悪夢のような一夜が明け、マスコミはこぞって神野区におきた惨事を取り上げた。
幾度も画面に映し出されるのは、半壊した神野区と、その元凶であるたった一人のヴィラン。そして我が国の誇るヒーローの、衰えてしまった真実の姿。
わたしは昨夜のうちに、身内以外からの携帯通知と家電の着信音を切っておいた。
「くるみの大事なやせっぽちののっぽさん」とオールマイトの関係性を問う電話になど、とてもではないが出られる心境ではなかった。
知らせてもいい相手には、こちらからいずれ連絡するつもりだ。むろん、マイトさんの了承を得てからになるが。
当のマイトさんからは、昨夜とても短いメッセージが送られてきた。
『明日の夕方までには帰るよ。詳しいことは帰ってから話す』
本当に短い一言だったが、今はそれでもかまわないと思った。
真実の姿を全国ネットで晒してしまったのだ。今、一番つらいのはマイトさんだろう。そんな時に、わたしに気遣いなど必要ない。
母からも夜のうちに電話がきた。娘の夫がオールマイトであったことに母は大変驚いていたが、それだけだった。余計なことは何一つ訪ねてこない、その配慮がありがたい。
ただ、母は通話を切る直前にわたしに告げた。
「今までも大変だったろうけど、これからはもっと大変になるよ。心して彼を支えてあげなさい」
「……うん……」
「それから」
「なに?」
「つらくなったら、いつでも連絡してきなさい。あんたは子供のころから、自由奔放に見えて、変に我慢強いところがあるから」
「……ありがとう」
電話を切った後、呆けたようにその場に座り込んだ。
頬を涙が伝っていたが、それを拭う気力もなかった。
***
「ただいま」
翌日、半日の検査入院を経て、マイトさんが帰宅した。
右腕は折れているのか、ギプスで固定されている。左腕も無事ではなかったようで、ぐるぐると包帯が巻かれている。
腕の怪我のせいだけでなく、彼はひどく憔悴しきっているように見えた。
「アイスコーヒーでいい?」
「ウン。ありがと」
いつもなら、ちょっと目を細めて笑んでくれるのに、今日の彼には笑顔がない。なんだか嫌な予感がした。
「くるみ、大事な話がある。コーヒーを淹れてくれたら、ここに座ってくれないか」
マイトさんがソファに座って、ぽんぽんと自分の隣のスペースを叩く。そのいつになく真剣な目に気圧されて、わたしは小さくうなずいてからキッチンへと向かった。
淹れたてのアイスコーヒーを一口すすって、マイトさんがゆっくりと口唇をひらいた。
「……引退することにしたよ」
「え? どうして? もしかしてまたどこか臓器を……」
「いや、そういうことじゃないんだ。ただ、すべての力を使い果たしてしまった……それだけだよ」
小さく笑ってから、そっと伏せられた青い目が悲しい。暑いはずの部屋の温度が、一気に数度下がったような気がした。
「私は、もう、マッスルフォームを維持することすらできない」
ひどく弱々しい声だった。
マッスルフォームを維持できないということは、個性が使えないということに等しい。いったいどういうことなのだろう。
加齢や体調で個性が弱まるとはよく耳にする。けれど個性が使えなくなるなんて、きいたことがない。
だがおそらく、彼の個性は『そういうもの』なのだ。
そして、今の言葉ですべてを察した。
このひとが夜毎あれほどうなされ怯えていたのは、この日が来ることだったのだと。
「私はもう、戦えない」
絞り出すようにそう言って、マイトさんはへにゃりと笑った。
嫌な笑い方だ、と思った。
笑っているはずなのに、泣いているようにしか見えない笑顔。このひとはどうして、つらいときほど笑おうとするのだろう。
「……できないんだよ」
マイトさんは、はは…と笑いながら下を向いた。
彼がヒーローをやめる。
ずっと待ち望んでいたことのはずなのに、ちっとも嬉しいとは思えなかった。
折れそうな身体を鞭打ち戦う彼が、心配で心配で仕方がなかった。だからやめてほしいと、ずっと思い続けていた。
でもまさか、こんな形で彼のヒーロー人生が終焉を迎えるとは、思ってもいなかった。
「マイトさん」
「ん?」
「わたし、マイトさんが戦ってるの、ニュースで見たよ」
「朝のかい?」
「ううん。リアルタイムで」
「……それはすまなかったね。君にとってはつらかっただろう」
「誇らしかったよ」
今まで目を逸らし続けてきた、彼のヒーロー活動。
けれどわたしは、あの最悪の戦いの場面で、オールマイトから目を逸らすことがどうしてもできなかった。
ちょっとした刺激でも血を吐いてしまう身体で、骨が浮いた細くて薄いこの肉体で、脅威を絵にかいたような相手と対峙する姿は、神々しくすらあった。
竜巻のようにうねりをあげ、ヴィランを圧した最後の一撃。
ゆっくりと天に向かって拳を突き上げ、無言のままの勝利宣言。
あの瞬間、オールマイトは伝説から生ける神話へと昇華した。
彼はあの時、自分で作り上げたヒーロー像を、全能であるオールマイト像を、崩さぬままで最後の仕事をやり遂げたのだ。
「誇らしかった?」
「うん。それでね、戦っているマイトさんは、やっぱり最高にカッコ良かった」
すると、マイトさんはとても意外そうな顔をした。
「君は、ヒーローとしての私のことは好きじゃないのかと思っていたよ」
「うん……正直いうとね、オールマイトのことはあんまり好きじゃなかった」
「そうか」
「だって、とても心配だったから。自分の身体を痛めつけて人を救けようとするあなたを見ているのが、今までとてもつらかった。でもね、それでもやっぱり、昨日のマイトさんは誰よりもカッコ良かったよ」
「ありがとう……」
「これからどうするの?」
「うん。敵と戦うことはできなくなってしまったけれど、私にはまだ、後進の指導に当たるという道がある。何より、後継者である緑谷少年のためにも、頑張って生きなきゃなと思ってるよ」
この瞬間、わたしのなかで何かが弾けた。
「ねえ。そういうのやめて」
「くるみ?」
「緑谷くんのために生きるなんて言わないでよ」
「……っ、ごめん。そうだね。緑谷少年の育成も大事だけれど、これからはまず君のために生きていかないと」
たしかにわたしは、誰かのためではなくわたしだけのために生きてほしいと、心のどこかでそう思っていた。
けれどマイトさんの口から待ち望んだ言葉が出たこの時、わたしは今までの自分の考えが大きく間違っていたことを知る。
「本当に、今まで、君にはいろいろと我慢をさせてきた。これからは君を一番に考えて――」
「ちがう! それは違うよ。マイトさん」
このひとは幸せにならないといけない。
もちろん彼は、今までも充分幸せであったろう。
誰かを救うために生き、正義を貫くためならどんな犠牲をもいとわない。それが彼の選んだ道で、そうすることがきっと彼の喜びだった。
でも、もう、このひとにはそれができない。
「もう、そういうのはやめて」
「そういうの?」
「誰かのために生きるってスタイル」
「……」
「だって、マイトさんの人生はマイトさんのものなんだよ」
誰かのためではなく、自分のために生きる。しごく簡単な事だ。でもきっと、このひとにはそれが難しい。
わたしはマイトさんの左手をとった。長身痩躯がまた下を向く。
「マイトさんは自分のために生きるの。緑谷くんやわたしのことは、そのあと」
「……」
「そうしてくれたら、わたしはあなたより長生きして、ちゃんとあなたを見送るから」
「くるみ」
「そうして欲しいんでしょ。わたしに、あなたより長く生きてほしいんでしょ」
うつむいたままの金色の髪に、わたしはそっと口づける。
「オールマイト。長い間お疲れ様でした」
マイトさんが弾かれたように顔をあげ、いきなりわたしをいきなり抱きしめた。わたしを包む彼の腕が、頭上の肩が、薄い胸が、小刻みに震えている。
長い腕に包まれながら、おもわず目を見開いた。
オールマイトが泣いている。
わたしは自らの手を、彼の背に回した。ヒーローとして活動していた時とは違う、薄い、けれども広い背中。
人々に安心を与えてていたこの背を、守りそして慈しみたいと、心から思った。
どれほどの時間そうしていたのだろうか。そう、長くは感じなかったけれど。
マイトさんが、そっとわたしから身体を離した。
「ごめん、びっくりしただろう?」
「ううん。そんなことない。もっと甘えてくれていいよ」
「そんなこと言って、後悔しても知らないぞ」
「どうして?」
「実はね、私はそんなに立派な人間でもないんだよ」
知っている。
このひとがわたしの前でだけ見せる内面は、他者が思うほど美しくはない。
「たとえば、私はとても嫉妬深い」
「どうしたの。いきなり」
「ン、今まで隠していた私の本音も知ってもらいたいと思ってさ」
「あのね、マイトさんが嫉妬深いのは知ってるよ」
「エ? 気づいてたの?」
「うん。だって、けっこう顔に出てたもん」
マイトさんはわたしから手を離して、少し恥ずかしそうな顔をした。
あんなにあからさまだったのに、気づかれていないと本気で思っていたのか。驚きたいのはこちらのほうだ。
「それだけじゃない。私はね、束縛も激しいほうだと思うよ」
「そうなの?」
「君は前に、私のことを365日24時間拘束したいって言ってたね」
「うん」
「あれはね、私のほうこそだよ。時間がある限り君をずっと拘束して、この腕の中に閉じ込めてしまいたいと何度思ったかしれない。だってそうだろう? 君は前から、元彼とかにふらふらよろめく癖があるじゃないか」
「……」
「エ……ねえ、なに? 今の沈黙」
「なんかちょっと重たいなぁ、って思って」
「……君ってさ……ほんと勝手だよね」
「それはお互い様でしょ」
「確かにそうだ」
優しい笑顔が近づいてきて、ゆっくりと慣れた唇が下りてくる。初めは浅く触れるだけの口づけ。けれどそれは、徐々に深い官能的なものへと変わっていく。
「んあっ……」
息継ぎの合間に声を漏らすと、にやりと笑まれた。
「まったく……君はいつまでも新鮮でいいね。キスだけでそんな声をあげてくれるから」
「もう……えっちなことはギプスがとれてからじゃないとダメだからね」
「ンン。それはさ、君が動いてくれれば問題ないんじゃない?」
「ばか」
ばしり、と背中をたたいてやると、痛いよ!と抗議の声があがった。
「……あのさ」
少し言いにくそうに、マイトさんが口ごもる。
「いきなりなんだけど、ちょっと外出してもいいかな? 引退のこと、緑谷少年にも話さないといけない」
「明日じゃだめなの?」
「できるだけ早く伝えたい」
「ねえ。たしかにさっき、あなたの人生はあなたのものって言ったけど、今日くらいはわたしを優先してくれてもいいんじゃないの?」
「私は私のために、私のやりたいようにやるのさ。さっき君がそう言ってくれたからね」
携帯を操作しながら、マイトさんが笑う。本当にずるいひと。これでは結局、今までとたいして変わりはないんじゃないだろうか。
「ねえ、くるみ」
「なに?」
「帰ってきたら、さっきの続きをしてくれよな」
「え? それって……」
「あ、もしもし、緑谷少年? うん、私」
会話の途中で緑谷くんとの電話がつながってしまったようだ。なぜだかわからないが、ちょっと悔しい。
だから通話を終えた彼に、こんな時間にあんなかわいい子を呼びだす教師ってどうなのよと言ってやった。
すると、君はどうしてそう誤解されそうな言い回しをするかなぁ、とくしゃくしゃと髪をかきまわされた。
そうして、彼は嬉々としてかわいい弟子の元へと出かけて行ったのだ。
マイトさんは、出かけてから一時間ほどで帰宅した。
緑谷くんと海岸で話をしたのだろうか。微かに潮の香りがする。
ふと、彼の眼の端が赤くなっていることに気がついた。
こんな時、わたしは緑谷くんに嫉妬する。
前に緑谷くんが男の子で良かったと思ったことがあるけれど、本当は男も女も関係ない。
ふたりの間にあるのは、深くて特別な信頼関係。そこにはきっと、誰も入ることができないのだろう。
***
「ねえ、こんな感じで大丈夫かな」
「ン、ありがとう」
固定している右手を濡らさないように、ギプスごと大きなビニールで覆う。
右手が使えないマイトさんのために、今日のお風呂は二人ではいる。といっても、今のマイトさんの傷では、まだお湯にはつかれない。今日はシャワーで昨夜の汚れを落とすだけ。
昨夜の砂塵と潮風のせいでぱさぱさになってしまった金色の髪を洗っていると、ふに、と、またマイトさんがわたしのお腹に触れた。
「もう! それはやめてって前にも言ったじゃない」
「じゃあさ、もう少し上ならいいかい? お腹よりもっとさわり心地のいいところ」
「……今はダメ」
「じゃあ、あとでならいいの?」
「いいよ」
「驚いたな。だめって言われるかと思ったよ」
「今日は特別。わたし、いっぱい頑張るから」
「どうしたんだい? 急に」
「緑谷君に負けたくないから」
「だから彼とはそんなんじゃ……」
「わかってる」
ちょっと恥ずかしくなって、じっとこちらを見つめる青い瞳から目を逸らした。
「わかってるけど……やきもちやいちゃうんだもん……」
「……やっぱり今したいな」
「ギプスが濡れると大変だから、だめ」
「じゃあ、あとでゆっくりね。もう出ようか」
耳元で低音を流し込まれ、息苦しいくらい身体があつくなる。うん、と小さく返事をするので精いっぱい。
夏の浴室は、それでなくても息苦しいのだ。
「私にとって、一番大事な女性は、くるみ、君だよ」
彼の広い背中を拭いていると、いきなりそんな声が降ってきた。もう、どんな顔して言っているんだろう。後ろをむいてそんなことを言うなんて、本当にずるい。
***
お風呂上りに、マイトさんがカクテルを作ってくれた。こういうのもなんだか久しぶり。片手でシェーカーを振るのだから器用なものだ。
わたしも彼のために、冷たいミントティーを準備する。
大きな左手が、美しい薔薇色の液体をグラスの中に流しこむのをうっとりと見つめた。無駄のないマイトさんの所作も、カクテルの色も、同じくらいに美しい。
「綺麗な色ね。カシス?」
「いや、これはグレナデンシロップ。ザクロだよ」
「ザクロ……他には?」
「ジンとキルシュワッサーが入ってる。カクテル名はね、ラヴィアンローズ」
「……ラヴィアンローズ?」
「薔薇色の人生、って意味だよ」
「薔薇色の……人生」
オールマイトとしての力を失ってしまったこのひとのこれからの人生は、きっと薔薇色ではないだろう。
彼は大人だから、こうして笑ってくれている。けれど、きっとまだまだ消化できない気持ちがあるに違いない。
それでも希望を捨てず生きようとする、このひとはやっぱりわたしの誇りだ。
「マイトさん、大好き」
「奇遇だね、私も君が大好きだ」
ティッシュをひっくり返す程度の個性しか持たないわたしが、英雄を支えようなどということは、きっとおこがましいことだ。
それでもわたしは彼のそばにいる。なにがあっても離れない。
たとえ世界が、彼からそっぽを向いたとしても。
「これからはじまる、君と私の薔薇色の人生に、乾杯」
あいかわらずのキザな言葉と同時に、ふたりでグラスをあわせ、微笑みあった。
人生がずっと薔薇色なんて、そんなことはありえない。それでも少しでも、この優しい英雄のこれからの暮らしが明るいものになるといい。
わたしはそう祈りながら、これからもずっと、彼に寄り添い続けるのだろう。
2016.10.7