番外編・過ぎゆく夏に

 広いバルコニーの端で、茶色いなにかがうごめいていることに気がついた。仰向けにひっくり返り、弱々しく羽をふるわせているそれは、死にかけた一匹の蝉。
 このまま死を待つしかないあの蝉は、生命を謳歌することができただろうか。数週間の恋の時期に相手を見つけ、子孫を成すことができただろうか。

 こんなふうに、センチメンタルな気分になってしまうのは、きっと季節と時間のせいだ。夏の終わりの夕暮れは、ひとの心の弱い部分を、強く揺さぶる。
 ふうと息をついたその時、玄関の呼び鈴が鳴った。
 マイトさんだ。

 彼――オールマイト――は、この夏、事実上の引退を表明した。

「お帰りなさい」

 わたしはいつものように彼を出迎える。ただいま、と、いつものように彼も答える。
 今日のマイトさんは紺のポロシャツにチノパンという、実にカジュアルな組み合わせ。いつものスーツも似合うが、こうしたリラックスした服装も、おしゃれな彼はセクシーかつクールに着こなす。

「今日は早かったね」
「だって、まだ夏休みだから」

 マイトさんが、にへらと笑った。その笑みの中に隠された感情に気がつかない振りをしながら、わたしも笑んだ。

「だからさ、これ、食後にやらないか。夏が行ってしまう前に」
 左手に下げていた袋を、マイトさんがひょいと掲げた。中に入っていたのは、和紙でできた細長い花火だ。

「線香花火?」
「うん。なんか、懐かしくなって買ってしまった」

 彼がまた、へにゃりと笑った。

***

 バケツを持って、近くの公園に出向いた。
 都会の花火事情は甚だ厳しい。集合住宅住まいであればなおのこと。河川敷なんてものも近くにはないし、公園も花火禁止のところが大半だ。
 けれどここは、「手持ち花火は可」と書かれている、数少ない公園のひとつ。公園内の広場では、ぽつりぽつりと花火を楽しむ家族連れの姿がみられる。
 はしゃぐ子供たちが手にしている花火はさまざまだ。ばちばちと派手な音を立てるものもあれば、緑や赤、色鮮やかな炎を出すものもある。
 マイトさんが買ってきたのは、和紙を撚って作った関東風の線香花火だった。関西のほうには火のついたほうを上に向ける「スボ手花火」という線香花火もあるらしいが、わたしも俊典さんも東京出身。火のついたほうを下に向ける、関東タイプがなじみ深い。

「この夏は、どうしてもこの花火をやりたかったんだ」

 ふたり順番に、和紙の先端に火をつけた。玉を落とさないよう気をつけて、そっとしゃがんで花火を見つめる。
 ぱちぱちと小さな音が鳴り、丸い小さな玉の周りを小さな火花がくるくると踊る。火花の舞は徐々に激しくなり、明るく輝きながら広がりはじめた。
 花火に照らされた、憂いを含んだ彫りの深いおもざし。
 このひとはいま、何を思っているのだろうか。

 線香花火は下方向に火花を散らし、少しずつ勢いを弱めていく。ぱちちち、と弱々しい音をたてていたそれは、やがて小さな玉になり、そして最後にぽとりと落ちた。
 線香花火は、人生に似ている。
 はじめはちいさかった火花が徐々に勢いよく燃えていき、最後は魂が消えるように、火球が落ちる。そのさまは儚く、そして悲しい。
 数種が入った花火セットではなく、この儚い花火だけを選んだ、マイトさんをひそかに案じた。

「次はこっち」

 と、マイトさんは、表面上は楽しそうに、次々と花火に火をつけていく。わたしも無言で、それに倣った。

「この花火は、人の生きざまと同じだな」

 最後の玉が落ちた時、彼がぼそりとつぶやいた。
 さきほどわたしも同じように思ったけれど、マイトさんの口から出ると、とても重く感じる。あやうく涙が出そうになった。

「終わってしまえば、何も残らない」

 ああ、本当に、このひとは。
 わたしはしゃがんだままの大きな背に、そっと寄り添う。

「でも、記憶の中にはずっと残るよ」

 マイトさんがはっとしたようにわたしを見た。その表情がわずかに歪んでいる。
 許されるのなら、今は笑わなくてもいいんだよと、そう言ってあげたい。
 窮地におちいるたびに笑んできたこのひとは、つらい時こそ笑おうとする。そんな悲しい笑顔が癖になってしまったこのひとに、悲しいときに笑わないでと言ってしまいたい。
 だけどきっと、今のマイトさんはそんな言葉は望まない。だから。

「少なくとも、あなたとこうして花火をしたこと、わたしはずっと、忘れない」

 ゆっくりと、そう告げた。
 マイトさんが静かにうつむく。表情は見えないけれど、それをたしかめようとしてはいけない。

「ねえ、マイトさん。また夏が来たら、花火をしよう。来年は線香花火だけじゃなく、いろんな手持ち花火が入っているセットを買って。ううん。来年だけじゃなくて、再来年も、その先もずっと。毎年しよう、ふたりで」
「……ああ」

 うつむいたまま、彼がそう答えた。
 わたしは大きな手をとって、それをそのまま自分の頬に当てた。傷だらけで節くれだった、何人も、何百人も、何千人もの人を救けてきた、愛しい手。

「大好き……」

 思わず口からこぼれ出てしまった言葉に、マイトさんが顔をあげた。そこにはもう、先ほどまでの陰りはない。

「明日の予定は?」
「午後から学校に顔を出そうと思ってるよ。夏休みでも、やることはたくさんあるからね」
「お弁当は?」
「小さいのを一つ、作ってもらえるかな」
「うん。なにが食べたい?」
「なんでもいいよ」
「なんでもいいって言うのが、一番困るの」
「じゃあ、松風焼きが食べたいな。材料あるかい?」
「大丈夫」
「……」
「なに?」
「いや……なんでもない」
「なに? ちゃんと言ってよ。気になるじゃん」
「ん……」

 マイトさんが言葉を切った。続きをと彼を見上げたとたん、優しいくちびるが降ってきた。
 触れるだけの、優しいくちづけ。

「ありがとう。君が私を好きになってくれて良かった」

 礼を言いたいのはこちらのほうだ。
 あなたに恋をして、あなたを案じて、いっぱいいっぱい泣いたけれども、それでもわたしはしあわせだ。
 マイトさん、あなたに愛してもらえたのだもの。

「風が気持ちいいね」

 確かにそうだ。つい先日まで、蒸し暑い夜が続いていたのに。髪を揺らす風が、こんなにも心地よい。
 もう、本当に夏が終わるんだ。
 公園内には、花火を楽しむ家族連れの姿がちらほら見える。
 いつかわたしたちもあんな風になれたらいい。そんなちいさな希望が、胸に生まれた。

2016.8.5
月とうさぎ