カーテンの隙間から入り込んだ陽光が、細長くベッドの足元を照らしている。昼には獰猛に牙をむくであろう南国の日差しも、早朝はやさしくやわらかだ。
日本とニューカレドニアの時差は二時間ほど。そのせいもあって、目覚めは至極爽やかだった。
隣りで眠る愛しい女を起こさないよう、そっと身体を起こした。さらりと毛布がマットレスに落ち、細い腕と大きな傷を有する薄い胸が露わになる。
これが今の私だ。肉の殆どついていない、貧相な身体。
素肌にそのままバスローブを羽織り、自嘲気味に小さく笑んだ。
音を立てないようにして階下へとおり、電気ポットを使ってひとり分のコーヒーを淹れた。
馥郁とした香りを楽しみながら思う。それでもきっと、私は幸福であるのだろうと。
萎んで使い果たしてしまったこの情けない身体を、愛しいと言ってくれるひとがいる。わたしが好きになったのは英雄ではなく八木俊典という普通の男であるのだと、だからあなたはあなたの人生を生きてくれと、彼女はあの日、そう言った。
「その割に、なかなか名前を呼んでくれないんだよな」
苦笑交じりにそうひとりごち、淹れたてのコーヒーを一口含んだ。
日本ではあまり知られていないが、ニューカレドニアはリロイと呼ばれる高級種の産地でもある。
ホテル備え付けの一人用ドリップコーヒーはそれとは別の銘柄だったが、それでも充分美味だった。
「今日はヌメア観光……ランチはメラネシアン料理でいいかな」
コーヒーを啜りながらガイドブックをめくり、今日の予定を脳内でさらう。
本当は島の西側にも足を延ばしたかったが、この日程では難しそうだ。
ニューカレドニアの本島であるグランドテールは、西と東ではまったく景観が異なる。西側は乾燥した赤土が広がり、東側は雨が多く、緑豊かだ。豊かなばかりの東だけでなく、赤土の島を見てみたかった。
だが、これ以上わがままは言えまい。
おそらくくるみには、他に行きたいところがあったのではないかと思う。パンフレットを出した時、明らかにがっかりした顔をされたから。
それでも彼女は私の希望を通してくれた。まったく、ここ最近はくるみに甘え通しだ。これではどちらが年上なのかわからない。
だからせめて、この島ではくるみの意向を尊重したい。
コーヒーを飲みほし、朝のやわらかな陽光に輝く海を眺めていると、くるみが階段を下りてきた。
「おはよう」
私と同じように素肌にバスローブを羽織っただけの姿で、くるみは恥ずかしそうに笑った。彼女はいまだに、抱いた翌朝はこうして恥じらう。
まったく、こういうところがたまらない。
聖女のような懐の深さを見せると思えば、悪女のようにずけずけと物を言う。少女のように恥じらうくせに、行為の時は淫女のごとく激しく乱れる。
くるみの持つこの多面性が私を駆り立てるのだが、本人はそれを意識せずにやっている。本当に性質が悪い。それでは、こちらが夢中になるしかないではないか。
「どうしたの?」
私の隣りに腰を下ろして、くるみが首をかしげた。
このまま押し倒して昨夜とおなじことをしたい気持ちを抑えて、耳元でささやく。
「ゆうべの君をね、思い出してたんだよ」
赤面するくるみの頬に軽いキスを落とした。眼の端を赤らめて睨むその顔がまたかわいい。
そろそろ朝食にしようか、ハニー。ごくごく小さい声でそう告げると、くるみは小さく頷いた。
やわらかい南国の風が吹き抜けるテラス席で、朝食をとった。南風がくるみの前髪を揺らしている。
心地よいリゾートの朝。全て世はこともなし。
「マダーム」
給仕がくるみに呼びかけた。
これが腹立たしいことに、フランスの至宝と謳われる俳優によく似たいい男だった。その美しい男が、典雅な仕草でくるみのカップにコーヒーを注いでいく。
高級リゾートの従業員は、容姿端麗であることが多い。このホテルもまた然り。
くるみの瞳が嬉しそうにキラキラと輝いた。
くっそ、君はいつもそうだな。いい男を見るとすぐこれだ。
気持ちの良かったはずの朝が、あっという間に腹立たしい朝に変わってしまった。
フランスの至宝氏は、ムッシュ、と私に呼びかけコーヒーを入れた。
そんなことはないのだろうが、くるみに呼びかけた時と、給仕の声のトーンが違うような気がしていらだった。ますますもって面白くない。
「あっ、マイトさん。今やきもちやいてるでしょ」
「別に」
「うっそだぁ。だってここにすごい皺が寄ってるよ」
眉間を指して、くるみが笑う。
おいおい、笑い事じゃないんだぜ。私が嫉妬深いのを知っているなら、あんな嬉しそうな顔をしないでくれよ。
「わたしには、マイトさんだけなのに」
と、くるみが甘えるように首をかしげる。
まったく、そんな仕草をすればごまかせると思っているところにも腹が立つ。
「バター塗ってあげるね」
ご機嫌をとるつもりなのか、くるみは私のバゲットを手にとり、バターをたっぷりと塗りたくりはじめた。
よしてくれ。私は子供でもなければ爺さんでもない。バターくらい自分で塗れる。だいたいそんなに塗ったら胃にもたれるじゃないか。まあ、私、胃袋ないんだけれども。
「はい、あーん」
だから食べさせてくれなくてもいいんだよ。私は子供じゃないんだからさ。
だが、私は思ったことを一つも言葉にはせず、あんぐりと口を開けた。
だってしょうがないだろう。こんなに可愛くパンを差し出されてしまったらさ。
ああそうだ。私はやっぱり、くるみに弱い。
「美味しい?」
「ん」
むぐむぐと咀嚼しながら答えると、くるみはまたしてもにっこりと笑った。
本当はわかっている。顔の綺麗な男に見とれることはあっても、くるみの心は私のものだ。
それでも、あの魅惑的な瞳が他の男を映すだけで不快になる。
私は時折、自分のこの独占欲をもてあます。まったくいい年をして、困ったものだ。
***
まず、バスでマルシェへ繰り出した。
到着したのが九時近くなってしまったためか、マルシェは混み過ぎてもいず、さりとてさみしくもなく。見て回るにはちょうどいい人出だ。
市場の中にカフェがあり、そこでしぼりたての生ジュースをいただいたあと、また市場内をうろついた。新鮮な野菜や果実は色がきれいだから、目にも楽しい。
オレンジでも一つ買うかい、と言いかけた私の指を、くるみがいきなり掴んだ。
なに、と見下ろすと、いたずらな瞳とぶつかった。
ねえ、覚えてる?と瞳は尋ねる。もちろんだ、と瞳で答える。
あの時のように、くるみの手から指を引き抜き、一本ずつ絡めるようにつなぎかえた。ふふ、とくるみが小さく笑う。
「手をつないで歩くなんて、久しぶり」
くるみの言うとおりだ。正体を知られてしまってからというもの、日本ではこうして手をつないで歩くことが難しくなってしまった。
国内の街中では、髪を結んだりサングラスをかけたりするくらいではごまかせないだろう。
オールマイトの身内を狙うヴィランはまだいるだろう。身の安全のためとはいえ、くるみには相変わらず不自由な暮らしをさせていると思う。
手をつないだまま市場を出て、有名なFOLの丘に向かった。丘の上から望むヌメアの景色はガイドブックそのままで、来てよかったねと二人で顔を見合わせ、笑った。
コティア広場の近くにあるレストランで、メラネシアン料理を食べた。
メニューは海老をココナッツミルクで蒸し煮したものや、タロイモとハヤトウリのグラタン。鹿のステーキなどなど郷土食の強いものが多い。
どれも洗練されていてうまかったが、デザートは私には少し甘すぎた。
ランチの後は大通り沿いの免税店へ向かった。
くるみは自分の化粧品を数点と、『母に』と、クラシカルな香りの香水を一つ買った。
フランスの有名メゾンのその香りは、落ちついてはいるが白い花のブーケのような華やかさだった。くるみによく似た顔立ちのあの婦人に、きっとよく似合うことだろう。
「これ、郵送できるかな?」
「いや、成田から家に帰る時、君の実家に寄って直接渡そう」
「え?」
「私の正体を知って、君のご家族も驚いただろうからね」
「うん……でも特に何も言われなかったよ」
「……そうか」
あの母親ならそうかもしれない、とひそかに思った。
かつて私がくるみの家に挨拶に行ったときも、大切な娘を奪っていく私に、娘をお願いします、と頭を下げてくれたひと。
だが、何も言わないからと言って、心配していないというわけではないのだ。
「だったらなおさら、ふたりが元気なところを見せて安心させてあげないとね」
「……ありがとう」
私の左手をきゅっと握って、くるみが目をうるませる。それをたまらなく愛しく感じて、思わず彼女を抱き寄せた。
「ちょっと、いま昼間だし、ここ人多い!」
「ここはフランス領だよ。日本と違って、カップルが道端でキスしてるくらいなんてことないさ。それにね、この樹の下でキスした二人は幸せになるんだって」
頭上のニアウリの樹を指してそう言った。
ニアウリはニューカレドニアを代表する樹木。白い樹皮に覆われた幹が特徴で、ユーカリに似た爽やかな香りがする。
アロマテラピーにも使われ、呼吸器に作用し、抗菌や鎮痛などの効果もあることから、この島では昔から重宝されている……とガイドブックに書いてあった。
「だから、する?」
「……しない……だって人が見てるじゃない」
と、くるみは頬を染めうつむいた。
今朝も思ったが、こういうことに関してはくるみはいつまでも初心だ。
だが一つ突っ込ませてもらえば、私とくるみが初めてキスをしたのは、どしゃぶりの恵比寿の街中だった。人通りはこのココティエ広場の比ではない。
けれどそれを言ったらきっとくるみは顔を真っ赤にして怒るんだろう。目に浮かぶようだ。
いつもなら気づかない些細なあれこれに幸せを感じるのも、旅のなせるわざのひとつかもしれない。
愛は日常や生活に流されがちだ。その先にあるのは倦怠の日々。だからこそ、こうして環境を変えて風を入れることが、きっと必要なのだろう。
***
バスを降りたとたん、強い陽光に襲われた。冬とはいえ、南国の昼さがりだ。日差しは強い。
それでも、浜辺を通って帰りたい、というくるみの希望を組んで、シトロンビーチに沿って二人で歩いた。
「本島の海はそれなりって感じだね」
「ン。それは認める」
くるみの言にはうなずくしかない。シトロンビーチは汚れてはいないが、とりたてて美しくもなかった。
おそらく、海の透明度では沖縄や国内の離島に数歩劣るだろうと思う。
そのせいなのか、季節のせいなのか、ビーチで遊ぶ人はまばらだ。
砂浜で波と戯れる地元の子供たちと、私たちのような旅行者が数人。そのほかには日焼け目的のコーカソイドの女性が数人、シートを敷いて寝そべっているくらいだろうか。
だが彼女たちの姿がしっかり見える距離に来たとき、私は心の中でひゅうと口笛を吹いた。
ニューカレドニアはフランス領。フランスのビーチは、かつてトップレスが多いことで有名だった。
ニース辺りでは減少の一途をたどっているらしいが、ここニューカレドニアでは、トップレスの女性は健在らしい。
若く美しい女性が豊かな胸をさらけ出している姿は、やはり壮観だ。
薄い色のついた眼鏡をかけているとはいえ、あまりじろじろ見るわけにもいかない。未練を残しながらも、さり気なく目を逸らした。
「ねえ、マイトさん。今、どこ見てた?」
「……海」
「嘘。ぜったい嘘! 女の人たちのこと見てたでしょ」
「見てないよ」
「だって、あの黒髪の人のこと超見てた!」
額から汗が噴き出した。相変わらず、こういうことには鋭い。
――確かに、そのブルネット美人のことは見てたよ。仕方ないじゃないか。私が若い頃に世界一の美女と言われ一世を風靡した、ハリウッド女優にそっくりだったんだから――などと言っても、『誰それ』で返されることだろう。
ジェネレーションギャップに私が打ちのめされるだけだ。
「見てたというか……目に入ってきたと言うか……」
「さっき、すっっっごいエッチな顔してたから。すけべじじいって感じだったから!」
「やきもちやきだなぁ、くるみは」
ふざけて返すと、大嫌い!という叫びと共に、きゅっと左わきをつねられた。
「痛いよ! そこはやめろっていつも言ってるだろ。まったく、躊躇なく弱点を攻撃してくるのは、ヴィラン以外では君くらいだからな!」
そう訴えても、くるみはふくれっ面で横を向く。
本当にくるみはわがままだ。自分だって、フランスの至宝もどきに見とれていたというのに。
「あのね。私も男だからさ、見せてくれるものはしっかり見るよ」
「最低!」
「でも、私には君だけだよ。知ってるだろ?」
ぐいと身体を引き寄せて、強引に口づけた。
身をよじって逃げようとするが、逃がさない。閉じようとした口に無理矢理舌をねじ込んで、口蓋を舐めてから舌を絡ませた。
「ふ……」
溜息と共に、かくりとくるみの腰がおちる。
快楽を辛抱できないところをかわいく思いながら、左手でくるみの腰を支えた。互いの唇の隙間から、一筋の液体と吐息がこぼれる。
このままこの子を食べてしまいたいと思いながら、甘い口腔内を思う存分堪能した。
「……ばか……」
唇が離れたとたん、悪態をつかれた。
けれどくるみは本気で怒ってはいない。顔を見ればわかる。赤くなっている眼の端が、やけに色っぽい。
うん。おじさん今夜も頑張っちゃうぞ。
「もう……嫌い……」
「でもさ、ニアウリの樹の下でキスしたから、君は私と幸せになるしかないんだぜ」
えっと、くるみが慌てたように上を向く。私たちの頭上には、この島に多く生息しているニアウリの樹が枝を大きく広げている。
な、と笑うと、また小さな声でばか、と返された。
こういう甘い声でつかれる悪態は、意外に悪くないもんだ。
2016.11.2