3.ヨーロピアン・ルーレット

 喫煙ルーム以外は禁煙のはずのカジノ内は、なぜか煙草の匂いがした。ざわざわとした喧騒と煙草の匂いは、どこか日本のパチンコ屋を彷彿とさせる。

 グランドテール島には政府公認のカジノが二つ。その一つが、わたしたちが泊まるホテル内にある。

「ホテルにカジノがあるなんてラッキーだよね」

 そう言ってにこにこしていたマイトさんだが、彼が本当に知らなかったのかは怪しいものだ。なにしろマイトさんは、自分の希望をさりげなく通すのがとてもうまいのだから。

 抱いていた想像に反して、カジノの中はカジュアルな雰囲気だった。
 ガイドブックには正装をと書かれていたが、そんな人などほとんどいない。サンダル履きやハーフパンツ姿はさすがにないが、スロットやポーカーのテーブルに群がる人たちの大半が、アロハシャツにチノパンという軽装だ。

 わたしは隣に立つ背の高いパートナーを見やった。
 彼は襟付きの黒いシャツの上にさらりとジャケットを羽織っている。すっかり見慣れたオールバックと眼鏡の組み合わせは、今日の服装にとてもマッチしていて、最高にカッコいい。
 わたしは赤のノースリーブドレス。いつものかわいいデザインではなく、少し大人っぽい身体のラインが出るものだ。タイトなスカートの裾に、ごく少量のフリルがあしらわれている。その上に薄手の銀のストールを羽織った。
 これらを選んだのはマイトさんだ。 

 痩せるなと言うくせに、彼はこうしたほどよくセクシーな衣装をわたしに着せたがる。身体のラインが出るデザインは、背中やお腹の肉を見事に拾ってしまうというのに。
 まったく男のひとの「女性はぽっちゃりがかわいい」という言葉ほどアテにならないものはない。
 結局のところ、マイトさんの言うぽっちゃりした女性とは「太めの女性」ではなく「グラマラスな女」なのだ。
 胸や腰、太腿にはむちりと肉がついているが、ウエストやふくらはぎや足首はきゅっと締まった、性的魅力にあふれた体つき。そういう身体は、よほど恵まれた体質でもない限り、それなりのトレーニングをしないと手に入らない。
 本当にどこまでも勝手なものだ。それでもわたしは彼が好きなのだから、仕方がないのだけれど。

「とても似合ってる」
「ありがとう。……でも、わたしたちちょっと浮いてない?」
「ン? ああ」

 マイトさんが納得したように片方の眉をあげた。

「正面に大きな扉があるだろ? あの扉の先に行けば大丈夫だよ」

 たしかに、奥に大きな扉が見える。
 扉の脇にはドアマンが立っていて、近寄ると、恭しく頭をさげられた。

「どうぞ」
 
 促され、扉の向こうに身を滑らすと、そこは映画や舞台で見たようなカジノの世界だった。扉の中と外では、香りや雰囲気が全然違う。
 湧き上がる期待感を抑えきれず、マイトさんの包帯だらけの右手に腕を絡めた。彼は軽く眉をあげたが、まんざらでもなさげに笑ってくれた。

「わたしね、スロットが得意なの」
「え? スロットなんていつやったの? パチンコ屋とかにあるあれかい?」
「違う違う。わたしね、カジノでメタリックカラーのスライムの剣や鎧をゲットしたこともあるのよ」
「……くるみ……それは有名RPGの世界のカジノでの話だな?」
「そうだけど、似たようなものでしょ」

 まったくと天井を仰いだマイトさんを無視して、キャッシャーへ向かった。そこでチップとスロット用のコインを手に入れて、いざ勝負。
 スロットなんて、ゲーム内のそれと同じだろう。コインを入れてレバーを引けばそれでOK。ツキがすべてを支配する。それだけ。

「私はルーレットに挑戦してこようかな」

 マイトさんが嬉しそうにつぶやいた。
 ルーレットはカジノの花形だ。映画でもみたことがあるが、一度本物を見てみるのも悪くない。スロットに走りたい気持ちを抑えて、わたしは彼のうしろについて歩いた。
 ところがそのルーレットのディーラー席を見た瞬間、わたしは不快な気持になった。
 シトロンビーチでマイトさんが鼻の下を伸ばして見つめていた黒髪の美女が、そこに座っていたからだ。

 ヒュウ、とマイトさんが小さく口笛を吹いて、小さく女性名と思しき単語をつぶやいた。
 嫌だな、と思った。短い口笛が出るのは、思いがけないラッキーに出くわした時の彼のくせ。

「なに?」
「昔に流行った女優の名前さ。あのディーラーの女性がね、とても似てるんだ」
「知らない」

 知らないけれど、面白くない。目の前のディーラーは、出るところがババーンと出て、締まるところがぎゅうっと締まった、マイトさんが好みの肉感的な美女だった。

「ま、君はそう言うだろうと思ったけどね」

 ふうん、とだけ返したが、やっぱり面白くない。
 明るい太陽の光の下で見た彼女も綺麗だったが、カジノのライトのもとで見る彼女はとても妖艶で美しかった。
 彫りの深い顔立ちと、濃い眉と。濃いグリーンのタキシードがブルネットによく映えている。

「さて、私はルーレットを楽しむよ。君も一緒にやろう」
「やらない」
「どうして?」
「ルールがよくわからないからやりたくない」

 あの美女がディーラーを務めるルーレットでは遊びたくなかった。自分でも子供っぽいと思うけれど、嫌なものは嫌なのだ。

「ルールなんて簡単だよ。私もそう詳しくはないけど、教えてあげるから」
「やらないもん……わたし、スロットに行ってくる」
「どうしてもかい?」
「どうしても」
「ここのセキュリティは万全だから大丈夫だろうけど、気をつけろよ。なにかおかしなことがあったら、すぐに私のところに来るんだぞ」
「大丈夫。小さい子じゃないんだから」

 じゃあ私も一緒にスロットをやるよ、とは言ってくれないのかとさみしく思った。
 わかっている。わたしにルーレットをしない権利があると同様に、彼も好きなことをやる権利がある。
 頭では理解できるその理屈を、感情が理解しようとはしない。
 そんなにあの美女と遊びたいのかと、ついつい邪推をしてしまう。

 ばか。マイトさんの浮気性。ちょっと綺麗なひとだからってニヤニヤしちゃって。マイトさんなんか、美人ディーラーに持ち金ぜんぶ搾り取られてしまえ。
 心の中で悪態をつきながら、わたしはスロットへ向かった。

 スロットはコインを投入してバーを下ろすだけの、簡単なものだ。操作が簡単なだけに『する』のも早い。あっという間に手持ちのコインが半分になってしまった。

 大丈夫、ゲームでは五回目くらいから当たりだしたもの。そう自分に言いきかせながら続けたものの、現実はロールプレイングゲームのカジノのようにはうまくいかない。電源を切ってやり直すこともできない。失ったコインはもう戻らない。
 結局、すぐに手持ちのコインがなくなってしまった。

 新たにコインを購入するのも癪なら、こんなに早くルーレットのテーブルに戻るのも癪だ。
 仕方なくバーカウンターでピニャコラーダを頼み、それを飲みながら近くのポーカーのテーブルを眺めて時間をつぶした。
 けれど、異国の地でひとりそんなものを見ていても面白いはずもない。声をかけてくる男もちらほらいたが、それに応じるつもりもない。
 応じるどころか、誰かに声をかけられるたびに、自分がどれだけマイトさんを好いているのか実感させられることが常だった。
 それを悔しく思いながらも、わたしの足は、やっぱり彼のいるところへと向かってしまう。

 すると、ルーレットのところにちょっとした人だかりができていることに気がついた。
 フランス語と英語が飛び交うカジノの中で、耳をすませて音を聞く。フランス語はさっぱりだけれど、英語の聞き取りくらいならなんとかなる。

「アメリカンか?」
「いやジャパニーズらしい」
「あの風貌でジャパニーズ?」

 アメリカ人のような風貌の日本人、というやりとりにいやな予感がした。
 すみません、と日本語で言いながら、人だかりをすり抜けて前に出る。
 
 ルーレットのテーブルについているのは、金髪の背の高い男と美人ディーラーのふたりだけ。
 勝敗がついたのか、ディーラーが配当らしきチップを金髪の男の方に押しやる。

 まるで映画のワンシーンのようだ、と思った。
 人だかりの中央にいる美しい女と、雰囲気のある背の高い痩せた男。
 周囲がかたずをのんで見守る中、男はひょうひょうとした様子で新たなチップを台に置く。
 彫りの深いその男は、もちろんわたしのマイトさん。彼はかなりの額を勝ち続けているようだった。

「ずいぶん調子よく勝ってるようだな」
「ああ。最初はマーチンゲールだったが、途中からココモのダズンベッドに切り替えたようだ」

 周りのオジサンたちの会話が聞こえてくるが、ただでさえ英語の聞き取りに必死なのに、専門的な言葉を取り入れられるとなにがなんだかよくわからない。
 わたしにわかるのは、このカジノがヨーロピアンルーレットを使用していることと、アメリカンルーレットとヨーロピアンルーレットの違いくらいのものだ。

 アメリカンルーレットは0と00の二種類の0があるが、ヨーロピアンルーレットには0が一つしかない。ホイールの数字の並び方も違うらしいが、そこはたいして重要ではない。
 二つのルーレットの違いで重要なのはハウスエッジだ。0が一個少ないだけだが、ヨーロピアンルーレットのハウスエッジは2.7パーセント。アメリカンルーレットのそれは5.3パーセント。つまりヨーロピアンルーレットはアメリカンルーレットより勝ちやすい……と、少し前にマイトさんが語っていた。
 だからといって、まさかここまで大勝しているとは思わなかった。
 わたしなんて、あっという間にすってんてんになってしまったというのに。

 ゲームを見ているうちに、わたしにもなんとなくルールのようなものがわかってきた。
 オジサンたちの話していたダズンベッドとは、レイアウト上の「1〜12」「13〜24」「25〜36」にそれぞれ賭けるやり方だろう。
 そういえば、わたしとマイトさんには12本の薔薇……ダズンローズが深く関係している。その12にちなんだ賭け方をするなんて、心憎いことをするではないか。

 そしてやっぱり、このひとはオールマイトなのだと思う。
 度胸も度量も、そして人を惹きつけずにはいられない魅力も。
 多くのチップを惜しげもなく賭け、負けても臆さず、次はその倍のチップを場に置いていく。
 勝っても負けても、涼しい顔でゲームを楽しむその余裕。
 マイトさんはいつもそうだ。どんな姿、状況であれ、周りの視線ばかりか心をも奪っていく。

 カリスマ。天性の人たらし。そんな言葉が、本当に彼にはよく似合う。
 心なしか、海外女優によく似たディーラーも、マイトさんに興味を持っているようだった。ギャンブラーとしての彼にではなく、男性としての彼に。
 なんとなくだが、わかる。使い古された言葉だけれど、女の勘だ。

 と、その時、マイトさんがわたしに気づいて手を挙げた。
 それを認めた美人ディーラーが、濃いめの眉を少し顰める。
 この瞬間、勝ったような気持ちになってしまったわたしは、本当に小さい女だと思う。

 そんなわたしの気持ちに気づきもせず、マイトさんが「ちょっと待ってて」と、口パクで合図してきた。
 それに小さく頷いたわたしの顔は、少し勝ち誇っていたかもしれない。自分のこういう『女々した』部分、ほんとはあんまり好きじゃない。

 わたしの心に生じた小さなささくれに気づかないマイトさんは、手元にほんの少しのチップだけを置いて、残りを赤の7にすべて賭けた。
 どうみても今までの賭け方とは違う。一点のみに賭けるストレートベッド。
 37分の1なんて、そうそう出るはずもない。配当は高いが、たいへん勝率の悪い賭け方だ。 
 ここまで勝っていて、どうしてそんなバカげた賭け方を、と、彼のまわりのざわめきがまた一層大きくなった。
 
 間髪おかず、ベルの音が二回鳴った。賭けがはじまる。
 美しいディーラーが小さく息をついてから、にこりと笑んだ。

 ルーレット回転を始める。はじめ緩やかに、やがて数字が読み取れないほどのスピードで。
 長く細い指が回転する円盤に向け、小さなボールを投げ入れる。

 そして、あっという間に、勝敗はついた。

***

「負けちゃったなぁ」

 今にも降ってきそうな満天の星を見上げて、マイトさんが楽しげに言った。
 広いルーフバルコニーの正面には、ヤシの木と黒々とした海が広がっている。海は空の色によって大きく自身の色を変える。
 蒼天の下ではエメラルド色に輝き、曇り空の下ではグレイに、朝日や夕日に照らされれば見事な朱色に、そして日が沈んだ後は空の闇より一段暗い漆黒に。
 空に影響されて自らの色を変える海はマイトさんに振り回されているときのわたしみたいだ、と、ひそかに思った。

 海から風が吹き付けてくる。南国とはいえ季節は冬。日が落ちた後の風はとても冷たくて、わたしは銀のストールを胸元でかきあわせる。
 すると、寒いかい、という声とともに、うしろからそっと抱きしめられた。

「さっきの勝負、惜しかったよね」

 甘えるようにそう言った。
 最後の勝負は本当に惜しかったのだ。ボールが吸い込まれたのは黒の28。つまりは赤の7の隣だ。
 大金はのがしてしまったが、マイトさんが手元に残したチップは、最初に購入したのと同じだけの枚数。つまり彼は損も得もせず、ギャンブルのスリルと興奮だけを楽しんだというわけだ。
 それもまた、このひとらしいやり方だと思う。

「ン。でも楽しかったよ」
「ディーラーが綺麗だったし?」
「まあ、そうだね。でも、抱きたいのは君だ」

 するり、とドレスと下着のストラップを落とされた。むき出しになった胸元を持てあそびはじめた慣れた手に、身体がびくりと反応してしまう。

「や……隣の人が出て来たらどうするの……」
「出て来やしないさ。お隣さんはハネムーナーだったからね。どうせ同じことをしてる」
「……それでも、声がきこえちゃったら恥ずかしい……」
「君が我慢すればいいだけの話だろ」

 胸元から離れた彼の長い指が、わたしの頬に触れた。
 頬から唇へ、そしてまた頬へ。ゆっくりとじらすように触れられて、体の芯が熱くなる。むき出しの胸元をストールで覆い隠そうとしたら、それより早く動いた大きな手に、きゅっと先端をつままれた。

「んんッ」
「ほら、声を出したらお隣に聞かれてしまうぜ」
「ば……ばかぁ……」

 満足そうに細められた目は、もはや捕食者のそれだ。被食対象であるわたしは、恥ずかしさに目を逸らす。

「くるみ。目は逸らさない」

 ぴしりと言われて、また、背中を甘いなにかがじわじわとはしる。

 マイトさんがうっすらとまとっていた甘くてスパイシーな香りが、さきほどよりも強く漂いはじめた。
 彼は私を抱くとき、体温が少し高くなる。彼の熱で温められた少量の香水がじわじわと拡散されてくるこの瞬間が、わたしはとても好き。

 胸元にキスを落とされて、小さな叫びと共に天を仰いだ。
 頭上には漆黒のベルベットに散りばめられたラメのような星空が広がっている。南の空にひときわ明るく輝く四つの星は、南十字星だろうか。

 こうして今夜もわたしは、彼の手の中に堕ちるのだ。

2016.11.13
月とうさぎ