5話 La vie douce〜甘い生活〜

 こういうの好きだな、と、店内に足を踏み入れた瞬間、そう思った。

 暗めの間接照明に照らしだされた、ラタンのチェアとジャワ更紗。小さく流れる民族音楽とそこここにあしらわれた細いバンブーが、異国の雰囲気を醸し出す。
 メニューにはトムヤムクンあり生春巻きあり、ナシゴレンあり。
 タイなのかベトナムなのかインドネシアなのか、一国に絞らず料理をそろえた、そんなアジアンダイニング。
 ここまで内装に凝ってはいなかったけれど、六本木にも似たテイストの店があった。

「久しぶり」

 目の前に座している美しい女性に微笑んだ。
 彼女は大学時代の友人だ。もともとヒーローであったが、適正に欠けていたとのことで――これは彼女の談、真実はどうだったのかわからない――大学に入りなおした根性の人でもある。

「くるみはあいかわらずかわいいわね」

 わたしを見て彼女が笑う。
 このひとこそ、相変わらずきれいだ。切れ長の目、通った鼻筋、薄いけれど形の良い唇。
 絹糸のような黒髪を顎のあたりで切りそろえた前下がりのボブは、知的な和風美人である彼女にとてもよく似合っている。
 オールマイトの秘書との関係もそうだったけれど、わたしはなぜか昔から、こうした少し年上の才覚ある女性に可愛がられることが多い。
 その彼女が、来月からこちらに転勤になるという。それを聞いた時、わたしがどれほど嬉しかったか。

「いい物件は見つかった?」
「まあ、ぼちぼちね。くるみの住んでいるエリアはちょっと無理だけど、隣町なら住めそうよ。部屋が決まったら遊びに来て」
「言われなくても行くよ。だって、毎日暇だもん」

 すると彼女の形の良い眉が、軽く上がった。
 小さく息をついてから、年上の友人がガイヤーンを取り分けはじめる。しなやかに動く、ボルドーのネイルで彩られた指先。
 彼女の動きはいつも優雅だ。こんなふうになれたらいいなと憧れてしまう、大人の女性。

「もしかして、彼とうまくいってないの?」
「えっ?」

 いきなり指摘され、持っていたグラスを取り落しそうになる。昔からそうだ。彼女は鋭い。

「うまくいってないっていうか……あの……ちょっと倦怠期というか……」
「あー、まあ、くるみはあれよね。甘ったるいケーキみたいなところがあるから」
「どういうこと?」
「かわいいけど、いささかくどいってこと」
「それ、ひどくない?」
「どうせ彼にべったり甘えて、大好き大好きって言ってるんでしょ」
「そんな……ことは……ナイヨ」
「嘘ばっかり。だってくるみ、彼にべたぼれって感じだったじゃない。まあ、あちらはあちらでくるみがかわいくて仕方ない様子だったけど」

 彼女とマイトさんが顔を合わせたのは一度だけだ。青山でばったり会って、そのまま食事をした。ほんの数時間だけの邂逅。それなのに。

「でもね、かわいいだけの女って飽きられるのよ。気まぐれでつかめない女が男を疲れさせるのと同様に」

 思わずぎくりとした。自分はその両方であるような気がしたからだ。
 気まぐれでかわいい私の小悪魔、マイトさんはたまにわたしをそう呼ぶ。

「たとえば、甘くてふわふわのケーキは美味しいけれど、毎日食べてると飽きてくるじゃない? スパイスが効いたエスニックも美味しいけれど、毎日だったらやっぱり刺激が強すぎる。男と女もそれと同じよ。なんだかんだ言っても、日本の男って、あっさりしているけど栄養バランスの良い和食みたいな女が良かったりするのよね」
「そんなものかなぁ」

 正直な話、女性を食べ物にたとえるのはどうかと思った。ともすれば女性蔑視にもつながりかねない発言だ。
 自立した大人の女性である彼女が、こんな言い方をするのは珍しい。なにか心境の変化でもあったのだろうか。

「かといって、糠漬けはだめよ。どんなに美味しくて栄養があっても、所帯じみてしまったら、男は見た目の綺麗なスイーツや刺激的なエスニックを求めて外に行ってしまうから」
「そのさじ加減、難しくない?」
「難しいから面白いのよ。そして、面白いけど、つらいわね」

 そこで彼女はさみしそうに目を伏せた。憂いを含んだ表情は、彼女のもつ静謐な雰囲気をますます際立たせ、美しく見せる。
 けれど、もしかしたら、彼女も彼女なりの悩みを抱えているのかもしれない。転勤についても詳しいことは語らなかったけれど、なにか事情があるのかもしれなかった。
 どんなに幸福そうに見えても、人はそれぞれ、そのひとにしかわからない問題を抱えて生きている。

 わたしとマイトさんの暮らしもそうかもしれない。
 あまくて、優しくて、穏やかで幸せな生活。けれどわたしの心の底には、暗くて冷たいなにかが澱のように沈殿している。それはきっと、わたしにしかわからないものだろう。

 マイトさんと約束した蛍は、まだ見に行けていない。

 友人との食事を終えて帰宅すると、リビングの電気がついていた。時刻は九時を少し回ったところ。
 だがあるはずの場所にあるはずの姿がない。お風呂だろうかと洗面所に向かうと、予想通り、浴室の電気がついている。

「マイトさん、ただいま」

 そっと浴室の扉を開いたとたんに飛び込んできたのは、フルーティなあまい香りと、大きなバスタブに身を沈めた長身痩躯。
 けれど普通の入浴にしてはバスタブ内の湯量が少ない。湯につかっているのは薄い身体のみぞおちまでだ。

「マイトさん、なにしてるの?」
「なにって、見てわからないかい?」
「……半身浴?」
「正解」

 どうしてこのひとは、時々こうして『意識高い系の女子』みたいな真似をするのだろうか。しかもわたしのお気に入りの、桃と蜂蜜のバスソルトをふんだんに使っているから、バスルームには甘い香りが充満している。

 ふいに彼の長い腕に包まれてしまいたくなって、わたしは甘えた声を上げる。

「ねえ。わたしも入っていい?」
「いいけど、君、アルコール入れてないか? アルコール摂取後の入浴は気をつけないと」
「今日はご飯がメインでお酒はちょっとしか飲んでないから、たぶん大丈夫。お水飲んでから入るもん。気分が悪くなったらすぐ出るから」
「しょうがないね」

 彼が困ったように笑う。マイトさんはいつも、わたしの願いを拒んだりしない。だからわたしはもっと甘える。

「ね、恥ずかしいからあかりを落としてもいい?」
「……どうして君はそう自分勝手なんだい?」

 言いながらも、やっぱりマイトさんは笑っている。彼はたいていの事なら、笑って許してくれる。わたしはそれを知っている。
 だから肯定の言葉を待たずに、お風呂場のあかりを二段落とした。

 浴室には珍しい調光タイプの照明は、わたしのこだわり。だって、明るいところで裸になるのはやっぱり恥ずかしい。
 この照明を選んだ時、だったら別に入ればいいんだよ、と言いながら、彼はやっぱり笑ってくれた。

 薄暗がりになった浴室に、そっと足を踏み入れた。桃と蜂蜜の濃密な香りがわたしの素肌にまといつく。
 身体を流して、普段より湯量の少ないバスタブに身を沈めると、細長い腕が腰に巻きついてきた。

「君が入ったら、お湯が増えて全身浴になっちゃったな」
「えー、そんなに体積ないと思うけど」
「いや、だって君、最近ちょっと太ったろ?」

 そんなことないもん、と、答えようとした瞬間、大きな手のひらがお腹に触れた。

「ほら。つまめる」
「……ちょ……やめてよ」

 ふにふに、ぷよぷよ、と彼はわたしのお腹のあまったお肉を揉み続ける。

「……違うから……これは前かがみになって座ってるからだもん。背筋を伸ばせばつまめなくなるから!」
「くるみ〜〜」

 青い目でじっと見つめられ、わたしはひそかに観念した。そう。彼の指摘通り、わたしは最近少し太った。
 ベスト体重から二キロオーバー。身体を鍛えているわけではないから、この二キロはあきらかによぶんな脂肪だ。

「……やせる……」
「べつに無理に痩せなくてもいいだろ。これくらいなら可愛いよ」
「だって……太ったらかわいい洋服が似合わなくなっちゃうもん。それに先にからかったのはマイトさんじゃない」
「ああ、ごめん。きみがかわいかったから。あとね、女性のこういう柔らかい部分ってね、触れてて気持ちがいいんだよ。男にはないだろ。このふわふわ感」
「だからってお腹の肉をつまむのはマナー違反だと思う」

 そう言って膨れると、今度は頬をつつかれた。

「まったく、君は本当にかわいいね」

 長い腕の中に閉じ込められたままじっとしていると、ちゅっちゅっとキスの雨が降ってきた。お湯からは立ち昇るのは、大好きな桃と蜂蜜の香り。
 あまい香りの中で、わたしにあまい彼の腕の中で過ごす、あまい時間。こういう時にいつも思う。わたしは甘やかされていると。

「だいすき」

 マイトさんの筋張った首に唇を当てて、軽く吸ってみた。彼は軽く眉をあげ、複雑そうな顔をする。
 腰に当たる彼の一部が、そろそろと変化を見せ始めていることに気がついた。そこに触れようと手を伸ばしたら、大きな手のひらにさりげなく拒まれた。

「ここではここまで。続きはあとでね」

 甘い香りの中で、彼の唇がわたしのそれに重なる。

 わたしは愛されている。やさしく穏やかな、満ち足りているはずの愛の暮らし。甘い生活。
 けれど、わたしを甘やかしてくれる優しい彼は、わたしの一番の望みだけは叶えてくれない。
 それを不服に思うわたしは、やっぱりわがままなのだろう。

 お風呂から出て、ふたりでソファの上でまったりと過ごした。
 テレビもつけない、音楽もきかない。これという話をするわけでもなく、そのまま性的な行為に及ぶでもなく、ただ肌を合わせ、触れ、たまに唇を交わす、それだけの時間。
 こんな過ごし方をするのは久しぶりかもしれない。なにをするというわけでもない、無為で無益で、それでも幸せな時間。
 マイトさんは、やっぱり優しい。

 その時、幸福な静寂を切り裂くように、マイトさんの携帯が鳴った。肉の削げ落ちた頬が軽く緊張するのが眼の端にうつる。
 嫌な予感がして、わたしはそれから目を逸らした。この後に続くであろう通話を聴きたくなくて、さりげなくソファの上からキッチンへと移動する。

「ごめん。ちょっと学校に行かなくてはいけなくなった」

 キッチンに避難したわたしに告げられたのは、予想通りの言葉だった。

 重たく暗い何かが、また、わたしのなかに降りてくる。

 結局、マイトさんが帰宅したのは日付が変わってからだ。
 なにがあったの、と問うと、なんでもないよ、とかえってくる。なんでもないわけがない。
 
 知っている。オールマイトが職務上の情報を、一般人であるわたしにもらすはずがないと。
 明日はまた早朝から会議だ、そう一言だけぽつりと漏らして、彼はわたしに背を向けた。
 わたしは自分に言い聞かせる。彼はきっと、疲れているのだ。

 結局、わたしが昨夜起きた出来事を知ったのは、翌日の夜のことだった。

「実はね、一年生の合宿先が襲われて、生徒の一人が拉致された」

 ぞっとして、身体をかき抱いた。
 ショッピングモールで緑谷君が襲われた事件を思い出していた。幸いあれは未遂で済んだが、マイトさんが就任してからというもの、雄英とその生徒たちは危険にさらされ続けている。一般人であるわたしにもわかる。これは雄英という学校そのものの、信用にかかわる問題だと。

「一年生って、緑谷くんは?」
「ああ、彼は無事……でもないな……無理をする子だから」

 この一言で察してしまった。緑谷くんは友人を救けようとして、怪我をしたのだ。
 良くも悪くも、よく似た師弟。

「で、これからどうするの?」
「どうするもこうするもないさ。さらわれた彼をとり戻す」

 ヒーローとしてその意見は当然だ。拉致された子も、親御さんも、とても不安であることだろう。だけど――。

「……マイトさんが行かなきゃだめなの?」
「当然だろう。彼は私の生徒だ」
「行かないでよ」
「どうしたんだい? いきなり」
「今回はマイトさんじゃなくてもいいじゃない……行かないで」

 ひどく嫌な予感がする。
 拉致されたのは雄英の生徒だ。ヒーロー免許こそないものの、優秀な個性を持ったエリート集団のひとり。教師陣も一流であるときいている。その秀でた個性の子たちと一流ヒーローたちの目をかいくぐり、襲撃を成功させた一団が無能であろうはずがない。

 彼らの目的は、オールマイトをおびき寄せることなのではないだろうか。
 オールマイトを倒せる算段がついているからこその、拉致だったのではないだろうか。

「それは無理だよ」

 そう言われるのも、わかっていた。
 わたしのような素人が考えつくようなことに、その道のプロであるヒーローや警察が思い至らぬはずはない。そんなことは百も承知で、彼は行くのだ。
 それでも、どうしても止めたかった。

「おねがい、今回だけでいいの。他のヒーローに任せることはできないの?」
「できない」
「他にも……ヒーローはいるじゃない……」
「それこそ今回限りは、私でなくては駄目だからだ」
「どうして?!」

 耳に飛び込む自分の声が、いやに芝居がかって聞こえた。砕ける寸前のガラスのような、ひび割れた声。

「もしかして、すごく危険な相手なんじゃないの?」

 マイトさんは一度開きかけた口を、そのまま引き結んだ。オールマイトは嘘をつかない。けれど自分にとって都合が悪い、本当のことも語らない。

 目の前に、漆黒の緞帳が下りてくる。その緞帳の名は絶望だ。絶望の前では、甘い生活は終わりを告げる。
 夢見るような甘い暮らしの後には、冷たく暗い現実が待っている。

「わかってくれ」
「そんなの……理解できるわけないじゃない!」
「くるみ?」
「ずっと嫌だった」

 わたしが今まで彼に本音を告げることができなかったのは、どうにもならないからだけではなかった。
 言ってしまったら、わたしたちはおそらく終わる。そう思ってきたからだ。マイトさん……いや、オールマイトは自分の生き方を、絶対に翻したりはしない。

「わたしはずっと……あなたにヒーローをやめてほしいとおもってた……」

 マイトさんは答えなかった。微かにきこえる空調の音。

 ふと、猫足の白いキャビネットが目に入った。あれは、二人で輸入家具のお店に出かけて選んだものだ。
 白い木枠に施された金属製の葡萄唐草の装飾が美しくて、どうしても欲しいと彼にねだった。
 あまりにキャビネットが素敵だったので、ダイニングセットも、ローテーブルも、チェストも、同じような雰囲気のものをそろえた。
 そうだ。この家にある物の殆どは、わたしの趣味に合わせて選んだものだ。
 マイトさんがどうしてもとこだわったのは、六本木時代から使っている大きなソファだけ。
 
 少女の頃に憧れた、お姫様のような暮らし。
 人がうらやむ高級住宅、瀟洒で可憐な家具。高級宝飾店の時計とジュエリー、たくさんのお洋服、美味しい食べ物、美味しいお酒。
 そしてわたしの隣には、いつも笑っていてくれる、大人で、優しくて、背の高い彼。
 本当に、マイトさんはわたしの夢をかなえてくれた。けれど――。

「君がそう思っていたのは知っていたよ。でも、くるみ。それは無理だ」

 静かな声をうけて、ぼろぼろと涙がこぼれた。
 ああ、何を言っても、このひとは行ってしまう。

 少女のころに憧れたお姫様みたいな暮らしなんて、いらない。
 わたしはマイトさんさえいてくれれば、なにもいらないのに。それが一番の望みなのに、彼はそれをかなえてくれない。

「どうする、くるみ。私は自分の生き方を曲げることはできない。これからもずっと。たとえ何がおころうとだ」

 このひとはずるい。
 わたしが泣こうがわめこうが、不幸になろうが、それでも彼は行くのだ。わたし以外の人々の笑顔を守るために。
 けれど、それがナンバーワンヒーローのオールマイトと添うということ。
 覚悟をしていたはずだったけれど、現実と想像の間には、大きく深い溝がある。

「じゃあ約束して、無事に帰ってくるって」
「……それもできない」

 どうしてこのひとは、こうどうでもいいところでも誠実であろうとするのだろう。たとえ嘘でもいい、嘘でもいいから、無事で帰ると言ってくれれば、それでいいのに。

 それでもやっぱり、オールマイトは嘘をつかない。

 生きて帰れるかどうかわからない、だからその覚悟をしておけと、無言のままにそう告げる。
 その残酷なまでの誠実さは、いったい誰のためのものなのか。

 甘く穏やかな日々が終わる音が、聞こえたような気がした。

***

「行ってくるよ」

 翌日、それだけ残してマイトさんは発った。
 彼が玄関を出てすぐ、わたしはルーフバルコニーに出た。そこからは、中庭と通りが見渡せる。

 少しして、痩せた背中が現れた。
 アブラゼミの鳴き声が、やけにうるさく聞こえる。
 夏の太陽に照らされながらゆっくりと歩み去って行く細長い後ろ姿を、見えなくなるまで見送った。

 オールマイトは、ただの一度も、こちらを振り返ろうとすらしなかった。


2016.9.13
月とうさぎ