1.天国にいちばん近い島へ

「旅行に行くなら、どこに行きたい?」

 満面の笑みを浮かべた長身痩躯が、帰宅するなりわたしにたずねた。

 オールマイトは我が国のヒーロー史に残る事件を最後に、ヒーローをやめた。「神野の悪夢」と呼ばれるそれをきっかけに雄英は全寮制になり、わたしたちの生活も変化した。
 バタバタし続けた夏がやっと落ち着いてきた、そんなある日のことだった。

「旅行って、急にどうしたの?」
「ん、もう少しで夏休みが終わっちゃうだろ。この夏は色々あったけど、学校が始まる前に少し休みが取れそうなんだよ」
「そうなんだ……旅行できるなんて嬉しい! 初めてよね。ふたりで旅行なんて」

 近頃、マイトさんは元気がない。理由もわかっている。だからそこには触れない。
 けれど休みがとれるなら、旅行をするのもいいかもしれない。彼にとって、いい気分転換になるだろう。

「行くなら国内?」
「いや、国外にしようかと思ってる」

 国外と聞いて、エッフェル塔が頭に浮かんだ。行くならだんぜんフランスだ。
 パリの街を観光して、お買いものを楽しむ。それからモンサンミッシェルに足をのばして、ふたりで沈む太陽を見たい。海のただなかに浮かんでいるように見える修道院から望む夕日は、きっとロマンチックなことだろう。
 忘れてはいけないのがベルサイユ宮殿。ベルサイユと言えばアントワネット。以前、彼女を題材にした映画を見たことがある。あの映画は素晴らしかった。可愛く綺麗なものがたくさん、という意味で。
 本家本元のロココ調、絶対この眼で見てみたい。

「くるみ」

 おフランスに飛んだ心を引き戻したのは、心地良く響く低音だった。

「参考になればと思ってパンフレットをもらって来たんだけど、どれがいいかな」

 その言葉と同時に広げられた、カラフルな冊子の数々。表紙の文字は、セブ、プーケット、バリ、フィジー、モルディブ、タヒチなどなど、ビーチリゾートばっかりだ。

「……マイトさん、海に行きたいの?」
「昔からヤシの木陰でハンモックを吊ってお昼寝、っていうのにちょっと憧れてたんだよね。それに、夏休みといったら、やっぱり海だろう?」

 なんて単純な思考だろう。マイトさんは頭のいい筋肉だと思っていたのに。

「なあ、みてくれよ、この海の青。白い砂浜。綺麗だなぁ。実際に見たらどんなだろう」

 ああ、もう……とわたしは内心でため息をついた。
 これでは無理だ。パンフレットを眺めて少年のようにはしゃぐ彼を見ていたら、とてもじゃないけど自分の希望を言い出すことなどできやしない。

「お休みは何日くらいとれるの?」
「ウン……ほんと悪いんだけど、頑張っても五日がせいぜいだろうね。来年は土日をうまく利用すればもう少し休めるんじゃないかと思うんだけど」
「移動も含めてその日程だと、一か所でのんびりした方がよさそうね」

 ただ心配はある。彼の右腕はまだギプスがとれていない。海水浴は無理だろう。行っても彼は楽しくないんじゃないだろうか。
 本人が行きたがっているのだから、あまり気にすることはないのかもしれないが。

「君は、どこか行きたいところはある?」
「マイトさんは?」
「私は君の希望を聞いてるんだけど」
「わたしはあなたの希望を聞いてるの」

 ビーチリゾートのパンフレットしか持ち帰らなかったくせに、何を言ってるんだろう、このひとは。でもそれを言ったらおしまい。だから少し攻め方を変える。

「あのね、わたしはマイトさんと一緒ならどこでもしあわせ。ふたりで旅行なんてはじめてでしょ。だから今回はあなたの行きたいところに行きたいな」

 甘えるように薄い胸にもたれかかりながらそう告げると、まんざらでもない笑顔がかえってきた。このひとのこんな様子は、とてもかわいい。

「私ね、天国にいちばん近い島に行きたいかも」
「天国にいちばん近い島?」
「ニューカレドニアだよ。昔ね、そういう映画があったんだ。赤土だらけのニッケル鉱山の島が舞台で、主人公がドラム缶の風呂に入る場面が印象的だったなぁ」

 ニッケル鉱山、ドラム缶風呂、赤土だらけの島。
 自分の顔がひきつっていくのがわかる。
 普通、南の島というものは、白い砂浜とか、サンゴ礁とか、ヤシの木とか、そういうイメージのものなんじゃないだろうか。

「ねえ。なんか天国とは程遠いイメージなんだけど……」
「あっ、いや……砂浜は真っ白だし、海は青いし、治安はいいし。フランス領だけに料理も美味しいらしいよ」
「わたし、ドラム缶のお風呂に入るのはいやよ」
「あっ、ウン。わかってるよ。ちゃんとしたホテルをとるつもり」

 マイトさんがそういうなら大丈夫だろう。彼は都合の悪いことは黙っているが、嘘はつかない。

「南の島に行くなら痩せなくちゃ」

 少し前に増えてしまった体重は、まだ元には戻っていない。たかが二キロ、されど二キロだ。
 すると、マイトさんが眉間にしわを寄せた。

「君は別に太っていないよ。標準体重よりもはるかに軽いはずだろ。痩せる必要はないじゃないか。どうして君は、そう不必要に痩せたがるかな」
「だって……水着姿が格好悪いの、いやだもん」
「じゃあ、私が簡単なトレーニングメニューを組んであげるよ。それなら健康的だし、見た目も綺麗だ」
「それじゃあ旅行には間に合わないじゃない」
「言っておくけどな、食事の量を減らして不健康に痩せるのなんか、ぜったい許さないぞ」

 長い腕が伸びてきて、いきなりわたしを抱きしめた。髪に額に頬に、たくさんキスが降ってくる。

「このままでいいじゃないか。君は今のままでも充分かわいいんだよ」

 こんなふうに甘やかされるのは嫌いではない。
 そのまま細長い身体に体重を預けると、いたずらな左手が胸元に侵入してきた。

「ちょ……なに?」
「ン。痩せたいなら、少し運動したらいいんじゃないかと思ってね」
「運動って、もう少しムードのある言い方ない?」
「いずれにしろ、することはひとつだろ」

 肉の削げ落ちた顔にニヒルな笑みを浮かべて、彼はわたしに口づけた。

***

 与えられた幾度ものエクスタシーに消耗しきったわたしを見おろし、マイトさんが満足そうに笑む。
 淡い間接照明のもとで重ねた体は、変わらず熱い。
 やがて彼も、小さく身震いをして、わたしと同じように果てを迎えた。

 彼が引退してから、夜の回数が増えた。
 体力的には現役時代よりも衰えているはずだが、無理をしているという感じでもない。
 以前と変わらぬくらい激しく責めさいなまれる夜もあれば、今夜のように、なだらかな曲線を描くような快楽を長々と与えられ続ける夜もある。
 いずれの夜も、わたしは彼に翻弄される。海の上に浮かぶ小舟のように。

「知っているかい?」

 事後処理を終えたマイトさんが、わたしの頭を撫でながら囁いた。
 とろとろと微睡み始めたところに響く、甘い低音は心地よい。快楽のあとはなおさらに。

「ニューカレドニアはね、バリアリーフに囲まれた島なんだ。周りに離島もいくつかある」
「……うん」

 うとうとしているわたしに、マイトさんは囁き続ける。優しい子守唄のように耳孔に流し込まれる、少し掠れた低い声。

「その一つが、天国にいちばんちかい島と呼ばれているんだ。他にも、海の宝石箱と呼ばれる島や、白い灯台がシンボルの小さな島がある。離島はどこのビーチも透明度が高いそうだよ」
「ん……」
「おやおや、もう眠ってしまったのかい」

 返事の代わりに、節くれだった指に、ちゅ、と軽く唇を押し当てた。
 ごつごつした手のひらがわたしの背中をやさしく撫でる。その感覚を楽しみながら、わたしは眠りの国へと落ちていった。

***

 最終的に、わたしたちはツアーではなく個人旅行を選択した。
 そのほうが、なにかと面倒がないと思ったからだ。なにしろ、わたしの同行者はオールマイトなのだから。
 空港や飛行機の中でひと騒動起こるのではないかと心配したが、ありがたいことに、杞憂に終わった。
 マイトさんは特徴的な前髪を後ろに流して一つにくくり、薄い色のついた眼鏡をかけている。変装というほどでもないが、それだけでかなり雰囲気がかわるものだ。人々がトゥルーフォームのオールマイトにまだ慣れていないのも、正体がばれずにすんだ一因かもしれない。
 そのうえ、わたしたちはビジネスやファーストを避け、エコノミーを利用した。
 ナンバーワンヒーローがエコノミークラスに搭乗するなんて、人は夢にも思わない。

 日本から八時間半のフライトを経て、エアカランの旅客機はヌメア=ラ・トントゥータ国際空港に降りたった。
 エアカランの客層はツアー利用のハネムーナーと外国人が殆ど。個人旅行の日本人はあまりいない。なぜなら、この時期のニューカレドニアはシーズンオフだからだ。
 八月の南半球は日本とは反対の季節。つまり今、ここは冬。
 冬といっても熱帯の島だ。平均最高気温は25度近くにもあがるので、マリンレジャーは充分楽しめる。が、朝夕は上着がないと過ごせないくらいは寒い。

 マイトさんはそれらをすべて承知で、人気の高いハワイでもなく、近場のグアムやサイパンでもなく、天国にいちばん近い島を選んだ。
 それが何故かはよくわかる。きっと彼は、オールマイトを知らない人たちのところに行きたかったのだ。

 入国手続きを済ませ、ぞろぞろとバスに乗り込むハネムーナーたちを横目で見ながら、タクシー乗り場へと向かった。
 頭上には、今にも零れ落ちそうな星空が広がっている。

「圧巻だな」

 マイトさんが上を見上げてぽつりと漏らした。
 漆黒のベルベットの上に宝石をまき散らしたかのような満天の星空は、たしかにプラネタリウムでは味わえない迫力がある。
 今にも星が落ちてきそう。そう思った瞬間、東の空に輝く星が、すっと流れた。

「見た? 流れ星!」
「ああ。見たよ」
「すごい!……わたし、こんなにたくさんの星をみたのは初めてかも」
「私は一度だけあるな」
「いつ?」

 するとマイトさんは、少し気まずそうな表情をした。きっと女だ。そう思ったわたしは、きゅっと眉根を寄せ、もう一度同じことをたずねた。

「いつ? 誰と?」
「ン……前に話したろ。お師匠と蛍を見に行ったって。その時だよ」
「……ねえマイトさん」
「なんだい?」
「お師匠さんって女の人?」
「ン。そうだけど……」
「もしかして、好きだった?」

 すると悪いことに、マイトさんはとても困った顔をした。
 いやだ、と思った。これ以上は、聞きたいけれど聞きたくない。
 もちろん、お師匠さんとマイトさんが恋人であったとは思わない。あちらはきっと、彼をかわいい弟子として見ていたことだろう。
 けれどきっと、マイトさんのほうは違うのだ。だから何十年もの年月を経ても、お師匠さんというひとは、このひとにこんな顔をさせてしまうのだ。
 マイトさんと出久くんの間に誰も入れないのと同じように、きっとお師匠さんとマイトさんの間にも、誰も入ることができない。わたしはそこに、大きな嫉妬をおぼえる。

「……あのね……くるみ」
「もういい」
「え?」
「もういいよ。だってほら、星がきれい」

 心の中に生じたざわめきを振り払うように、にっこり笑って空を見上げた。目の中に広がるのは、嘘もごまかしも通じない、壮大な空。

 わたしはマイトさんと手をつないだ。
 過去に嫉妬して喧嘩をしても、はじまらない。
 ここは天国にいちばん近い島。星降る、夢のような楽園。


 タクシーで数十分の距離にあるホテルの外観は、マイトさんが選んだにしては珍しく、やや古くさい印象だった。
 けれどそこには触れなかった。
 彼がSランクではなく、ここを選んだ理由がわかるからだ。それは旅行先をこの島にしたのと、まったく同じものだろう。
 日本人のハネムーナーは、往々にして、S ランクのホテルを選びたがる傾向にある。

「うわあ、広い!」

 古くさく見えたホテルだが、お部屋のつくりは素晴らしかった。
 十一階と十二階部分を利用したメゾネットタイプのスイートだ。階下の部分はリビングとダブルベッドの置かれた寝室、独立したトイレとバスと洗面所がある。そのどれもがばかばかしいほど広かった。トイレだけで、日本で言う四畳半くらいの広さだ。
 白い螺旋階段を上ると、またしてもダブルベッドが置いてある部屋に出た。こちらにも、よくあるサイズのトイレとバスがちゃんとある。
 上階の寝室のカーテンを開けた先は、ガーデンセットが置かれたルーフバルコニーだった。正面に見えるのは黒々とした夜の海。きっと朝になったら、見事なオーシャンビューが楽しめることだろう。

「満足してもらえたかい?」

 長い腕が伸びてきて、後ろからわたしを包み込んだ。昨日ギプスがとれたばかりの右手が、わたしの腹部を優しく撫でた。
 耳孔に流し込まれる声は、低いけれどもとてもやわらかい。
 ああ……と、わたしは期待に身体をふるわせる。
 きっとまた、あの甘い時間が始まる。
 天国にいちばん近い島で。


2016.10.23

※原作では「オールマイトと先代が蛍を見に行った」「オールマイトが先代に恋愛感情を抱いていた」という表現はありません。すべてこちらの創作です。

月とうさぎ