2話 そこにミモザがあるかぎり

 ベッドルームのカーテンを開けたとたんに飛び込んでくるのは、やわらかな春の日差し。
 窓の向こうには、充分すぎる広さを有する円形のルーフバルコニーがひろがっている。
 休日のブランチ用にと、わたしたちはそこに白いガーデンテーブルセットを置いた。それらはまだ一度しか使用していないが、ゴールデンウイークがくれば、きっと活躍してくれることだろう。
 バルコニーの手すりの先には、マンションの中庭に植えられた木々がみえる。ピンク色の花海棠と、鮮やかな黄色い球状の花冠を持つミモザが咲いている。
 ミモザの花のふわふわとしたフォルムも、細い枝をしならせ風に揺れるはかなげな風情も、わたし好みだ。太陽光に照らされて金色に輝く花の群れは、すこしマイトさんに似ている。

 けれど近頃、ミモザはわたしを切なくさせる。

 ミモザの花言葉は、秘密の恋。
 まるでマイトさんとわたしの関係を象徴するかのよう。新生活が始まっても、マイトさんはわたしとのことを公表していない。
 相変わらず、オールマイトのプライベートは謎のままだ。
 
「マイトさん、起きて」

 声をかけると痩せこけたスーパーヒーローは、ン……と低い声をあげた。

「コーヒー淹れるけど、アイスとホット、どっちがいい?」
「……ホット……」
「了解」

 まだ眠たそうなマイトさんを後にして、わたしは再びキッチンに向かう。

 やっとこの家のキッチンにも慣れてきた。
 お洒落度では六本木時代のアイランドキッチンに軍配が上がるけれど、使いやすさでは作業スペースが広い今のL型キッチンの方が勝るかもしれない。

 わたしたちの新しい家は、駅から徒歩十分弱の閑静な住宅街に立つ、低層邸宅型マンションの一室。マイトさんの勤務する雄英からもそう遠くない。
 五階までしかないつくりであるため、東京の街を一望できたタワーマンションほど住民数は多くないし、居住者専用施設も地味だ。
 けれど今の住まいは、かつて住んでいたマンション以上に強固なセキュリティを誇る。マイトさんは何も言わないけれど、おそらくここはアッパークラス……いわゆるセレブと呼ばれるような人たちが密かに住まう集合住宅なのではないか。
 実際、一度エントランスで、大物政治家を祖父に持つ作家の姿を見かけたことがある。

「くるみ、おはよう。ああ、いい香りだね」

 くああ、と大きな欠伸をしながら、眠たそうなのっぽさんがキッチンにつながるリビングダイニングに顔を出した。
 席に着いた彼の前に淹れたてのコーヒーと朝食を乗せたプレートを置くと、帰ってくるのはいつものように、ありがとうの言葉と優しい微笑み。

「マイトさん、今日の予定は?」
「いつもと同じだよ。仕事が終わったら直帰する」

 何時になるかわからないってことね、と、わたしは心の中でひとりごちる。
 マイトさんの帰宅時間は、教師になってからも相変わらず読めない。

 教師というものは、意外にも残業が多い職業だった。
 マイトさんは指導要領に沿ったうえで、生徒一人一人の個性や性格的な特性を考慮し、個々の指導方針を立てている。
 それらすべてをまとめることは、就業時間内では難しい。そして生徒の個人データは、校外へ持ち出すことを禁じられている。となると、必然的に残業となる。
 同時に彼は、教師としては新米だ。授業も、自作のマニュアルを見ながら進めているらしい。授業内容が変わるごとにマニュアルを制作しているのだから、それにも大きく時間がとられる。

 そのうえ「オールマイト」は年中無休。帰宅途中に事故に遭遇したら、彼はやっぱり現場に向かう。
 マイトさんにとって「オールマイト」であることはなにより大事な優先事項だ。「八木俊典」が優先されたためしなどない。
 ここに来る前、彼がわたしに言っていた「雄英に行けば君と過ごす時間ができる」という言葉は、政治家の選挙公約のように、守られはしない。

「君は?」
「わたし?」

 いきなり尋ねられて、どう答えたらいいか少し迷った。
 いつも通り家事をこなして、それから自分好みのかわいい家具や服が掲載された雑誌を眺めて、ちょっと切ない恋愛ドラマを鑑賞し、ネイルがはげかけていたらあらたに塗りなおし、夕方になったらまたマイトさんのために夕飯を作る。それがわたしの毎日。

「いつものように過ごすつもりだけど」
「街に出てショッピングでもしてくれば?」
「……もう飽きちゃった」
「ずいぶん早いな」

 マイトさんが呆れたようにため息を吐く。

「越してきたばかりの頃は、『こっちの女の子のファッションの方がわたしの好み』って言ってたじゃないか」

 この街の女の子たちは、シンプルシックを好みがちな東京の子たちより華やかだ。
 ショーウインドウに飾られている服も、東京のそれより可愛い色合いのものが多い気がする。けれど。

「もうクローゼットがいっぱいなの」
「いいじゃないか。クローゼットに入りきらないなら、サービスルームを君の洋服部屋にすればいい」
「わたしはマリー・アントワネットじゃないから、そんなにたくさんのお洋服はいらないの」
「ン。まあ、そうだろうけど」

 この街は、東京で想像していたよりずっと都会だった。女の子たちもカワイイし、お洒落なカフェもいっぱいあるし、素敵な雑貨屋さんもたくさんある。
 でも違う。ここは、わたしの育った街じゃない。

 マイトさん不在の六本木の夜も切なかったが、彼以外に知り合いがいない街というのも、また、さみしいものだった。

 ここでマイトさん以外の寄る辺を見つけられないわたしは、その後を追うように生活をしている。きっと、彼にしてみればうっとうしくてしかたがないことだろう。
 だからきっと、外に出ておいで、などと言うのだ。 
 けれど、お一人様の買い物で受ける刺激など、たかが知れている。

 ジャーマンポテトをゆっくり咀嚼しているマイトさんを見つめながら、わたしは前々から思っていたことを口にした。

「わたし、また働こうかなぁ」
「必要ないだろ? なにかやりたい仕事でもあるのかい?」
「家にいたって退屈なんだもん」
「おいおい、仕事と暇つぶしを一緒にするのはよくないぞ」
「だって……つまんない」
「そんな姿勢で働かれても、周りの人に迷惑だろう」

 返ってきたのはまさに正論。こちらとしてはぐうの音も出ない。
 こういう時、このひとは大きな事務所を経営していた事業家の顔になる。

「さ。私もそろそろ準備しないと」

 コーヒーを干して、マイトさんが席を立つ。
 わたしはこれ以上、この会話を続けられないことに気づく。

「早く帰ってきてね」

 洗面所に向かいかけたマイトさんの背中に、重たくならないよう気をつけながら声をかけた。それに軽く右手を挙げて応じた、ひょろ長い後ろ姿。

 振り返ってすらもらえなかったことを、わたしは密かにさみしく思う。

***

 マイトさんを送り出した後、汚れた食器を食洗機にかけ、洗濯機を回して掃除をする。床の掃除は簡単なものだ。円形のロボット掃除機のスイッチを入れる。ただそれだけ。
 ロボット掃除機が働いてくれている間に、日替わりで窓の汚れや洗面所やトイレ等を綺麗にする。
 小さい子供や介護が必要な老人がいるわけでもないこの家では、一、二時間で家事が終わってしまう。
 そこからは、いつものように長い長いひとりの時間。
 ため息をついてテレビの電源を入れようとした、その時だった。

「あれ……」

 ソファの前のローテーブルの上に、三つのお弁当が置いてあることに気がついた。

 マイトさんには胃袋がない。そのため一度にたくさんの量が食べられないし、血糖値のコントロールはとても大事だ。
 胃を摘出した六年前に比べればずいぶん回数が減ったらしいが、それでもときたまダンピングの症状はおきる。
 だからわたしは、毎日心をくだいて三つのお弁当を作っている。同じおかずにならないように、できるだけ消化が良く栄養価の高い物を。
 少しでも、彼の助けになるように。

 慌てて時計を眺めると、時刻は十時を回ったところだった。今日は三限目に授業がないはずだから、一度目のお弁当タイムは二限目が終わる十時半すぎだろう。
 ここから雄英まではそう遠くない。今すぐ出ればきっと間に合う。
 
***

 UとAの文字を組み合わせた校章を中央に抱いた門を見上げて、わたしは大きくため息をついた。
 この門の先に入れるのは関係者だけだ。
 身内であろうがなんであろうが、通行許可証を持たぬ者は何人たりとも立ち入ることはできない。それがかの有名な、雄英バリアー。

 だから家を出る前と、電車に乗る前と、ここについてからの三回にわたってマイトさんにメッセージを入れたのだが、トーク画面にはどれも既読の文字がついていない。

 時刻は現在、十時三十五分。
 半を回ったところで思い切って電話をかけてみたが、予想通りつながらなかった。きっと電源を切っているのだ。教師という仕事柄、それも仕方のないことだ。

 けれど、弁当がないことにはさすがに気づいているだろう。そうすれば携帯を見るかもしれない。
 もう少し待っていれば、もしかしたら……そう思って待っていたその時、背後からやわらかな声が響いた。

「我が校に何かご用?」

 声をかけてきたのは、背の高い綺麗な女の人だった。
 テレビで何度か見たことがある。このひとは18禁ヒーローのミッドナイトだ。モニター越しで見るより、ずっと綺麗でスタイルがいい。

「あの……こちらにオールマイトがいると思うのですが」
「……オールマイトは確かにうちの教員だけど、ここで待っていても出てきてはくれないわよ。気の毒だけど、オールマイトは某歌劇団のスターじゃないし、ここは学校。出待ちや入り待ちをされるとね、いろんな人に迷惑がかかるのよ」
「違うんです、わたしは……」
「オールマイトのフォロワー、でしょ?」

 どうしよう、困ってしまった。
 オールマイトの名を出せば、こういう反応をされるだろうとは予想していた。かといって本名を出すこともできない。マイトさんの本名を先生方がどれだけ知っているか、それがわたしにはわからない。

 マイトさんがわたしの存在を明らかにしているかも不明だ。
 だから、余計なことは言えない

 マンションの中庭で咲いていたミモザの花が、脳裏に浮かぶ。
 秘密の恋。秘密の名。秘密の個性。プライベートが謎に包まれた、オールマイト。
 じわりじわりと滲み始めた涙で、視界がゆがむ。

「ごめんなさいね。気持ちはわかるけど、これ以上ここで待たれても、いろんな人が困るのよ」

 わたしの涙を勘違いしたミッドナイトがすまなさそうに告げた。彼女の言うことももっともだ。
 これ以上ここにいても仕方ない。今日は諦めようと涙をぬぐった瞬間、頭の上から声がした。

「くるみ!」

 聞きなれた低音が呼ぶ自分の名。
 弾かれたように顔を上げると、そこには見慣れた笑顔があった。

「ごめん、連絡をくれていたのに、気づくのが遅れた」

 申し訳なさそうに頭を掻くマイトさんを見て、ミッドナイトが頓狂な声をあげる。

「じゃああなた、オールマイトさんのお身内?」
「はい」
「どうして最初にそう言わなかったの?」
「……マイトさんが困るかもしれないから……」

 この答えに、ミッドナイトがきりりと柳眉を逆立て、マイトさんは驚いたように眼を見開いた。

「オールマイトさん。まさか、いつもこんな気遣いをさせてるんですか?」
「いや、そんなつもりはなかった」

 即答したマイトさんに、ミッドナイトの表情が少し緩んだ。

「でも……うん……そうだね。ちょっと私の配慮が足りなかったかもしれない。家に帰ったらそれも含めてきちんと話すよ」
「そうしてさしあげて下さい。ファンと間違えて、追い返してしまうところでしたよ」

 ごめんごめんと言いながらマイトさんが頭をかく。このひとはこういうちょっとしたしぐさがかわいいのだ。
 だから憎めない。だから愛しい。

「マイトさん、これ」
「ああ、わざわざ届けてくれてありがとう」

 持ってきたお弁当を手渡すと、また満面の笑み。

「今日は早く帰るよ、ハニー。帰ったらこのお礼をたくさんさせてくれよな」
「そういうのは第三者のいないところで言ってください。聞いてるこっちが恥ずかしいです」

 辟易したように肩をすくめるミッドナイトに、マイトさんがはははと笑った。

***

「悪かった」

 帰宅してテーブルに着くなり、マイトさんがわたしに頭をさげた。

「くるみ、君とのことを世間に公表していないのは、君の身を案じてのことだ」
「うん」

 それは充分にわかっていた。
 ヒーローの身内には危険がつきもの。
 わたしに優れた個性があればまた違ったのかもしれないが、弱い個性しか持たないわたしは、自分で自分の身すら守れない。
 だが理屈ではわかっていても、感情が追いつかないことがある。

 風に揺れるミモザの花が、頭の中で浮かんで消えた。

「同僚たちもね、くるみのことを知っているよ」
「そうなの?」
「そうだよ。自分からぺらぺら話すことじゃないけどね。たとえば君が毎日作ってくれるお弁当。三つもあると、毎日誰が作ってるんですか、って話になるんだよ。だから、わたしにそういう女性がいることは、みんな知ってる」
「……うん」
「気を使わせて悪かったね」
「ううん。大丈夫」
「じゃあ、今日はこれで乾杯しようか」

 マイトさんが傍らに置いていた紙袋から、ハーフサイズのシャンパンとオレンジジュースを取り出した。

「マイトさん、お酒を飲んでも大丈夫なの? 炭酸もよくないんでしょ?」
「そうだね。でもオレンジの比重を多くすれば問題ないよ。配分はどうあれ、ミモザはミモザだ」

 スパークリングワインとオレンジジュースのハーフ&ハーフ。それがミモザカクテル。
 けれどその比率が3対7や2対8になったところで、家庭で楽しむぶんにはたしかにそう問題はないだろう。

 わたしは食事を温めなおすために、マイトさんはワインクーラーに氷を詰めるために、二人同時に立ち上がる。
 この辺りは阿吽の呼吸。特に言葉は必要ない。

 共に過ごした時間が長くなればなるほど、言葉がなくてもわかることは増えていく。
 けれど今回のように、そして以前の後継者の少年の事のように、言葉にしなければわからないこともまだまだある。
 その見極めができるようになるにはきっと、長い長い月日が必要なのだろう。
 
 すべての支度が整って、乾杯した後、マイトさんが破顔した。

「ミモザはマンションの中庭にも咲いてるだろ。花が終わる前に、くるみと飲もうと思ってた」
「……マイトさん、ミモザの花言葉、知ってるの?」
「いや、知らないけど」
「ミモザの花言葉はね、秘密の恋」

 するとマイトさんは、少し驚いた顔をした。
 知らずにこのカクテルを選ぶ辺りが、マイトさんらしい。
 タイミングがいいのか悪いのか、よくはわからないけれど。

「じゃあ、くるみ」

 マイトさんがわたしの手をとって囁いた。耳に優しい、甘くやわらかな低音。

「君は、ミモザカクテルの酒言葉を知ってるかい?」
「知らない」

 手の甲に唇を落としながら、マイトさんが微笑む。

「ミモザの酒言葉は真心、だよ。私の精一杯の真心を、君に」

 ああもう、またやられた。
 まったくもってマイトさんはずるい。

 わたしはきっと、こうして彼の手のひらの上で踊らされ続けるのだろう。ここに真心がある限り。

 踊らされているのを知っていてなお、口元が緩んでしまうわたしをみとめて、マイトさんが満足そうに眼を細めた。

2016.8.3
月とうさぎ