3話 アトラスの腕で眠れ

 五月晴れの心地よい陽気に誘われて、駅前のデパートまで足をのばした。
 イスラエル発祥のボティケアのお店で、ボディオイルとバスボールを購入した。ここの製品のパッケージはアンティーク調でとてもかわいい。そのうえ、お肌もしっとりすべすべになって香りもいいのだから、一度使ったらやめられない。
 ここのオイルをつけた夜は、マイトさんもいつもより念入りに愛してくれるような気がする。

 今夜はこれをつけてベッドに入ろう、そんなことをもくろみながら独りうふふと笑んだ瞬間、ずるりと足を滑らせた。
 やだ!と思った時にはもう遅い。百貨店の出入り口でド派手にひっくり返ってしまった。
 インフォメーションのお姉さんが、心配そうにこちらを見ている。

 大丈夫です、お姉さん。打ちどころは悪くない。ただただ、恥ずかしいだけ。見なかったことにしてください。
 
 赤面しながら立ち上がろうとしたその時、大きくはないがしっかりとした手のひらが、目の前にすっと差し出された。
 なぜだろう。
 ぜんぜん大きさは違うのに、マイトさんの手と似ていると思ってしまった。

「大丈夫ですか?」

 声は少年のものだった。つられて顔をあげた先には、頬に散るそばかすと大きな目が待っていた。その上で遊ぶ、おさまりの悪いもさっとした頭髪。わたしはそれらに見覚えがあった。

「あれ、あなた……」
「あっ……オールマイトの……」

 相手の口から洩れた言葉に驚いて、思わず目を瞬かせた。向こうも驚いたようすでこちらを見ている。

「あなた、もしかして、緑谷……くん?」
「……はい……くるみさん……ですよね……オールマイトの……」

 そう言ってから、少年は口を抑えて周囲をきょろきょろと見回した。

「誰かに聞かれても困るから、マイト、って呼びましょうか。わたしも彼のことをそう呼んでるし」
「は……はい、そうですね」
「緑谷くん。せっかく会えたんだし、よかったらお茶でも飲まない? 学校での彼の話、きかせてよ」

 緑谷くんははにかみながら、ちいさくはいと頷いた。

 少年とお茶を飲むのに、わたしは落ち着いた雰囲気の喫茶店を選んだ。
 白磁にロイヤルブルーの花が描かれた紅茶ポットから、同じ柄のカップに紅茶を注ぐ。カップの内側は白一色で、紅茶の色が映えるな、とひそかに思った。
 ちらりと少年を見やると、緊張した面持ちでアイスココアのグラスを手にしている。 
 この子、なんだかかわいい。見ているだけで心がほわほわと浮き立ってしまう。
 そういえば、マイトさん以外のひととこうしてお茶を飲むなんて、ずいぶん久しぶりのことだ。

 はにかみ屋さんのかわいい少年と、ゆっくり話をした。
 緑谷くんがわたしのことを知っていたのは、マイトさんの携帯が見えてしまったのがきっかけらしい。ホーム画面がわたしの写真だったそうだ。

「僕、その時、くるみさんを女優さんと間違えて、ファンなんですか、って聞いちゃったんですよ。そしたら、似てるかもしれないけど違うよ、私の大事なひとだ……って」

 思わず顔がゆるんでしまった。
 マイトさんがわたしのことを隠さず話してくれたことを知ってとても嬉しかったし、小悪魔役でブレイクした若手美人女優と似ていると言われたことも、悪い気はしない。
 うん。この子、なかなか見る目がある。わたしも彼女とは似てると思ってたの。以前、マイトさんにそう言ったら、君は本当に図々しいねって笑われたけれど。

「ところで……あの……」
「なに?」
「オー……じゃなくて、マイトさんのこと、きいてもいいでしょうか?」
「うん、なにが知りたい?」

 もじもじしながら、緑谷くんが口をひらく。
 はじめは、マイトさんの好きな食べ物、好きな飲み物、好きな番組、好きな曲、といったヒーロー雑誌にも載っているような事柄の、答え合わせのような質問だった。
 だが、少しずつ気持ちが高揚してきたのだろう。
 寝るときは何を着ているか、愛用のバスタオルの色柄、ボディソープ派なのか石鹸派なのか、歯ブラシは電動か手動か、箸やマグカップの色などという、そんなことを知ってどうするのだろうかと思うような、実に細かいところまでたずねられた。

 頬を染め、瞳をきらきらと輝かせながらマイトさんの情報をメモする緑谷くんの姿は、ヒーローに憧れる少年と言うよりは、まるで恋する乙女だ。
 ここまで慕われてしまっては、マイトさんもかわいくてしかたがないだろう。この子が男の子で良かった。もしも女の子であったなら、うかうかしてはいられない。

 すると急に我に返ったのか、緑谷くんが両手をわたわたと動かし始めた。

「す……すみません。僕ばかりが質問してしまって」
「大丈夫よ。じゃあ教えて。学校でのマイトさんはどう?」
「学校でもオー……マイトさんはカッコいいです! カンペはまだ手放せないみたいですけど。シルバーエイジのコスチュームで授業してくれたときなんか、カッコ良すぎて倒れちゃうかと思いました」
「マイトさんの授業って、ヒーロー基礎学よね。個性を使って戦闘訓練をしたりするんでしょう?」

 たしか母校のヒーロー科はそうだった。エリート養成校でも、きっとそれはかわらないだろう。
 案の定、緑谷くんがそうです、と答えた。

「ところで、緑谷くんの個性はなに? 体育祭で見た限りだとパワー系かな? マイトさんが後継に選ぶくらいだから、きっとすごい個性なのよね」

 緑谷くんの表情が陰った。どうしてこんな困った顔をするのだろう。マイトさんも教えてくれなかったこの子の個性には、いったいどんな秘密があるのか

「あの……増強系の一種です……」
「……そう」

 歯切れの悪い答えだ。もう少しつっこんでききたいところだが、こんな顔をされてしまったらこれ以上の追及はできない。

「くるみさんは、どんな個性をお持ちなんですか?」

 逆に質問され、やぶへび、と冷や汗をかいた。
 わたしは自分の個性にコンプレックスを抱いている。いや、わたしだけではない。秀でた個性を持たない者は、たいていにおいてみんなそう。

 なぜなら、個性の優劣が人格よりも重要視されることがあるからだ。悲しいことに。

 きっとこの子もわたしのことを、強い個性の持ち主だと思いこんでいることだろう。オールマイトが選んだ女性が平凡な個性しか持たないことを知ったら、がっかりさせてしまうだろうか。

 だが、緑谷くんは、急に顔色を変えた。

「あっ、あの……すみません! 大丈夫です。言わなくても大丈夫です。個人的なことを聞いてしまってすみません」

 ああ、と、目を細めた。
 緑谷くんは、優しいところがマイトさんとよく似ている。きっとこの子は、わたしの個性がたいしたものではないと察したのだろう。

 少年は、すみません、すみませんと頭を下げ続ける。その前で、だんまりを決め込んでいるのは、なんとなく卑怯であるような気がしてきた。

「気をつかわせてごめんなさい。わたしの個性は『微風』です」
「微風」
「そう。暴風でも嵐でも台風でも旋風でもなく、微風。こうして手のひらをかざすとね、ほんのちょっとだけ風が出るの」

 紙ナプキンを手のひらの上に乗せ、わたしは個性を発動させた。
 ひらひらひらと、微かな風にあおられて舞う薄い紙。
 『微風』
 本当に些細な、わたしの個性。

「風ですか! カッコいいですね」

 宴会芸にもならない個性なのに、と思ったが、それは口に出さなかった。目の前のこの少年は、きっと本心からそう告げたに違いないから。
 それに――

「やっぱり師弟って似るものなのかな。前にね、マイトさんも同じことを言ってくれたの」
「そうなんですか?」
「ええ」
「オ……マイトさんと同じことを言ったなんて嬉しいです」
「それだけじゃないよ。あのね、緑谷くん、さっきわたしに手を差し伸べてくれたでしょう?」
「はい」
「あの時、マイトさんの手と似ているなと思ったの。大きさも厚みも違うのに、不思議ね」
「僕が……オールマイトと……」
「似てると思うよ」
「あの……とても光栄です。僕、ずっと憧れてきたんです。オールマイトに」
「そう」
「くるみさんは、ヒーローとしてのオールマイトの、どんなところが好きですか」
「えっ?」

 答えに窮してしまった。
 マイトさんは好きだけれど、ヒーローとしてのオールマイトは、実はあまり好きではない。

 だっていつも、あんなに血を吐いて。いつも苦しそうで。
 それでもオールマイトは、抗い続けるのだ。
 象徴であるのだと、柱でありたいのだと、血を吐きながら笑うのだ。 
 世界を支える柱だなんて、それではまるでアトラスだ。ゼウスに敗れ、天空を支え続けている悲しい巨人。
 アトラスと違い、誰に命じられたわけでもないのに、どうしてオールマイトは独りで世界を支えようとするのだろうか。
 オールマイトはつねに独りで立ちたがる。彼はおそらく、ヒーローとしてのパートナーをまったく必要としていない。かつては一人だけ、心から信用していた相棒がいたようだが、どちらかといえば彼はブレーン。六本木時代のサイドキックも、わたしが知る限りでは、優秀ではあるが潜入や捜査に特化した、サポートタイプばかりだった。
 サー・ナイトアイと決別して以来誰にも背中を預けようとしないオールマイトは、ほんの少し傲慢だ。

 そう言ってしまったら、この子はどんな顔をするだろう。
 もちろん、そんなこと、言えるはずなどないけれど。
 だからわたしはごまかすように笑う。誰かさんの作り笑顔をまねるように。

「ヒーローとしてのマイトさんはとても素敵ね。でもね、わたしは普段の彼のほうがずっと好きなの」
「トゥルーフォームのオ……マイトさんってことですか?」
「ええ。わたしが好きになったのは平和の象徴じゃなくて、普通の男のひとだから」

 そう答えると、緑谷くんはすこし不思議そうな顔をした。
 ヒーローとしてのオールマイトに憧れ続けた少年だから、ヒーローではないマイトさんが好きだと言うわたしの気持ちがよくわからないのかもしれないし、オールマイトとマイトさんを分けて考えること自体を、不思議に感じているのかもしれなかった。

***

 下品な酔っ払いの怒声も、若者たちの騒ぎ声も聞こえない閑静な住宅地の夜は、今日もひっそりと更けてゆく。
 時計の短針が十の文字を指したのを確認して、わたしは小さく息をついた。

 相変わらず、マイトさんの帰宅時間はまちまちだ。彼を待つこの時間はつらい。心配でたまらない。

 寂しいだけだった一人の時間に大きな不安がつきまとうようになってしまったのは、数日前の出来事がきっかけだった。

 敵連合を名乗る集団が、雄英高校の施設を襲ったのだ。生徒数人が軽傷を負い、教師二人が骨折等の重傷を負った、というのが公式発表。だが、発表される情報がすべてであるとは限らない。

 そしてマイトさんは、わたしに本当のことを告げなかった。
 ニュースで事件を知ったわたしが、怪我はないかと尋ねたところ、大丈夫だよと彼は答えたのだ。
 民間人であるわたしが知り得る情報など、テレビやネットのニュースで流れるものだけだ。
 六年前もそうであったが、オールマイトの怪我は世間には公表されない。マイトさんの体のことも、本人が知らせてくれない限り、わたしにはわからない。
 だからあの日、食事をすませた彼がそのまま寝室に向かおうとするまで、怪我に気づくことができなかった。

「少し疲れたよ。今日はこのまま休ませてもらってもいいかな」
「マイトさんの好きな香りの入浴剤を入れたから、お風呂でゆっくり温まってからにしたら?」
「……いや、今日はお風呂もやめておくよ」

 おかしい、とその時やっと気がついた。
 まず、彼が入浴もせずにパジャマに着替えた時点で、怪しむべきだったのだ。

「マイトさん」
「なんだい?」

 ぐっとパジャマのシャツをまくり上げた。彼は抵抗しなかった。
 あらわれたのは、予想通り包帯でぐるぐる巻きになった胴体だ。大きな傷のある左わき腹を覆う包帯に、血が滲んでいる。傷はけっこう深そうだ。
 気まずそうに笑む、青い瞳。

「これ……どういうこと?」
「ン……ちょっとへまをしてしまった」
「どうして言ってくれなかったの?」
「ごめん。でも、ちゃんとリカバリーガールの治療を受けたから。傷は二、三日でふさがると思うよ」
「そういう問題じゃなくて、どうして教えてくれなかったの、って聞いてるの」
「君、心配するだろ?」
「あたりまえじゃない」
「だから言えなかった」

 すまなさそうにこちらを見おろす彼に、なんとこたえていいかわからなかった。


 あの日のことを思い出すと、なんともいえない気持ちになる。
 オールマイトは嘘をつかない。けれど自分にとって都合の悪い真実についても、言及しない。 
 優しくてずるいオールマイト。
 そんな彼に対して、蓄積していく、得体のしれないもやもやした感情。

 今日、緑谷くんに会って気づいてしまった。その原因に。
 わたしのなかでわだかまっているのは、寂しさなんかでも、浮気の疑いなんかでも、存在を隠されていることでもない。
 それはただ一つの願いだった。
 東京にいた時、エイプリルフールにかこつけて、ただ一度だけ口にした本音。

――ヒーローなんかやめて――

 あなたを守ると、晩夏の薔薇園でそう告げたのはたしかにわたしだ。
 だから自分にできることを探して、彼を支えていこうと努力してきたつもりだった。
 けれど、教師になればヒーローとしての活動は減る、危険なことはしなくなる。そう期待してしまったぶん、以前と全く変わらない彼を見守るつらさは、倍の重さとなってわたしの上にのしかかる。
 アトラスならぬわたしは、世界もオールマイトも支えられない。今の自分の気持ちさえ、どうしていいかわからない。

「ただいま」

 いきなり背後からかけられた声に、飛び上がらんばかりに驚いた。
 振り返ると、黒いスーツをきたマイトさんが立っていた。

「びっくりした……チャイム押してくれたら出たのに」
「押したよ。エントランスでも玄関でも。どちらもなんの反応もなかったから、なにかあったのかと慌ててしまった」
「ごめんなさい。考え事をしていて気がつかなかったの」
「おや、そんなに夢中になるほど考えることっていったいなんだい?」

 今考えていたことをマイトさんにぶつけることができたら、どんなにいいだろう。けれどわたしはそうしない。告げたところで、どうなるものでもないからだ。
 だからわたしは話題を変えた。

「あのね、今日、緑谷くんに会ったよ」
「えっ? どこで?」
「デパートの入り口。派手に転んだところに、手を差し伸べてくれたの。優しい子ね」
「まあ、あの子はいい子だけどね。君も足元には気をつけてくれよ」
「うん。でね、向こうもわたしを知っていたみたいだったから、ちょっとお茶した」
「なにを話したんだい?」
「内緒」
「まさか、緑谷少年のことを考えていて、チャイムの音に気づかなかったんじゃないだろうね。さすがに妬けるよ」

 ネクタイを緩めながらマイトさんが笑う。でも、その目が笑っていないことに気づいてしまった。世界を支える英雄は、実はとても嫉妬深い。

「妬くって……あんな若い子に?」
「私と君より、君と緑谷少年のほうがずっと年が近いんだぜ。十も離れてないだろ?」
「それは確かにそうだけど」
「だからね、あんまり妬かせないでくれないか」

 耳元でひびく、低い声。
 すると、ん? と声の主が眉を上げた。

「どうかした?」
「美味しそうな香りがするね。バニラかな?」

 そう、それはあなたの好きなボディオイルの香り。目だけでそう応えると、彼の声がまた一段と甘くなる。

「食事はしてきたけれど、急にお菓子が食べたくなったな」
「お菓子?」
「目の前に、バニラの香りのかわいいお菓子があるからね」

 こたえる前に優しく唇を奪われた。
 歯列を割って侵入してくる舌は、血の味がした。ああ、また血を吐いたんだ……とわたしは密かに眉をひそめる。

「お風呂は?」
「このまま一緒に入るのも悪くないね」
「わたしはさっき入ったけど」
「もう一度入ってもいいだろう?」

 慣れた手が、わたしの身体を優しく撫でていく。肩を、背を、そして胸元を。
 けれど触れられて熱く反応してしまう身体とは裏腹に、心の奥が冷えていく。

 この哀しいアトラスを救い出してくれるヒーローは、いったいどこにいるのだろう。
 答えなど当然出るはずもなく。

 今夜もわたしは本音を胸に秘めたまま、アトラスの腕の中でただ眠る。


2016.8.19
月とうさぎ