むしむしじめじめとしたこの季節特有の空気。夕刻の駅前は相変わらず人でごった返していた。それがますます体感温度をあげていく。
ずいぶん湿気が高いけれど、お化粧は崩れていないだろうか。
寒色系でまとめた服装は、少しでも爽やかに見えるだろうか。
今日はマイトさんと食事に行く予定だ。いつもの外食はたいてい家から一緒だが、今日は学校帰りのマイトさんと外で待ち合わせた。ただそれだけのことなのに、出会ったばかりの頃に戻ったみたいにどきどきしている。
「くるみ、久しぶりに外で食事しようか。君の気に入りそうな店を見つけたんだ」
そうマイトさんが言ってくれたのが、今朝の事。
マイトさんは、最近少し優しくなった。彼の誕生日に軽い喧嘩をしたからだ。その時のことを、今でも気にしているのだろう。
けれど、喧嘩の原因は、わたしがしつこくしすぎたからだ。
たしかにこの頃のわたしはわがままが過ぎる。マイトさんへの執着も、以前よりひどくなっている。それは自分でも承知していた。
本当に言いたいことを言わないかわりに、帰宅した彼の後をついてまわり、どうでもいいようなことを壊れたジュークボックスのように終わりなく繰り返す、そんな毎日。
温厚なマイトさんも、いいかげんうんざりし始めているようだ。なんとなくわかる。
それでも知り合いのいない土地に連れて来てしまった負い目からか、彼はできるだけわたしに対して優しくあろうと努力している……ように見える。
「ホント暑い……」
わたしはもう一度ひとりごちた。
いま何時だろうか。
左手首をかえして腕時計を眺めた。
マイトさんが買ってくれた、薄いピンク色のベルトに四葉のクローバーモチーフの文字盤がついた、かわいい時計。でもこの時計、お値段はちっとも可愛くない。
海外ハイジュエリーブランドの時計だからだ。
わたしはマイトさんが無事でいてくれればそれでいいのに、彼にはそれがわからない。いや、わかっていてもわたしの意思に沿えないから、それが結果的に高額なプレゼントにつながっているのかもしれなかった。
なぜなら、彼本人は、使いやすいもの、壊れにくいもの、という点で高級品を選ぶことはあるけれど、ブランドそのものにはまったく頓着していないから。
オールマイトがいい服を着て、きらびやかな街にオフィスを構え暮らしていたのは、人々の憧れのヒーロー像というものを、自分でプロデュースした結果に過ぎない。
時刻を確認したわたしが軽く息をついたのと、見覚えのある長身をみとめたのが同時だった。
外で待ち合わせると実感する。マイトさんは、オールマイトであろうと八木俊典であろうと、とにかく目立つ。
こちらに向かって歩を進める、ひょろりと長い姿にむかって小さく手を振ると、彼は太陽のように笑んだ。
***
厚い扉の向こうは、不思議な世界だった。
黒い巨大な椅子のオブジェの下に、クリスタルのシャンデリアがきらめく。フロアの中央には、これまた巨大なテーブルのオブジェ。
まるで自分が小人になってしまったかのようだ。
「かわいい」
「気に入ってもらえて良かった」
「連れて来てくれてありがとう」
マイトさんが連れて来てくれたのは、東京にもいくつか店舗がある、海外児童文学の世界をイメージしたレストランだった。
こちらのお店は銀と黒と白を基調としたインテリアで、テーブルに配置されているクロスやナプキンの色も紫。パステルカラーがメインだった東京のお店より、少し大人っぽい感じがする。
「君の瞳に乾杯」
普通は言わないような甘ったるいセリフと共にグラスを掲げるマイトさんの顔色は、あまりよくない。
最後に食事をとってから、どれくらい時間が経っているのだろう。それとも疲れているのだろうか。今日は期末テストだと言っていたけれど。
「こうして外で待ち合わせるのは悪くないな。新鮮だし、君がいつもよりかわいく見える」
「あら、わたしはいつもかわいいわよ」
「……君のそういうところ、ホント変わらないよな……」
少し呆れたようにマイトさんが笑う。
「だって、この間も緑谷君に女優に似てるって言われたもん」
「ああ。緑谷少年は君の写真を見たときにも同じことを言ってたよ。たしかに多少似てはいるかもしれないけど、君とあの女優ではまったく違うだろ」
「そうね。わたしの方が若くてかわいいもんね」
「……君のそういう図々しいところは本当にかわいくないよ。でも、かわいくないけど嫌いじゃないな」
「素直に好きって言ったらいいのに」
「そうだな。愛してるよ」
愛してる、などというセリフも、普通はあまり言わないと思う。でもこのひとは、こうしてさらりと口にする。にこにこと笑いながら。
マイトさんは、本当にずるい。
厚い扉を開けて外に出ると、もたりとした重い空気に包まれた。湿気の多い、この国の夏。吹く風もなまぬるく、全身にまとわりつくかのようだ。
だが、そのべったりとした感覚が、夜の行為を思い起こさせた。自分の上を這いまわる、熱い舌と大きな手。
自分の中に生じた欲をもてあまし、隣を歩くマイトさんの腰に抱きついた。
骨ばった腰から、甘くてスパイシーな香りがふわりとただよう。これはこのひとを体現する香りだ。
究極の自己犠牲は究極の利他主義につながる、そう言ったのは誰だっただろう。でも、マイトさんを見ていると、その言はとても正しいと思う。
オールマイトは、自らを犠牲に世を支え続ける、心優しいエゴイスト。
「なあ、ちょっと離れてくれない? 歩きにくいよ」
「やだ」
「そんなこと言わないで」
「じゃあ、帰ったらたくさん抱っこして」
「抱っこって……前も似たようなこと言ってたけどね、いったい君はいくつだい?」
「いくつだっていいじゃない。抱っこして欲しいんだもん」
「まったく、私は本当に愛されてるね」
軽いため息とともに、マイトさんが肩をすくめた。
「だって本当は365日24時間ずっと一緒にいたいもん。ずっとそばにいて欲しいし、許されるならあなたを拘束したいくらい」
「……そりゃ……ずいぶん重たいな」
冗談に受け取ったマイトさんが、また笑う。
ごめんね。わたしは本気なの。
「毎日毎日、うっとうしいなと思ってるんでしょ?」
この問いに対する、返事はなかった。
マイトさんは今、どんな顔をしているのだろう。ちらりと目線を上にあげると、さりげなく目を逸らされた。
瞳は時に、言葉より饒舌に心情を語る。彼の青い瞳が愛だけを語り続けた日は、そう遠い昔の事ではないのに。このごろは愛情の他に、なれ合いと、ごくわずかな倦怠が透けて見えることがある。
「でもね、マイトさん。きっとさみしいと思うよ」
「さみしい?」
「わたしがいなくなったら」
「おいおい、不穏なことを言わないでくれよ。そんな心づもりでもあるのかい?」
「ないよ。でもね、当たり前のようにあったものや人がいなくなった時、ひとは失ったものの大きさに気づくのよ」
「まあ正論だね」
笑いながら、マイトさんがわたしの髪に唇を落とした。このひとは、たまにこういうことをする。まったく人目をはばからず、やりたいように行動する。
自分がどれだけ目立つのか、知らないわけでもないだろうに。
「だから、おとなしくわたしに拘束されてちょうだい」
「それは断るよ」
「えー、どうしてよ」
「君はね、ぜったいに私の前からいなくなったりしないからさ」
「すごい自信ね」
「さっきも言ったろ。私は君に愛されているからね」
マイトさんがサムズアップしながらウインクしてきた。
確かにその通り。わたしが彼から離れられるわけがない。わたしはそれを知っている。彼もそれを知っている。
「24時間拘束はさておき、今度、蛍でも見に行こうか」
「蛍?」
「くるみは蛍の群舞って見たことあるかい?」
「……ないかも」
「あれはすごいぞ。暗闇の中で、いくつもの淡い光がふわっと浮かび上がるんだ」
「へえ。どこで見たの? 東京じゃ見られないよね」
「昔ね、お師匠が連れて行ってくれたんだよ」
「お師匠って、グラントリノさん?」
グラントリノさんは、マイトさんの高校時代の担任の先生だ。職業体験で雄英の生徒がお世話になったらしく、そのお礼がてらわたしとのことも報告するということで、先月の終わりにお会いした。
老ヒーローはマイトさんの半分くらいの身長だった。だが、教師時代はとても厳しく、実戦訓練ではマイトさんが何度も嘔吐させられたという。その名残か、小柄なおじいさんに、大きなマイトさんがやたらとぺこぺこしているのがおかしかった。
「……いや……違うよ。その盟友であったひとだ」
「だった?」
「亡くなったんだ。ずいぶん前に」
ひどく低く、そして押し殺した声だった。
抜身の刀身を首筋に当てられたかのような殺気を感じて、ぞくりとした。蒸し暑い夏の夜であるはずなのに、周囲の温度が一気に下がったような気がした。
お師匠という人は、いったいどんな亡くなり方をしたのだろうか。
いずれにせよ、そのひとがマイトさんにとって、とても大切なひとであることだけはたしかだ。今の今まで、そのひとの話題が出たことがないことからもうかがえる。
ふるり、とかぶりを振ってから、もう一度、肉付きの悪い顔を見上げた。厳しい顔をしていたマイトさんが、はっとして、慌てたように破顔する。
「……ホントにね、蛍の群舞は神秘的な光景だから、君に見せたいんだよ」
「うん」
ありがとう、と今までよりも強く腰にしがみつくと、だから歩きにくいよ、と髪をくしゃりとかきまわされた。
***
その夜、低いうなり声で目が覚めた。
暗闇の中で響く、小さな低い声はマイトさんのものだ。
このひとは時々こういうことがある。ずっと気づかないふりをしてきたが、今夜は特にひどい。
なにに怯えているのだろう。
戦うことが怖いのだろうか。それとも全盛期に比べて大きく衰えてしまったことを嘆いているのか。
自分の力がじわじわと衰えてゆくことを実感するのは、このひとにとっては真綿で首を絞められるに等しい苦しみだろう。
起こした方がいいだろうか、でも明日も学校はあるし、どうしよう。迷っていると、長身痩躯がいきなりがばっと身体を起こした。
肩で息をしながら、大きな手が彫りの深い面をゆっくりと覆った。その姿は彼の抱える苦悩を体現するかのようで、見ているこちらもつらかった。
世間の人は誰も知らない。これが巧妙に隠された、オールマイトの素顔だ。
少し考えれば小さな子供でもわかることなのに、誰も気づかない。スーパーヒーローもまた、弱い一面を持つ『人』であるのだと。
強くあろうと努力することはできても、なんの不安もなく生きていける人はどこにもいない。
そんな人がいるとしたら、それはもはや、人ではないのだ。
そんなにつらいなら、ヒーローなんかやめてしまえばいいのに。そうすれば衰えも気にならないし、怖いこともおこらない。
わたしはまた、一番言いたい言葉を飲み込む。
切なさでいっぱいになりながら彼を見つめていると、暗闇の中で目が合った。
マイトさんの彫りの深い顔が、ぎくりと強張った。
けれど、それもほんの一瞬のことだった。悲しい素顔は、すぐに笑顔の仮面で覆われる。
「ああ、くるみ。起こしてしまったかい? すまなかったね」
作り笑顔で彼が言う。
わたしはとても悲しくなる。もっと甘えてくれてもいいのに。
「どうしたの?」
「どうもしないよ」
その笑顔はとても自然で、なにも知らなければ騙されてしまったことだろう。
けれどわたしは知っている。スーパーヒーローが必死で隠している弱い部分を。
決して己の弱さを見せないこのひとを見えないなにかから守りたくて、黄金色の頭を抱きしめた。
「眠れないの?」
「……少し、喉が渇いただけだよ」
わたしもそうかも、と嘘をつき、彼のために立ち上がる。冷たい飲み物を用意するために。
キッチンに向かい、冷蔵庫を開けて常備してある水出しのルイボスティーをグラスに注いだ。
グラスをもって寝室に向かうと、ベッドの上に座り込んでいる彼がいた。その痩せた姿が暗闇の中に溶けてしまいそうに見えて、わたしの背中に汗がしたたる。
マイトさんはにこりと微笑んで、ありがとうと呟いた。
ルイボスティーを干すまでの短い間、少し話をした。
そこで彼が告げた、一つの頼み。
わたしはいいよと、そういらえた。
それはわたしにとって、心臓がねじ切れてしまいそうなくらい悲しい内容だったけれど、このひとが安心してくれるなら、それでいいと思った。
「あなたが悲しむのは、嫌だもの」
言い終わらぬうちに、いきなり強く抱きしめられた。そっとベッドの上に倒されて、耳朶に優しく歯を立てられる。
まったく、男のひとというものは、いや、マイトさんは、どこでスイッチが入るかわからない。
けれど、スイッチの入るタイミングは計れないが、彼の反応する部位はわかる。慣れた愛撫に反応する、慣れた身体。
生活を重ねるうちに、いつしか新鮮味が薄れていった夜の交接。けれど互いのいいところを知りつくした行為は、確実な快楽へとつながってゆく。愛の交歓で生まれるのは、安心感と満足感だ。
このひととき、すべての人を救け守ろうとする英雄は、わたしからすべてを奪い、侵し、そして与える者となる。
ひとしきり愛し合った後、息を整える彼の頬に唇を落とした。
「ルイボスティーのおかわりいる?」
「いいね。今度は私が入れてくるよ。君、ずいぶん消耗したろ」
「ううん。今日はわたしにさせて。マイトさんは明日も学校があるんだから」
誰にも背中を預けられない孤独なこのひとのために、できることなら何でもしたい。ここがエリュシオンの野――楽園になるように。
空になったグラスとトレイを手に、わたしは再びキッチンへと向かう。
エリュシオンは神々に愛された英雄たちが、死後をすごすための場所。
一人で世界を支え続ける生けるアトラスのために、わたしは遥か西の果てにあるエリュシオンのような場所を、作りたいと思うのだ。
言えない本音を、地中深くに閉じ込めたままで。
2016.8.29
作中の、先代とオールマイトが蛍を見に行ったという話は管理人の創作です。