番外編・わがままを言わせて

 いつもより十分ほど遅く目覚めてしまったその日の天気は、梅雨時には珍しい晴天だった。
 今日は暑くなりそうだと、真夏のように照りつける太陽を見上げた私に、くるみが弾んだ声をかけた。

「マイトさん、お誕生日おめでとう!」

 そうか、今日は私の誕生日だったか。
 無意識に老いから逃げようとしているのか、この年になると誕生日にはあまり頓着しなくなる。人間なんてそんなものだ。

「ね。今日はお誕生日だから、なんでも言うことをきいてあげる。プレゼントは別にあるんだけど、なにかわたしにしてほしいこと、ある?」
「うーん。あまり思いつかないな」
「たとえば、今日一日、お仕事を休んでわたしといっしょにすごすとか」

 無茶言うな。
 今の私は教師だよ。「誕生日だから」なんて理由で、授業に穴をあけられるわけがないだろう。

「却下」
「じゃあ、今日、家にいる間はずっとわたしを抱っこしてるとか」

 それはさ、君がしてほしいことだよな?
 まったく、六本木からこちらに越してきて以来、くるみは私にべったりな上に、わがままも言い放題だ。もともとそういう傾向はあったけれど、最近はそれが少々目に余る。
 
「ねえ、なにかないの?」

 そういった妙な提案をやめて、少し静かにしていてくれないか。そう言いかけて、さすがにまずいと言葉を飲み込む。

「まあ、適当に考えておくよ」
「適当じゃだめ! それに、準備があるかもしれないから、今言ってくれなきゃだめ!」

 面倒くさいね、本当に。
 わがままなところが可愛くて一緒になったけれど、それが過ぎるとこちらも疲れる。

「ねえ、何がいいの?」

 だから思いつかないよ。
 それより、出かける支度をしたいんだけどな。時間がけっこうギリギリなんだ。

「あっ、じゃあさ。今日は私のことを俊典って呼んでよ」
「それは嫌」
「どうしてさ。シてる時は呼んでくれるじゃないか」
「……そういう時と今とは違うの。普段は呼びにくいから嫌」
「なんでも言うことをきくって言ったじゃないか」
「嫌なものは嫌だもん。だいたい、そんなに呼んでほしければ、最初から本名を名乗っておけばよかったのよ」

 痛いところを突かれた。
 確かに、始めて会った時「マイト」と名乗ったのは私だ。
 だが同じ事務所で働いていた以上、新入社員だった君に「八木俊典」の名を知られるわけにはいかなかった。こちらにはこちらの事情があったんだ。

「だから絶対、呼んでなんかあげない」

 普段なら聞き流せるこの一言が、今日はなぜか癇に障った。
 誕生日くらい、私の希望を叶えてくれたっていいじゃないか。あだ名じゃなくて名前を呼ぶだけの話だろ。

「じゃあ、私から君に頼みたいことはないよ。時間がないんだ、支度をさせてくれないか」
「そんな言い方ないじゃない!」
「なら言わせてもらうけどね、一日三十分でいいから私を放っておいてくれ。それが私の頼みだよ。毎日毎日、帰宅するなりへばりつかれて、テレビタレントの不倫話だの人気モデルがヌード写真を撮っただのとくだらない話を延々と聞かされる。そういうのはね、けっこう疲れるんだよ」

 くるみの顔色がみるみる変わり、瞳に涙が浮かび始めた。

 私にも、言い過ぎている自覚はあった。
 でも、いつものように折れてやる気にはなれなかった。涙ぐむくるみをそのままに、用意されていた朝食を食べ、コーヒーを飲む。
 いつもなら言いかえしてくるくるみは、この時何も言わなかった。

 身支度をすませリビングに戻ると、そこにくるみの姿はなかった。どこかにでかけた様子はない。おそらく寝室でめそめそと泣いているのにちがいない。

 けれど、テーブルの上にはいつものように、小ぶりの弁当箱が三つ用意されていた。
 胃袋のない私は、一度に多くの量が食べられない。そのぶん、普通の人より食事の回数が多くなる。一日平均、約六回。
 そのため、午前中に一つ、お昼に一つ、夕方に一つ、の計三つの弁当が必要になる。
 毎日、それを用意するのは大変なことだろう。そのうえ三つの弁当箱に同じおかずが入っていたことはない。ずいぶん前から、ずっと継続されていることだ。

 くるみは生まれも育ちも東京だ。他の地域で暮らしたことなどないし、親戚も友人知人もあちらの人間ばかり。この地域に、くるみはひとりも知り合いがいない。
 私意外の人間と殆ど関わりを持たず、一日中、家にこもっている。もともとおしゃべり好きの、社交的な子だ。人恋しくもなるだろう。
 
 やはり言い過ぎた。と、もう一度自身の言動を反省し、私は寝室へと向かった。案の定、扉には鍵がかけられている。やっぱり中で泣いているのだ。
 この鍵を壊して侵入するのは簡単だ。けれどそうしてしまったら、きっと事態は悪化する。

「くるみ」

 扉の外から声をかけた。返答はない。

「さっきは悪かったよ。言い過ぎた」

 それでもやっぱり無言のままだ。
 ちらりと自身の腕時計を眺める。くるみの様子も気になるが、もう、家を出ないと間に合わない。

「今日はできるだけ早く帰るから……」

 それに対する返答は、やはりなかった。

***

 ついていない日というものはあるものだ。誕生日だというのに。
 こんな日に限って職員会議がなかなか終わらない。やっと終わったと出ようとした瞬間、校長先生に捕まる。帰り道でも小さな事件や事故にいくつか出会う。
 結局、帰宅は十時を回ってしまった。

 早く帰ると言ったのに、連絡もできないままこんな時間になってしまった。きっとくるみは怒っていることだろう。

 自宅の扉の前で、大きく深呼吸。チャイムを鳴らすか自分で鍵を開けるか迷って、小さなベルのマークがついたボタンを押した。
 モニターを確認する気配のあと、がちゃりと鍵があけられた。

「ただいま」

 扉をあけて玄関ホールに入った瞬間、ぱん、という音と共に、紙吹雪が降ってきた。

 エ? ナニコレ? クラッカー?
 目の前には、満面の笑みのくるみ。

「お誕生日おめでとう!」
「……ありがとう……」
「お疲れ様!」

 おそるおそる私は尋ねる。

「怒ってないのかい?」
「怒ってるわよ」
「遅くなってゴメン」
「……怒ってるのはそっちじゃないもん」
「すまない。今朝は言い過ぎた」
「うん……でも、私もマイトさんに依存しすぎてたね……ごめんね」
「いや……」
 じゃあ仲直り、と、くるみが腕をからめてくる。

 そのまま向かったダイニングのテーブルの上には、私の好物がずらりと並んでいた。イベントごとが大好きなくるみは、いつもこうして腕を振るってくれる。

「これ、プレゼント」

 はい、と差し出されたのは、ベージュの包装紙に同じ色のリボンがかけられた細長い箱だ。

「開けていい?」
「うん」

 ベージュの包装の中から出てきたのは黒い箱。蓋を開けると、そこには黒いキャップヘッドに白い星が目印の、ドイツ製のボールペンが鎮座していた。
 ここの筆記具は書きやすい。元々の作りがしっかりしているし、私の手にもしっくりくるサイズのものが用意されているからだ。だから定番の万年筆は持っていた。
 ボールペンは初めてだが、おそらく万年筆同様、使い心地は良いだろう。

「お仕事で使ってね」
「ありがとう」
「それからね、マイトさんが考えてくれなかったから、今日の流れをわたしが考えたから」
「は? 流れ?」

 まあ、こういうところはきっと、これからもずっと変わらないんだろうな。

「今日はね、ご飯を食べてケーキでお祝いしたら、薔薇のお風呂に入るの」

 いや、私、特に薔薇風呂好きじゃないけど。それ、君がしたいだけだろう。
 そう思ったが、さすがに口には出さなかった。朝のやり取りを繰り返すのはたくさんだ。

「お風呂は、もちろん君も一緒に入ってくれるんだろ?」
「電気を消して、キャンドルのあかりの中でなら……」
「風呂場の電気は調光できるようにしたじゃないか」
「……それでもまだ明るいもん。それにお風呂場はキャンドルのあかりの方が好きなんだもん」

 ゆれるキャンドルと薔薇風呂か。
 たぶんそれ、入浴だけじゃすまないと思うよ。というよりね、すまさない。

「そのあとは?」
「今日の……さんは疲れてるだろうから、あとは手を繋いで寝るだけ」
「え? 今、なんて? 私のことをなんて呼んだ?」
「俊典さん!」

 今日だけだからね!と、くるみが甘えた声で私を見あげる。

 思った通り、悪くないよ。
 その声で、私の名前を呼んでくれ。
 今夜だけ、私のわがままをきいてくれ。

 私は、くるみをそっと両腕の中に閉じ込める。

「ねえくるみ。薔薇風呂のあとは君が欲しいな」
「でも、俊典さん、今日は疲れてるでしょ?」
「いや、大丈夫。……そうだな、なんなら君が上になってくれてもいいよ。なにせ今日は私の誕生日だ」

 たくさんサービスしてくれよ、と耳元でささやくと、くるみはばか……と小さく答えた。
 
 そのまま私は、くるみの髪に唇を落す。
 くすぐったそうに、くるみが笑う。
 なんでもないけれど、ほんとうに些細なことだけれど、それでもきっと、これもひとつの幸せの形。

 ついてないなんてことはない。
 いろいろごたごたもあったけれど、まったく、今日は最高の誕生日だ。


2016.6.10

注・作中の筆記具メーカーは実在しますが、オールマイトの手にしっくりくるほど大きいものはないと思います。
でも、きっとあの世界にはあるだろうな、と思いながら書きました。
本編の3話と4話の間のお話。

月とうさぎ