
途中、飲み物を忘れていたことを思い出し、コーヒーメーカーに彼の好きな銘柄の豆をセットした。
パンが焼きあがるこうばしい香りとひき立てのコーヒー豆の芳香が、ダイニングキッチンの中を満たしてゆく。
「いい匂いだね」
すべての準備が終わるころ、マイトさんが起きてきた。ほら、ね、予想通り。
それにしても、ずいぶん年上の人なのに、パジャマ姿で寝ぼけ眼をこする彼は、いつにもましてかわいい。だってほら、黄金色の後頭部に、ちいさなねぐせ。
「おはよう」
「ウン、おはよ」
自分にむかって大きく屈んだ長身痩躯に、わたしは朝のキスをする。彼もわたしに、キスを返す。
そのままコーヒーメーカーの方に歩いて行こうとするマイトさんに、あなたは座っていて、と声をかけ、揃いのマグカップにコーヒーを注いだ。
「今日もおいしそうだ」
テーブル上の焼きたてのパンを見て、マイトさんが両手をひろげながら声をあげた。その大げさな様子に、ふふ、と笑みながらいらえる。
「焼きたてだからおいしいと思うよ。今朝はね、プレーンとくるみ入りの二種類にしたの」
「なるほど、朝から君お手製の美味しいパンが食べられるわけだね。まあ、一番おいしいのはベッドの上での君だけど」
ばか、と小さくつぶやくと、マイトさんは、はは、と声をあげて笑った。
「あ、ホントにうまいよ」
さっそくパンを口に入れ、マイトさんがまた笑う。
よかった、と思いながら、わたしも一口。
本当においしい。表面はカリッとしているが、中身はふわふわ。ナッツの歯ごたえも悪くない。
うまくいってよかったと思いながら、彼を見つめた。
マイトさんは動きに無駄がなく、きれいだ。それは食事の際もかわることなく。
オムレスにナイフを入れる、そんな所作ですら美しい。
胃袋のない彼は、少しずつ、ゆっくりしっかり咀嚼する。
ナッツ入りのパンが、野菜の入ったオムレツが、炒めたエビが、柔らかな葉が、スープが、やがてマイトさん――オールマイト――の、血となりそして肉となる。
食べることは、生きること。
それは、日々反復される営み。
*
「ところでさ、くるみ」
「なあに?」
ソファで食後のコーヒーを楽しみながら、マイトさんが微笑む。
「今日は丸一日、休みをとったんだ。家に帰れるのは四日ぶりだったし、君も寂しかったろ? だからたくさんサービスするよ。行きたいところはあるかい?」
しばらくぶりの休日だというのに、と、わたしはちいさく息をつく。
気遣いは嬉しいが、今日はゆっくり休んでほしい。
この国の柱として、平和の象徴として立つ重圧は、よほどのものであろうから。
「今日は二人で、家で過ごそうよ」
「でもくるみ、君、新しい靴が欲しいって言ってなかった?」
「欲しいけど、それはまた今度。それより、古い映画のリマスター版を手に入れたって喜んでたじゃない。それ、観ようよ」
「いいのかい? モノクロだし、しかもサイレントだぜ」
「いいよ。だって、あなたの好きな映画でしょ? だからわたしも観てみたい」
あなたをもっと理解したいから、という言葉は、心の中で。
「どんな映画なの?」
「うん。不寛容がテーマの作品なんだけどね……」
と、マイトさんが映画について語りはじめた。映画の話をする時の彼は、いつも少し嬉しそう。
たまに見せるそんな少年のような顔も、とても好き。
「ね、くるみ」
ひとしきり映画について話したマイトさんが、首をかしげてにこりと笑んだ。このひとのかわいさは、本当に罪だ。
「なに?」
「映画の前に、お願いがあるんだけど」
マイトさんがわたしに向かって身をかがめた。いつものように、わたしは彼の唇を受け入れる。髪に、額に、頬に、唇に、いくつも落とされる、キスの雨。
「お願いって?」
と、たずねると、彼の口角がゆっくりあがった。
それは先ほどまでの少年のような笑顔ではなく、大人の男の笑み。
マイトさんは流れるような仕草でわたしの持っていたカップを手に取り、ローテーブルの上に置いた。続くであろう言葉は、わたしにはもうわかっている。
「くるみ入りのパンがあんまりおいしかったから、今度は、君が食べたくなっちゃった」
耳孔に流し込まれた、艶を含んだ低音。
「……まだ午前中よ?」
「気にしない」
「……疲れてるんじゃ……」
「大丈夫」
「……食べてすぐは身体にさわるかも……」
「ゆっくり時間をかけるから、問題ない」
「でも……まだ午前中だし」
「それさっき言った。いいから、もう黙りなさい。ね」
柔らかい声と共にあたえられたくちづけは、先ほどよりも深かった。
年の離れた夫の情熱を受け止めながら思う。
これから彼がしようとしていることは、生命を生み出すための神聖な行為。けれどそれは、互いの上に、果てという名の小さな死をもたらす。
これから、互いは互いの食べ物になる。
それは食と同じように、日々繰り返される営みのひとつ。
いったん唇を放し、見つめあい、また口づけた。
こうして今日もわたしたちは、お互いの上に、生とそして小さな死を与えていく。
2017.12.15(初出)
2018.4.30(改稿)
ツイッターでの「ごはん企画」に提出したお話です。企画では固定名の三人称単視点で書きましたが、こちらに掲載するにあたり、一人称に書き直しました。
時系列的には「ダズンローズ・スマッシュ」と「ラヴィランローズ」の間にあたるお話です。
※Privatterにあげた「ある休日の風景」はこちらのお話の続きになります。