3話 朧夜

 繁華街の夜は長く、そして熱い。
 芸術劇場での講演を終え、ラブホテルと風俗店の連立する通りを、私は歩いていた。平和の名に似合わぬ怪しい店構えの多いこの通りは、猥雑だが面白味がある。
 またここは、ヴィランや暴力団の抗争が起きやすい場所だった。
 だから劇場から直結している駅に向かわず、あえてここを通ることは、ちょっとしたパトロールの意味合いもあった。

 するとどうだろう。前方から、見覚えのあるふわふわした生き物が駆けてくる。たまにお昼を一緒に食べるようになった、事務所の女の子、くるみだ。
 それにしても、あの必死な表情はどうしたことだ?

「マイトさん!!」

 叫ぶと同時に、くるみが私に抱きついてきた。
 おいおい。相変わらず過激だな、君は。過激界では一、二位を争う存在なんじゃないか?

「どうしたの? こんな通りを夜一人で歩いていちゃ危な……」
「畜生、金返せ!」

 言いかけた私の声の上からかぶさってくる、男の怒号。
 金を返せとは穏やかじゃない。憤怒の形相で手を伸ばした男とくるみの間に、割って入った。

「君、なにしたの?」
「……別に……なにも」
「やらせるっていうから金を払ったのに、俺がシャワーを浴びている隙に、この女、逃げようとしやがった!」

 私の問いに答えたのは、そっぽを向いた彼女ではなく、目前の男だった。
 え? なに? やらせる? 何を? ひょっとして援助交際か?
 あまりのことに、目の前がちかちかした。男の言葉はこの猥雑な通りには、確かに似合いだ。けれど少女のようなくるみには、不似合いなことこのうえない。

「やらせるなんて言ってませーん。一緒にホテルに入ったらお金をくれるって言うから入って、そのまま出てきただけでーす」
「ふざけるな、てめぇ」

 激高した男が、私の後ろに隠れていたくるみに向かってふたたび手を伸ばした。
 ちょっと待て、そんなことさせない。汚い手でこの子に触るんじゃない。

「待ってください」

 左手の一振りで男の動きを制し、口唇をひらいた。

「いくら払ったんです?」
「五万だ」

 五万。なんてことだ。くるみ、君は五万で自分を売るのか。冗談じゃない。
 内心で大きく嘆きながら、男に告げる。

「わかりました。これでおさめていただけますか。あなたも、こんな若い女の子をお金で買ったなんて、大きな声で言える話ではないでしょう」

 財布から六枚の一万円札を抜き出して、男に差し出した。
 未だ諦めきれぬようすで、男はくるみと目の前の紙幣を交互に見ながら、ぶつぶつなにやら呟いている。「いいかげんに引かないとぶん殴るぞ、このスケベ野郎」と怒鳴りつけたい気持ちを笑顔の下に押し隠し、しばし待った。
 数分ののち、ようやく男が諦めて、小さく悪態をつきながら去って行った。
 だが、話をこれで終わらせるわけにはいかない。

「いったい何をやっているんだ、君は」
「わたし、悪くないもん」
「いいか、援助交際は犯罪だぞ。言い方を柔らかくしているが、売春だ。オールマイトの事務所に勤務する人間が犯罪に手を染めたら、どれほどの人間に迷惑がかかるかわかっているのか」

 さっと小悪魔の顔色が変わった。だが、くるみが心の底から納得しているようには見えなかった。

「ごめんなさい。さきほどのお金は、お給料が出たらお返しします。だから貸しておいて」
「そんなのいつでもかまわない。でも君、このまま家に帰る気なんかないだろ。雰囲気でわかるぞ」

 くるみがぎくりと身体をこわばらせた。
 やっぱりビンゴか、どちくしょう。

「送っていくから、今日は帰りなさい」
「いやよ。まだ足りないんだもの」

 足りないってなんだ、金か。ブランド物のバッグでもほしいのか。
 帰れ、帰らないというやり取りを繰り返すこと数回。だがどうしても意見を変えないくるみに、これ以上、いくら話しても無駄だと悟った。
 しかし無理やり家まで送り届けたところで、この子はまた夜の街で男を探すだろう。
 それがわかっていて、このまま放置するわけにはいかない。けれど、一晩中監視しているわけにもいかない。
 やめさせなければという気持ち以上に、ものすごく腹が立っていた。
 犯罪だからというだけではなく、目前のこの子が自らの春を売ろうとしていることが、どうしても許せなかった。

「君さ、男の怖さをしらないだろ」

 え、と驚きの声を上げたくるみを無視して、細い腕を取った。幸いここはホテル街だ。しけこむ場所には困らない。
 くるみを引きずるようにして、一番近くにあったラブホテルの入り口をくぐった。おびえた表情が目に入り、強い罪悪感にかられる。だが、少し怖い思いをしなければ、おそらくこの子はわかるまい。

 電気がついたパネルを乱暴に押して、出てきたキーを受け取る。引っ張り込むという言葉がぴったりなほど強く小さな身体を引き寄せて、エレベーターに乗り、力ずくで部屋に入った。
 後ろ手でカギを閉め、バッグも上着も放り投げ、彼女をベッドの上に縫いとめる。

 くるみの白い顔の上に、絶望の色が浮かぶのが見えた。
 ばかだな、そんな顔するくらいなら援交なんかするんじゃないよ。ショックだろうな、君は私のことを信頼しきっていただろうから。
 だが覚えておくといい。本当に悪い奴は、たいてい善人のような顔をして近づいてくるということを。

「離してよ」

 叫びながら、必死に逃れようとしているけれど、それはむだだ。
 文字通り、痩せて枯れてしまっているが、オールマイトの力だ。トゥルーフォームであろうとも、君ごときではどうにもできない。
 小さな身体を組み敷いたまま、けれどそれ以上のことは何もせず、この小悪魔もそろそろ肝が冷えただろうかと目線を己の下に向ける。
 次の瞬間、実際に肝が冷えたのは、あろうことか私の方だった。

 くるみは声も出さずに泣いていた。印象的な瞳から、大粒の涙をぼろぼろ流して。
 とたん、全身から嫌な汗がどっとふき出た。少し薬が効きすぎたかと、慌てて彼女の上から飛び退く。
 自分らしくない衝動に突き動かされていたことは認める。女性にこんな手荒なまねをしたのは初めてだ。

「怖かったかい?」
「うえっ、ひっく」

 解放された安心感からか、くるみは子供のように、声を上げて泣き始めた。
 ますます罪悪感にかられたが、言うべきことは言わねばならない。

「いいか。いい人そうに見えても、先ほどの私のように、突如豹変する男はたくさんいる。行為の途中で仲間を呼ぶような輩もいるし、そのまま監禁された女性の話もきいたことがある。これに懲りたら、もう援助交際なんてやめたまえ。たかだか数万で自分の体を売ったりするんじゃない。もう少し自分を大切に……」
「大事にしてるわよ!」
「自分を大事にしている子はね、援助交際なんてしないよ」
「だってわたし処女だもん! こんなことも初めてだもん!」
「ハア?」

 驚きのあまり、噴水のように口から血が飛び出した。
 吐血し続ける私の横で、涙と鼻水をまき散らしながら、小悪魔が続ける。

「わたしのはじめてはオールマイトに高く売りつけてやるんだもん。それで借金も全部返すんだ」

 いや君のバージンは買わないよ。なんてったってあとが怖い。って、ちょっと待て。君、いま、借金って言わなかったか?
 我が社は採用時に身辺調査をきっちりしているはずなんだが、これはいったいどういうことだ。

「ちょっと、詳しい話を聞かせてくれ」

 そう告げた私に、彼女はちいさくうなずいた。

***

 くるみの話を簡単にまとめると、こうだ。
 まず、借金は父親の医療費に起因するものらしい。不治の病だった父親に未承認薬を使うため、家族は保険外の治療に踏み切った。
 しかし、保険外治療は短期間でもべらぼうな額になる。貯金を切り崩し、家を売り、それでも足らずに、とうとう消費者金融から金を借りた。
 残念ながら、父親は治療むなしく亡くなったらしい。それが昨年の話だ。

 そしてもう一つは弟の学費だった。弟は私立の進学校に通っているという。弟がその学校に入学した際、父親はまだ発病していなかったそうだ。
 くるみの弟の通う高校は、国内ではトップレベルの高校だ。偏差値も、学費の高さも。
 また最難関校の矜持ゆえ、去る者は追わない。どんな事情があろうとも、学費は年額を一括で支払わねばならないという話だった。
 母親も必死で働いているが、借金を返しながら高額の学費を払うのはかなり難しい。
 それでも、今年の学費の大半は用意できたそうだ。が、あと十万たりない。それを明後日までに工面しなくてはならないらしい。

 だから適当な男を捕まえて、相手がシャワーを浴びている間に逃げだす行為を繰り返せばいいと思ったという。そこに私が出くわしたわけだ。
 ジーザス! なんという短絡的な考え。そんなの、うまくいくはずないだろう。しかもそれは完全なる犯罪だ。未遂に終わって本当によかった。

 それにしても、金銭に困っていたなら身近な年長者に頼ればいいんだ。親戚でもなんでも。そういったことを相談できる相手が近くにいなかったのかと問おうとし、愚問だったとかぶりを振った。
 いなかったから、くるみはこんな短絡的な行為にはしったのだ。
 だいいち、弟の学費をこの子が工面する必要などない。それは親と本人が考えればいいことだ。
 だがきっと、父親が病に倒れるまで家庭から出たことがなかったであろう母親を、こうしてこの子は支えてきたのだ。

 ベッドの上に座って泣きじゃくる、小さくて細い肩。それを抱きしめたいという衝動を理性でどうにか抑え込み、震える背中をそっと撫でる。

「あのね、そういう時は周囲にいる年長者を頼りなさい。私でも、直接の上司である事務長でもいい」

 涙にぬれた顔が、ゆっくりと上がった。

「お金のことは心配しなくていい。もう大丈夫だ」

 それから、うん、まず鼻水を拭こうか。ご自慢のかわいい顔が台無しだ。

「まず弟さんの学費だけどね、トップクラスのヒーローは、たいてい優秀な人材を育てるための基金に参加しているよ。オールマイトも完全給付型の奨学金を設けている。弟さんの学校で、しかも成績が優秀であるなら、すぐに審査は通るんじゃないかな」

 実際のところ、私の審査は今通った。

「おうちの借金についても、会社で金利の安いローンを扱っているから、借り換えてしまえばいい。どちらも明日の朝一番に申請しなさい。それから支払期限が明後日までの学費は、私が立て替えるよ」

 財布から一万札を数枚取り出して、小さな手のひらの上にそっと乗せた。
 お札を握りしめ、再びうなだれてしまったくるみを見ていてしみじみ思う。
 たぶん、この子はうぶなのだ。
 金持ちの男を狙うハンターではなく、王子様の訪れを待っている、ただの夢見る女の子。
 確かに言うことには遠慮がない。表現の仕方が過激なうえに、アプローチ方法もかなり変わっている。でも、それだけだ。悪い子ではないんだ、絶対に。
 だからどうしても、言っておきたかった。誰かに依存して生きるのではなく、自分の力で生きていける女になってほしいと。

「君はそろそろ大人にならなきゃいけない。夢を見るのもいいが、現実を見据えることも大切だ。まずは自分の足で立つことを覚えなさい。もちろん、専業主婦がいけないわけじゃない」

 私の声に、くるみがゆっくりと顔を上げた。

「愛する人たちを支えるために生きるのも、立派な選択の一つだ。けれど楽をするために、経済力のある男に依存するのは感心しない。要するに、目的と手段をはき違えちゃいけないってことさ」
「はい」

 反発されるかと思ったが、意外なことにくるみは素直に返事をした。
 まっすぐ見つめてくる強い視線に、少し気圧された自分に驚く。
 実のところ、この子に関しては、なぜか自分のペースが保てない。
 出会ったその日のうちに、新入社員の経歴チェックなどという名目を掲げて、秘書に彼女の履歴書を持ってこさせた。家の住所、家族構成、出身大学、のところまで目を通して、これじゃまるでストーカーだと、ため息をついた。
 その翌日も、この子の働く姿が見たくて、事務所に顔を出してしまった。
 それだけではなく、連絡先を教えてしまったり、誘われたからとランチを共にしたり。
 関わりたくないと思っていたはずなのに、これはいったいどうしたことだ。

 ずいぶんと年の離れた、若い女の子だ。少しわがままでかわいい、気まぐれな子猫みたいな女の子。
 どうしてこんなに、この子のことが気になってしまうのか。
 その理由はまだわかりたくない、そんな気がした。

***

 ホテルを後にし、電車で帰れますと言い張るくるみを、無理やりタクシーに押し込んだ。運転手に一万円札を渡し、荻窪までお願いしますと声をかける。
 そのやりとりの後、気まずそうな顔で、ありがとうございます、と言ったくるみの顔をじっと見つめた。
 印象的な瞳に宿った、強い光。先ほど小さな子供のように泣きじゃくっていた女の子とは、まるで別人だ。
 本当に、この子はいろんな顔を持っている。

 ちゃっかりした小悪魔の顔。
 弟の学費を案ずる苦労人の顔。
 短絡的で子供っぽい顔。
 そして私の口元を拭いてくれた時の、聖母のような優しい顔。

「気をつけて」
「はい」

 そうして走り去ったタクシーのテールランプを見送って、ついと空を見上げると、靄がかかった春の月が見えた。はっきりしない己の心のように、春の夜にぼんやりと映る朧月。

「まったく、なんてこった」

 そう独りごちてから、私は軽く肩をすくめて、朧月の下をゆっくりと歩き出した。

2015.3.8
月とうさぎ