1話 霜夜に

グロゼイユ・ノワールを

 ろうそくの火が消えるように、窓の外にそびえる東京タワーのライトが落ちた。
 秒針が時を刻む音だけがやけに大きく聞こえる午前零時。わたしはひとり、窓の外を見つめていた。
 タワーマンションの上層階から眺める夜景は見事だ。空気の澄んだ真冬であればなおのこと。けれど窓の外に広がる景色が美しければ美しいほど、ひとりでいるさみしさを際立たせる。
 部屋の中に、見えない霜が降りていくようだ。
 カシスソーダの入ったグラスを傾けながら彼を待つリビングは、充分空調が効いているにもかかわらず、なぜかとても寒々しかった。

 東京タワーのライトアップを見ながら口づけを交わしたのは、そう遠い昔のことではないのに。はじめて彼と夜を過ごした梅雨寒の日から、まだ一年半しか経っていないのに。
 こんなに早く、こんな日が訪れるとは思ってもいなかった。

 わたしたちの関係に影が差し始めたのはいつからだったろう。
 クリスマスの夜? それともその前の、喧嘩をした初冬の夜から?

 グラスを掲げて、天井の照明を透かし眺めた。カシスソーダ。ルビーのように赤い、透明感のある美しいお酒。
 わたしは甘くて少し酸味もあるこのお酒が、カクテルの中で一番好き。
 このお酒の美味しさと酒言葉を教えてくれたのは、マイトさん。それを思い出した瞬間、口唇からため息がこぼれ出た。

 マイトさんは最近、様子がおかしい。

 オールマイトは、今年の春から母校である国立雄英高校の教師となる。事務所を畳む手続きと、教師になるための準備と、本来のヒーロー業と。現在の彼はとても多忙だ。
 それだけではなく、「事務所を閉めることにした」と、心地よく響く低声でわたしに告げたあの春の日から、マイトさんはあちらとこちらを行ったり来たりだ。
 いつでも泊まれるよう、すでにあちらには家もある。

 だから帰宅が遅くなるとか、週の何日かをあちらですごすことは、前からあったことなのだ。
 だが、近頃はそれがあまりにも頻繁すぎる。
 今年に入ってからは週の半分をあちらで過ごしているし、こちらにいる時も、事務所の整理で忙しく殆ど家には帰ってこない。

 おかしいのは、それだけではない。

 マイトさんは携帯の画面を見つめていることが増えた。それだけではなく、こそこそと誰かと連絡を取り合っているようで。
 あれは絶対に仕事ではない、仕事がらみの要件であんな緩んだ顔をしているマイトさんをわたしは一度も見たことがない。
 もしかして、あちらに女性でもできたのだろうか。

 ため息をもう一つ落として、わたしはカシスソーダを飲み干した。
 この美しいお酒のカクテル言葉は、あなたは魅力的。このお酒と同じ魅力の塊みたいなあのひとを、他の女性が放っておくはずもない。

 携帯のホームボタンを押して、もう一度マイトさんからのメッセージを確認する。
 三日ぶりの帰宅であるにも関わらず、そこに書かれていたのは「最終の新幹線で帰るから、先に寝ていて」とだけ。
 新幹線の最終は23時45分に東京駅に到着するはずだった。東京駅からここまでは電車で約15分。だからわたしは待っている。彼の帰宅を。
 久しぶりに会えるのに、寝てなどいられるわけがない。

 その時、かちゃり、と扉が開いた。

 三日ぶりの、ひょろりと長いその姿。疲れているせいなのか、肉付きの悪い顔がますますやつれて死神めいた風貌になっている。

「くるみ。起きていたのか」

 寝ているようにと連絡したのに、と続いた声にわたしは少しせつなくなった。
 三日も会えなかったのに、マイトさんはさみしくはなかったのだろうか。

「……だって、久しぶりだから……」

 小さい声で答えると、彼は小さくそうかと答えた。
 少し前のマイトさんだったら、こんな言い方をすればどんなに疲れていても抱きしめてくれた。それなのに、いらえる声には面倒そうな響きがにじんで。

「さすがに私も疲れたよ。シャワーを浴びたら即ダウンしそうだ」

 そう言いながら、マイトさんはバスルームへと消えて行った。
 久しぶりなのにそれだけなの?
 むしょうに悲しい。わたしが彼を思うほど、彼はわたしをもう好きではない。そんな気がしてならない。

 じわりと滲んだ涙の存在をあえて無視して、わたしは視線をテーブルの上へと移動させた。そこに飛び込んできたのは、無造作に置かれた携帯端末。彼の大きな手には不似合いな、小さな機械。
 思わずそれに手が伸びた。
 悪いことに、わたしは彼の携帯のロックを解除する番号を知っている。

 一度ふざけて「教えて」と言ったら、さらりと教えてくれたのだ。
 マイトさんはわたしに対しても秘密が多いけれど、こういうことには頓着しない。

 いけないと思いながら、覚えていた数字を立て続けに押す。
 ぱっとロックが解除され、ずらりとアイコンが並ぶホーム画面に切り替わった。
 メール、通話、無料通話とメッセージ機能のあるコミュニケーションアプリ、そして画像。このどれかを押せば、知りたいけれど知りたくない情報が、わんさか出てくることだろう。

 携帯を持ったまま大きな溜息をついたわたしの背後で、解けた氷がからりと鳴った。

***

 窓の向こうには、鬱屈とした鉛色の空が広がっている。今にも白い物がちらついてきそうな、冬の昼下がり。
 だが戸外の寒さが嘘のように、エスニックレストランの中は暖かい。このレストランのテラス席は小さな日本庭園が見下ろせるつくりになっているが、さすがにこの寒い中、テラスに出る気にはなれなかった。

 わたしの前にはナシゴレンのプレートが、目前の美しい女性の席にはグリーンカレーのプレートがそれぞれ置かれている。

「浮気?」

 その美しい女性は、少し驚いたように目を見開いた。本当に美しい人は、どんな表情をしても綺麗なのだなと見とれてしまう。

「まあ、オールマイトさんも男性だから、その可能性はゼロではないと思うけれど……わたしが見る限り、女性の影はないと思うわよ」
「でも……最近マイトさんはあっちとこっちを行ったり来たりだし、昨年の秋には家を借りたから、最近はそこに泊まることも増えたの」
「往復に時間を取られるから仕方ないんじゃない?」
「だけど、心配なの!」

 せっぱつまったわたしの声に、目前の美女がくすくすと笑った。
 彼女はオールマイトの秘書。もちろん、ヒーロー免許も取得している。「シャッターアイズ」の上位互換である「記憶整理」の個性を持つ才媛だ。見た物すべてを一瞬にして記憶し、脳内の引き出しに整理し、いつでも引き出すことのできる能力の持ち主。付け加えると語学も堪能。
 その個性ゆえに、ナンバーワンヒーローのもっとも近しい位置にいるひとだ。公人としてのオールマイトの予定は、すべてこの女性が管理している、といっても過言ではない。
 次の就職先もすぐに決まったと聞いている。彼女ほどの個性の持ち主であれば、どこの会社も、官公庁も、ヒーロー事務所も欲しがるに違いない。
 わたしは無個性ではないけれど、職業に活かせるほどの個性には恵まれなかった。この美しいひとが、わたしは正直うらやましい。

「あなたは相変わらずね。うちの事務所にいた時とかわらない」

 オールマイトの美しい秘書がにこやかにそう言った。彼女が言っているのは、わたしがマイトさんの正体を知らなかった頃のことだ。

「あの頃、あなたは一度も『マイトさん』の正体をわたしにたずねなかった。それはどうして?」
「……だって、聞かれたら困るでしょ? 秘書って言う職業上、言えないことってあるでしょ?」

 当たり前のことを当たり前に答えると、なぜか彼女はまた満足そうに笑んだ。高貴なカトレアの開花を思わせる、華やかな笑みだった。

「それだけじゃないわ。今だって、あなたは『マイトさん』のスケジュールをわたしに確認することもできるのよ。そうすれば浮気なのか、本当に仕事なのか確認できると思うけど」
「それはダメ……だって、それでもしマイトさんの浮気が発覚したりしたら、あなたが困るでしょ? わたしマイトさんに言っちゃうもん。あなたからスケジュールを聞いたって、絶対言うもん。そうしたらきっとマイトさんは怒るよね。わたしのせいであなたとマイトさんの関係がおかしくなるのは、嫌」

 美しい秘書は楽しそうにくすくすと笑い続ける。

「あなたってひとは、本当に……」
「え? なにかおかしい?」
「いいえ、おかしくはないわ。あなた以上に『マイトさん』に相応しいひとはいないわよ。だからもう少し自信をお持ちなさいな」
「……そうかな……」
「そうよ」

 グリーンカレーを無駄のない動作で口元に運びながら、カトレアのような人は、またふわりと笑ったのだった。

***

 雄英の入試の準備とやらで、マイトさんはまた明日からあちらに行ってしまう。
 あちらで彼はどんなふうに過ごしているのだろう。
 胸に、また小さな不安が巻き起こる。それをかき消すように、グラスの中の深紅のお酒を、マドラーで軽くステアした。

「くるみ」

 声をかけられて、びくりとした。いつになく真剣な光を宿した双眸が、こちらを見据えていたからだ。
 わたしは黙って、マイトさんのお茶と自分のカシスソーダをテーブルの上に置いた。

 別れ話をされてしまうのだろうか。

 嫌な予感に泣きそうになりながらも、マイトさんの隣りに椅子を持ってきて腰を下ろした。異性と話をするときは、向かい合って話すよりも同一方向を向いて話した方がいい、と聞いたことがある。少しは効果があるだろうか。

 どきどきしながら、マイトさんの言葉を待った。
 終わりなら早くそう言ってほしいという気持ちと、先延ばしにしたいという気持ちが交錯して、頭の中がぐちゃぐちゃだ。
 指先がかすかに震えていることに気づいて、左手で右手の先を守るようにそっと覆った。

「なに?」
「そろそろ、生活の拠点を完全にあっちに移そうと思うんだ。くるみはどうする?」
「どうするって?」
「ここは三月末までの契約だから出なきゃいけないけれど、君が東京を離れるのが嫌なら、都内に家を用意するよ」
「どうしてそんなこと言うの?」
「だってくるみ。最近元気がないじゃないか。東京を離れるのが嫌なんじゃないのかい? 君は23区外で暮らしたことがないだろう?」
「……ねえマイトさん、ほかに好きな人ができたならはっきり言って!!」
「は? ナニソレ?」
「だって……マイトさん、浮気してるでしょ」
「くるみ? なに言ってるんだい?」
「だって最近、マイトさんへんだもん。こそこそメールしたり、携帯を見ながらにやにやしたりして……」

 マイトさんは一瞬だけきょとんとした顔をして、次にいきなり笑いだした。

「私の携帯が気になるなら、いつでも見ればいいじゃないか。君は私の携帯のパスコードを知っているだろう?」

 知っている、いるけれど…わたしは人の携帯の中身を勝手に見たりはしない。一度魔がさしかけたことはあったけれど、あの時だって、わたしは中身を見ずにおいたのだ。

「見ないよ」
「なぜだい?」
「だって……それはマイトさんの携帯であってわたしの携帯じゃないもん。だから勝手に見たりしてはいけないの」

 まったく!、と、長い腕で抱きしめられた。

「だからね。私は君のそういうところが好きになったんだよ。わがままで、いつまでも子どもで、焼きもちやきで、面倒だけれど、誰よりも綺麗な心の持ち主だから」

 本当に君はかわいいな、と続く言葉とほぼ同時に、頬にキスを落とされた。

「いいよ。見て」

 マイトさんが写真のフォルダを開けた。
 そこにいたのは、わたしよりもずっと若い……中学生くらいの子。
 けれどそれは女の子ではなく、もっさりとした髪の少年だった。

「新しい仕事の準備の他に、この子の訓練につきあっているんだよ。だからあちらに泊まることが増えてね」

 少年相手の訓練は学校のない早朝や夕方以降であることが多いから、とマイトさんは小さく笑った。

「携帯を見てにやにやしていたのもね、この子とのやりとりが楽しかったからなんだ。とにかく私を慕ってくれててさ、かわいいんだよ。……まだ疑うなら、やり取りしてるメッセージも見るかい?」

 わたしは静かに首を振った。
 ヒーローに憧れる少年が『オールマイト』に送るメッセージがどんなものになるのかは、容易に想像がつく。
 純粋な少年が『オールマイト』を信頼しきって送った文章を、わたしが見ていい道理はない。
 マイトさんだって、本当は少年の気持ちを裏切りたくないに決まってる。

 オールマイトは都合の悪い真実は語らないけれど、嘘はつかない。
 だから、そこはもういいと思った。

 それにしても、マイトさんとこの少年はどういう関係なのだろう。
 親類縁者なのか、それとも恩義のある先達から託された才ある少年なのか。

「マイトさんが入れあげてるのは、この子だったのね。ちょっと地味だけど、よく見るとこの子、おめめぱっちりで可愛い……」
「ちょっと! 誤解を受けそうな言い方はヤメテ! そんなんじゃないんだ。この子は本当に大事なんだよ。だからね、大切に育てたいんだ」
「それって……」

 うん、とマイトさんが頷いた。

「その少年は、ヒーローとしての私の後継者だよ」
「でも、マイトさんの後継にしては身体が小さすぎない? 強い個性の持ち主なんだろうけど……」
「身体の大小は関係ない。大切なのは心だよ。この子はね、ヒーローとして一番大切な資質を持っているのさ」

 ヒーローとしての資質、という言葉にわたしはほんの少しの不安をおぼえた。
 人を救けたい、大切なものを守りたい。それはヒーローだけでなく、大抵の人が持ち得ている感情のはずだ。
 けれどこの人の言う資質とは、そういうものではないだろう。彼の思う資質とは、自らの身を挺しても誰かを救けようとする、無茶な自己犠牲とも呼べるもの。
 もしその緑谷少年とやらがマイトさんと似た思想の持ち主であったとしたら、少し危険だ。今のままの彼で、この子をうまく導いて行けるのだろうか。

「なにか言いたげだね」
「そんなことないよ。ただ、緑谷くんがどんな個性を持っているのか、ちょっと気になっただけ」

 ごまかすようにそう言った。
 個性の話題なら、無難であると思ったからだ。けれどわたしの思いに反して、マイトさんはやや難しい顔をした。

「……うん……まあ……優れた個性だよ」
「どういうこと?」
「優れている、としか言いようがないかな」

 まただ……。
 マイトさんには、絶対に他者に踏み込ませない場所がある。誰にでもそういう場所はあるものだが、彼のそれは、存外広い。

「話は変わるけど」
「うん」

 やっぱり話す気はないんだな、と思いながら、氷の解け始めたカシスソーダを一口ふくんだ。
 どんなに愛し合っていても、親子であっても夫婦であっても、立ち入ることができない部分がある。頭ではわかっている。わかってはいるが、少し悲しい。

「最近君の元気がなかったのは、東京を離れるのが嫌だからじゃなくて、私の浮気を疑っていたからなのかい?」
「うん……あと……最近あっちにいることが多くなったでしょ。だからさみしかった」
「ごめん。あと少しの辛抱だ。雄英の教師になったら、ヒーロー活動のほうも、今よりは控えるつもりだよ」
「うん……」
「くるみ」

 優しく呼ばれ、今度は髪に唇を落とされた。

「君は本当にカシスソーダの酒言葉みたいだ。私を魅了して離さない」
 
 さんざん放っておいたくせに、よく言う。
 けれどわたしは、やっぱり流されてしまうのだ。わたしはこのひとの、甘くて低い声にとことん弱い。

 カシスソーダを口に含んで、乾いた唇にこちらからそっと口づけた。
 自分から彼の口の中に舌を差し込むと、わたしを抱いていた細い腕に、きゅっと力が込められる。

「カシス、甘い?」
「うん。でもきっと、君はもっと甘いんだろうな」

 慣れ親しんだ大きな手が、わたしをひょいと抱き上げる。
 どこに行くの、と、わたしは問わない。こうするつもりだ、と、彼も言わない。

 これから始まるのはきっと、カシスのように甘くせつない、たまゆらのしあわせ。

2016.7.22

グロゼイユ・ノワール=カシス

月とうさぎ