我に返ったそのとき、きもちわるい、とまず思った。
ひどく汗をかいている。背中や胸元を伝う雫が、とても不快だ。
いったいどれほどの時間、わたしはここにいたのだろうか。
シャワーを浴びないと、と、バルコニーの柵に手をかけて立ち上がると、頭がくらくらした。
涼しい室内に戻ってすぐに、水分を取った。冷たいお茶が五臓六腑に沁みわたる。
こういうおじさんくさい表現が身についてしまったのも、きっとあのひとの影響だ。
良くも悪くも、マイトさんはわたしの人生を大きく変えた。
「汗でべたべた」
誰もいない部屋でもらす、不毛なひとりごと。
今日は家事をする気にはどうしてもなれなかった。立ち上がって洗濯機のボタンを押す、ロボット掃除機のスイッチを入れる、ただそれだけのことがひどく億劫に感じられる。
それでも、ここに一人座り込んでいてもどうしようもない。それだけはわかっていた。
「決めた、もう今日は家事をしない!」
誰に聞かせるでもなく、それでも大声でそう宣言し、浴室へと向かった。
無理やりにでも気持ちを引き上げなくてはいけないときは、あるものだ。
***
駅前の大通りは相変わらず人が多い。この人たちを守るために、わたしの大切なひとは命を賭している。そう思ったら泣きたくなった。
気分転換のつもりで外出してみたものの、結局、わたしはマイトさんのことばかり考えている。
――かなり危険な相手なんじゃないの?――
わたしの問いに答えなかったマイトさん。それはいつもの、無言の肯定。
ついてきたいなら来い、できないのならそこまでだ。彼はいつも、言葉ではなく態度でわたしにそう告げる。
彼を変えることは不可能だ。考え方を変えなくてはいけないのは、いつもわたしのほう。そのくせ、彼はわたしに強制もしなければ強要もしない。
昨夜のやり取りを思いだし、眉根を寄せたその時だった。
「ねえ、君かわいいね。お茶でも飲まない?」
背後からかけられた、爽やかな声。
なんてありがちなナンパだろう。
でもこうやって、男のひとに声をかけられるのは久しぶりだ。
声をかけてきたのは、背が高くて綺麗な顔立ちをした、今風の髪型と今風のファンションをした色男。
「使い古されたセリフね」
「オーソドックスと言ってくれないかな。変に奇をてらうより、はるかに好感がもてるだろ?」
にこり、と整った面差しの青年が笑う。
笑うと、最初の印象よりずいぶんと若く見えた。もしかしたら大学生かもしれない。
こういう、普通の暮らしをしていそうな男のひととつき合っていれば、今のような苦しい思いをしなくて済んだのだろうなと、ぼんやり思った。
心配ごとといえば、浮気や心変わりくらいのものだろう。
お姫様のような暮らしも、高級ジュエリーも手に入らない。けれど相手の無事を祈って、胃がきりきりと痛むこともない。夜中に、うなされる声で目覚めさせられることもない。
わたしが選ばなかった、穏やかな生活。
「悪いけど、今日はもう家に帰ろうと思ってるの」
「まだ夕方じゃないか。お茶くらい飲んでいかない?」
「よくないのよ。こういうことだから。ごめんね」
青年に見せつけるように、ひらりと左手を翻した。薬指にはプラチナのリング。これももちろん、マイトさんに買ってもらったものだ。
「あっ、なんだよ。そういうことなら最初に言ってくれないと」
「ごめんなさい」
「いや、よく見なかった俺も悪かったよ。じゃあお姉さん、気をつけて」
あっさり引き下がった青年に背をむけてから、わたしは薬指に光るリングをみつめた。有名高級宝飾店のものだと一目でわかる、特徴的なデザイン。
同じ指輪を、マイトさんも持っている。文字通り持っているだけだ。マッスルフォームになった時、彼の指は微妙にだけれどサイズがかわる。だから普段はつけられない。
有名ブランドの品であるが故、ファンが多いこの指輪は、マリッジリングとして使っている人もいれば、ただのペアリングとして使っている人もいる。
傍目からはどういう仲なのかわかりにくい、わたしたちの関係を象徴するような指輪だと思う。
いろいろと制約がある、わたしたちの生活。
それでもわたしは、平凡で穏やかな幸せよりも、世界を支えるために生きるあの人との暮らしを選んだのだ。
マイトさんと暮らして知ったことだが、ヒーローは同業者同士での結婚が多い。いろいろと制約がある、出会いの問題、考えられることはさまざまだが、おそらくはこの職業の特殊さに関する理解度がその理由の最たるものだろう。
また職業ヒーローはみな、それなりの精神訓練を受けている。一般人には耐えられない悲しみも、彼らは耐えうることができる。
だからヒーローの伴侶にはヒーローが相応しい……そうまことしやかに語る者もいる。
でも、本当にそうだろうか。
確かにそれは、事実のひとつでもあることだろう。
けれど、愛する夫が、妻が、子が、親が、身の危険にさらされても平気でいられる人間など、どこにいようか。
それともヒーローは皆、人の感情というものを超越した存在なのだろうか。
滑るようにホームに入ってきた車両を見ながら、わたしはまたも、ため息をつく。
ぴろりん、と、電子音がなった。
慌てて携帯の画面をひらくと、思った通り、入ってきたのはマイトさんからのメッセージ。そこに書かれていたのは、とても短い文章だった。
『今夜は帰れそうもない。明日の始発で帰るよ』
ただそれだけ。
きっとこれから、あのひとは戦いの場に赴くのだ。
そう思ったら、心配でいてもたってもいられなくなった。
行かなくては。
どこに?
マイトさんのいるところ。
それはどこ?
わからない。
だってヒーローならぬわたしは、なんの情報も得られない。
行ってどうするの?
なにもできない。
ティッシュをひっくりかえす程度の個性しか持たないわたしに、できることなどなにもない。
では、わたしはひとり、ここで泣くことしかできないのだろうか。
そんなのはいやだ。
行かないでとすがりつき、家でしくしく涙を流す。そんなのは、まったくもってわたしらしくない。
ぶれない彼に振り回されて、ぶれにぶれてしまっていた気がする。
彼が変わらない以上、彼と離れたくない以上、わたしは自分にできることをするしかない。
わたしが泣こうがわめこうが、彼は行く。そういう相手を好きになった。それだけのこと。
もうこればかりは、どうしようもない。
かぼちゃの馬車を蹴倒して、ガラスの靴を叩き割れ。
それがわたしが選んだ道だ。
と、その時、ぐうう……とお腹がなって、わたしはひとり苦笑した。
驚いたことに、時刻は夜の十時近くになっていた。
そういえば、今日は朝から水分しか口にしていない。
こんなに悲しいのに、あのひとのことがこんなにも心配なのに、それでもやっぱり、お腹は空くのだ。
悲しいけれど、生きるというのはそういうことだ。
「大丈夫……きっと無事で帰ってきてくれる……」
明日、マイトさんが帰ってきたら、なにを作ろう。
今のわたしにできることは、結局のところ、彼が帰ってくれることを祈り、信じるだけだ。
簡単に用意した食事をしながら、テレビの電源を入れた。
画面に映し出されたのは、雄英高校教師陣による記者会見の様子。
小柄な校長先生の隣で頭を下げているのは、黒髪のイケメンと体格のいい男性だ。たしかこのふたりは、一年生の担任だったはず。
もそもそと食事をしながら、会見の様子を見守った。やけに煽るような質問をする記者がいた。それに対して最後まで冷静さを貫いた先生方を見て、本当に大変だろうと心の中で息をつく。
会見が終了し、ニュースが老人介護問題の特集に切り替わる。介護問題も大事だろうが、今は気が滅入ってしまいそうで、画面を番組表に切り替えた。
我が家は地上波だけでなく、衛星放送も見られるようになっている。視聴可能なチャンネル数は膨大なものだ。
が、その中で、わたしが意図的に見ないようにしている専門チャンネルがひとつある。
それは、『ヒーローチャンネル』だ。
ヒーローが活躍する様子を、延々と流し続けるだけのチャンネル。
マイトさんはたまにここを利用して自分の活躍をチェックしているが、そういう時、わたしはそっと席を外すことにしている。
「ねえくるみ。君さ、あんまりヒーローチャンネル見ないよね」
共に暮らしはじめた頃、そう指摘されたことがある。
「別にヒーローが嫌いってわけじゃないよね。私の事務所に就職したくらいだし」
「……うん。嫌いじゃないよ。でもあんまり好んでは見ないかな。大きな事件はネットや新聞をみればわかるし」
その時、マイトさんは少しさみしげに眉をさげ、ぼそりと呟いた。
「でも君、私が出てるバラエティなんかは、よく録画して見てるよね……」
ごくごく小さな声だった。それだけに胸がちくりと痛んだ。
わたしはヒーローが嫌いなわけじゃない。
けれど、彼と暮らすようになってから、わたしは一度もヒーローチャンネルを見ていない。見ないのではない、見られない。
そうしないと、心の均衡を保ってはいられなかった。
「ま、君はアクション映画なんかも好きじゃないしな」
マイトさんが諦めたようにふっと笑った。
「そうなの……暴力的な場面とか見てると、なんかつらくなってしまって……」
「ドラマなんかで暴力シーンが出てきただけで、きみ、さりげなく席をはずしてるもんな」
「うん」
そのあと、マイトさんは、しかたないね、とごくごく小さな声でそう告げたのだった。
それから彼は、ヒーローチャンネルについて一度も触れたことがない。
番組表をチェックしてはみたものの、見たい番組はみつからなかった。しかたなく、先ほどのニュース番組にチャンネルを戻した。
その瞬間、画面に流れてきたテロップに、全身の毛が逆立った。
――横浜市神野区でオールマイト氏がヴィランと交戦中――
ベテランアナウンサーが早口でニュースを読み上げていく。
すぐに画面がスタジオから中継に切り替わった。そこに映し出されたのは、半壊滅状態になった横浜の街と、ヴィランと対峙する見知った男の大きな背中。
『信じられません! 敵はたった一人! 街を壊し! 平和の象徴と互角以上に渡り合って―…』
中継のアナウンサーの声が、やけに遠くに聞こえた。反対にヘリの音がひどくうるさい。
いま、敵は一人と言ったか。
たった一人のヴィランが、横浜の街をあんなにしてしまったのか。
「どうしても、私でないとだめなんだ」と告げた時のマイトさんの声が、頭の中でこだまする。
悟ってしまった。
おそらくはこの相手が、オールマイトから色々なものを奪ったのだと。
胃を、肺の半分を、師匠を。そして、ヒーローとしての彼の未来を。
次々と映し出される光景は、信じがたいものだった。
悪漢に押されているようにしか見えない平和の象徴。ビルが崩れ落ち、瓦礫の山と化した大都会。泣きわめきながら逃げ惑う人々。
それはさながら、悪夢を具現化したかのようで。
画面の中でまた爆風が巻き起こる。敵が攻撃を仕掛けたのだ。それを相殺すべく、拳を掲げたオールマイト。
そして次に、わたしは自分の目を疑った。
薄れていく粉塵の向こうで、拳を突き出している我々のヒーロー。この国の人間なら、誰もが一度は見たことがあるオールマイトの闘う姿。けれど、いつもとはその容貌が大きく変わってしまっている。
それは、一部の人間しか知らなかったはずの、真実の姿。
「活動……限界……?」
どうして避けなかったのか、と、問いかけてわたしはかぶりを振った。その理由がすぐにわかったからだ。
オールマイトの背後に、若い女性の姿が見えた。敵の攻撃を避けたりしたら、彼女に当たる。
「あなたは……どこまで……」
どこまでオールマイトは、英雄たらんとするのだろうか。
この強大な敵を前に、ひとりの犠牲もなく勝利することがどれほど難しいか、わからないはずがないだろうに。
それでも、ひとりの犠牲者も出したくないと、そう思うからこそ彼なのだ。
「……どうして……誰も救けに来ないの?」
声が、零れ落ちた。
オールマイトとヴィランが対峙している上空には、何台もの報道ヘリが飛び交っている。横浜といえば、大阪市すらも凌駕する人口を有する大都市だ。その都市がここまでの被害を受けているということは、近隣のヒーローたちには出動要請が出ているはずだ。それなのに。
「こんなの狂ってる……」
オールマイトの側にいるのは、さきほどちらりと姿が映ったグラントリノだけ。
それとも、画面に映っていないだけで、ヒーローが他にも来ているのだろうか。
それならなぜ、あんな姿になったあのひとを援護するひとがいないのだろう。
「お願い、お願い。誰かあの人を助けて……」
世を支え、救け続けてきた英雄が衰えた姿をさらしているというのに、彼を救いに来るヒーローは誰もいない。
これは『つけ』だ。
そしてそれは、誰にも背中を預けずに、世界の柱となることを甘んじて受け入れ笑んできた、オールマイト本人が作ったもの。
それでも、誰かひとりくらい、彼を救けようとするヒーローが現れることはないのだろうか。
『頑張れ! オールマイト!』
テレビのスピーカーから流れてくる、無責任な民衆が叫ぶ声。
「やめて!」
そんなふうに煽らないで。
その名を呼ぶ声がする限り、彼は戦う。命の限りを尽くして、あなたたちを守ろうとする。
いや、違う。
彼はきっと、誰にも呼ばれなかったとしても、抗い闘い続けるのだろう。そこに守るものがあり、己に守れる力がある限り。
ヒーローの特性とは、個性に優れていることではなく、自らの犠牲の上に平和を願う狂気を、胸に宿すということなのか。
――だとすれば、狂っているのはきっと、世界ではなく――
そう思いかけた刹那、オールマイトの身体がまた変化した。
モニター越しでも伝わってくる、軍神のような威圧感。だが闘志と共に膨れ上がったのは、彼の全身ではなく、右腕一本。
強大な力を有するヴィランが、静かにオールマイトに近づいていく。
英雄と悪漢が激突せんとしたその瞬間、敵が炎に包みこまれた。
「エンデヴァー……」
紅蓮の炎を放ったのは、逞しい巨体を有するナンバーツーヒーロー。
いや、そこにいたのはひとりではない。
エッジショット、シンリンカムイ、虎。名立たるヒーローたちが、オールマイトの窮地を救いに現れたのだ。
よかったと思った瞬間、涙がぼろぼろと零れ落ちた。
あのひとは一人ではなかった。
オールマイトに縋るだけでなく、彼を救け、共闘しようと思ってくれるヒーローがいる。それが嬉しい。
しかしヒーローたちの登場を喜ぶ時間は、そう長くは与えられなかった。
ヴィランがヒーローたちを弾き飛ばしたのだ。
桁外れの瞬発力、桁外れの膂力。
闘気のようなものをゆらめかせて、ヴィランがオールマイトを見据えた。その右手が、ありえないほど膨れ上がっている。
悪魔ですら、裸足で逃げ出しそうなその姿。
生ける悪夢が痩せたオールマイトに襲いかかるのを、わたしは瞬きもせず、ただ見つめていた。
2016.9.27