4.珊瑚礁の島

「ねえ、マイトさん。すごい!」

 ヌメアから旧式の飛行機に揺られること三十五分。たどり着いたウベア島の海を見たくるみが、歓喜の声をあげた。
 本島であるグランドテールの海辺はよくあるリゾートの域を出ないが、離島のビーチは世界有数の透明度を誇る。
 しかもこのウベアは珊瑚礁でできた島だ。その上、近海の環礁は南太平洋で最も美しいとも言われている。ここが『天国にいちばん近い島』と呼ばれるゆえんのひとつだ。
 透き通る海の中で色とりどりの熱帯魚があそぶ光景は、さぞかし圧巻だろう。この眼で見ることができないのが、とても残念だ。

「海の透明度が高い。砂浜も本当に真っ白だな」
「ほんとね。でも……シュノーケリングツアー、本当にわたしひとりで行ってもいいの?」
「ああ。後ろに乗っていた家族連れも参加するみたいだし、せっかく来たんだから行っておいで」
「……ごめんね……」
「謝ることはないよ。この島に来たがったのは私だし。ここの海は、ぜひ君に体験して欲しいんだ。そして、後で話を聞かせてくれないか」
「うん」
「私はバカンスらしくゆっくり過ごすさ。ビーチでくつろぎながら、美しい海と砂浜を眺めているだけで癒される」
「あっ、ほら。あそこにマイトさん憧れのハンモックがあるよ!」

 せめて気分を変えようと思ったのだろう。くるみがヤシの木の間を指差した。
 たしかにそこには白いハンモックがつるされていた。だがどうみても、あれに私は入れそうにない。無理やり乗っても、足が木にぶつかってしまうだろう。
 人並み外れて身長が高いというのも、不便なものだ。

 飛行機で一緒だった家族連れの男の子が、くるみと同じようにハンモックを指差してはしゃいでいる。それに応える女の子の声も、また明るい。
 おそらくこの子たちの両親は、私の正体に気づいている。二人の大人と国内線の空港で目が合った時、どちらにも驚いた顔をされたからだ。
 まずいかなと思ったが、あちらは何も言わなかった。ごくごく私的な旅行であることに気づき、そこを考慮してくれたのかもしれない。
 大人の対応をしてもらえたのが実にありがたかった。

***

「ねえ、どう?」

 水着に着替えたくるみが、私の目前でくるくると回る。

 自分のしっぽにじゃれつく子犬じゃないんだからさ、そんなふうに回らなくてもいいんだよ。君は普通に立っているだけでもかわいいんだから。
 だいたい、可愛い水着に着替えても、すぐにその上からシュノーケリング用のウエットスーツを着込むのだから世話はない。
 もちろん、そんなことを口にするのはトラブルの元。黙っているにしくはない。

「よく似合うよ」
「やっぱり? わたしもそう思ってたの!」

 くるみ、君はホントに相変わらずだな。そういう自信家すぎるとこ、あんまりかわいくないからな。

「ホラ。早速ツアーが始まるんじゃないのか? あっちで集合かかってるぜ」
「ホントだ。じゃあ、ちょっと行ってくるね」
「ああ。楽しんでおいで」

 くるみが身をひるがえして駆けていく。

 その後ろ姿を見送ってから、プライベートビーチにある小さなバーへと足を向けた。
 普段はあまり飲酒をしないし、職場では下戸で通している私だが、ここはせっかくのリゾートだ。アルコール度数の低いものなら、構わないだろう。
 白ワインをオレンジエードで薄めたカクテルを、一つ頼んだ。

 棕櫚の葉でできたビーチパラソルの下で、カクテルと本を片手にチェアでくつろぐ。白い砂浜にさんさんと降り注ぐ、日差しの反射がやけに眩しい。

「太陽がいっぱいだな」

 有名な映画を思いだしながら、漏らした呟き。だがすぐに私はいやいやと首を振る。
 縁起でもない。たしかあの映画は、今のセリフの直後に主人公が刑事に連行されて終わったはずだ。
 束の間の美酒と、束の間の幸福。
 冗談じゃない。私のバカンスをそんなものにしてなるものか。

 それにしても、なんという美しい光景だろうか。
 ギプスはかろうじてとれたものの、私の右手首には未だ小さなシーネとそれを固定する包帯が巻かれている。本当に残念だ。この怪我さえなければ、私の身体でも浅瀬でのシュノーケリングくらいは参加できただろうに。
 まあ、そういうこともすべて踏まえて、南の島に来たがったのは私なのだ。
 せめて今は、休日を無為に過ごすという贅沢を楽しませてもらおうではないか。そう心の中で呟いて、カクテルグラスを傾けた。

***

 いつのまにか、うとうとと眠ってしまっていたようだ。

 眼を擦りながら顔をあげる。と、くるみが現地人らしき男と楽しげに語らっている姿が飛び込んできた。

 シュノーケリングツアーはもう終わったのか。だからといって、彼女は何をしてるんだ?
 相手の男は、整った顔に髭を蓄えたワイルド系の中年男だ。きっとくるみは、ああいうタイプも好きだろう。
 出会ったばかりの頃、くるみは私よりもエンデヴァーの方が好みだと言っていた。エンデヴァーとあの男、少し似ている気がする。どちらも体格が良くて、髭を生やしたワイルド系のいい男だ。
 くるみは男から、バケツのようなものを受け取った。あれはいったいなんだろう。

「マイトさん!」

 私が見ていることに気づいたくるみが、バケツのようなもの振り回しながら駆けてくる。
 そんなものを振りまわしたりして、危ないじゃないか。
 今日の君は本当に子犬みたいだな。普段は気まぐれな子猫みたいなのに。

「シュノーケリングね、楽しかったよ」
「良かったな」
「綺麗な色のお魚がたくさんだった!」

 子どもみたいにはしゃぐなよと言いかけて、さすがにやめた。嫉妬のあまりやつあたりをするなんて、あまり褒められたものではない。

「でね、連れが怪我してツアーには参加できなかったって言ったら、インストラクターがこれを貸してくれたの」

 よく見ると、くるみの持つバケツもどきの底には透明なレンズがついていた。これを使って水中を覗くと、よりよく海中が見えるらしい。
 なるほど、さっきのやりとりは、これを借りるためのものか。
 嫉妬深い自分を、少し恥ずかしく思った。やきもち妬きのおっさんなんて、実に格好悪いではないか。

「ちょっとなら海にも入れるよね?」
「右手を海水につけないよう気をつければ」
「浅瀬なら平気かな。さっきね、スタッフから餌付け用のパンをもらったの。お魚にあげてもいいって」
「へえ」
「だから、マイトさん。行こう?」

 くるみに誘われるがまま、海に入った。
 透明度の高い綺麗な海だ。浅瀬でもたくさんの魚がいる。小さくちぎったパンを入れると色とりどりの熱帯魚が集まってくるのが見えた。

「すごいな」
「ねっ。凄いでしょ。お魚かわいいね」

 そうやって子供みたいにはしゃぐくるみの方が、魚なんかよりずっとかわいい。
 やっぱり来てよかったと、この旅行中何度も内心で呟いた言葉を、ひそかにかみしめた。

***

 ホテルの敷地内に作られた、南洋特有の木々を有する散歩道。ここから望む海と白砂のコントラストも、やっぱり素晴らしい。

「ランチ、すごく美味しかったね」

 くるみがつぶやいた。
 供された白ワインで酔ったのか、やわらかい頬が淡いピンクに染まっている。
 彼女がご自慢の水着の上に羽織っているパーカーと同じ色だ。
 
 くるみの言うように、豊かなる海を眺めながらの昼食は、たしかに美味だった。

「わたし、ヤシガニ食べたの初めて」
「ああ、あれは変わっててうまかったね」
「牡蠣も美味しかったよね。ぷりぷりで」
「そうだね」

 痩せたい痩せたいと言っているわりに、くるみはけっこうよく食べる。
 なんでもおいしそうに食べるくるみといると、私もなんでもおいしく食べられる気がするから不思議なものだ。
 胃袋をなくしてからくるみに出会うまでは、あんなに食事が味気なかったというのに。

「ねえ……マイトさん」

 きょろきょろと周囲を見回してから、くるみが催促するように私のパーカーの裾を引いた。
 他の観光客の姿は見えなかった。マリンリゾートを楽しんでいるのだろう。
 二人の他には誰もいない散歩道に、潮騒だけが小さく響く。 

「なんだい?」
「これ」

 頭上を見上げたくるみの目線を追った。視線の先に生い茂るのはニアウリの枝。
 ああ、そういうことか。
 要望に応えるべくそっと屈みこむと、くるみは少し恥ずかしそうにふふっと笑った。

「こう?」
「うん」

 うなずいたくるみの顎に手をかけて、ニアウリの樹の下でゆっくりと口づける。
 誰もいないことをいいことに、触れては離れ、離れては触れるだけの優しい口づけをくりかえした。
 合間に「だいすき」と漏らしたくるみに、「私もだ」と応えてまた唇をあわせる。この口づけが先ほどまでのものとは違い深く激しいものになってしまったのは、至極当然のことだろう。
 まったく。くるみは私を煽るのが、ひどくうまい。

 くるみの口腔内と反応を好きなだけ堪能し、そっと唇を離す。と、くるみは大きく息をついてから、また笑んだ。

「ニアウリの下で、いっぱいキスしちゃったね」
「まあね」
「これなら絶対幸せになれるかな。伝説みたいに」
「ああ、あれね。出まかせ。私が考えたんだ」
「え?」
「あの時はキスしたい気分だかったからね、とっさに伝説をでっち上げたんだ」
「ひどい。幸せ気分だったのに!」

 全部だいなし!と叫びながら、くるみが私のわき腹をばすばすと叩く。
 痛い……痛いけれども、今回ばかりは私が悪いので仕方ない。

「マイトさんの嘘つき! オールマイトは嘘をつかないんじゃなかったの?」
「今は八木俊典だからいいんだよ。それに」
「それに?」
「ニアウリの樹の下でキスした私たちがこれから先もずっと幸せに寄り添っていけたなら、私の言ったことも嘘じゃなくなるだろ」
「……相変わらず強引な意見ね」
「まあね。人の本質はそうそう変わるもんじゃない」

 するとくるみは、いつものようにふくれっ面をつくる。いつみても、鑑賞用の小さいふぐみたいだと思う。まったく、怒るようすも愛らしい。

「だいたいマイトさんはひどいのよ。昨日だってあのナントカとかいう女優に似たディーラーに鼻の下を伸ばしちゃって」
「私は別に鼻の下なんて伸ばしてなかったと思うけど」
「伸びてたもん。いつもの五倍くらい伸びてた」
「顔がそんなに伸びるわけないだろ。君も大概、嫉妬深いな」
「マイトさんには言われたくないです」

 ……まあ、それもそうだけど、私たちの場合お互い様のような気もしないでもない。私たちのようなカップルを、なんていうのか知っているかい?

 バカップル。

 私と君はね。きっとそれだよ。
 でもね、ここは日常を離れたリゾートだ。だから今日は、それに徹することにする。

「昨日のディーラーより、君の方がずっとかわいいよ」
「そうよね。あっちはハリウッド女優に似てるかもしれないけど、わたしだって日本の女優さんに似てるもんね」

 また、それか。
 緑谷少年に指摘されてからというもの、くるみはその女優に似てると何度も何度も繰り返す。
 はっきり言うけど、たいして似てない。

 くるみの方がずっとかわいい。
 まず目。くるみのほうが眼元がパッチリしているし、まつ毛も長い。なにより目力が違う。あの眼で睨まれると、ちょっとぞっとするからな。甘えるように見上げられても、かなりぞくっとするからな。
 鼻だってくるみの方が高いし、唇はだってさくらんぼみたいだし、肌だって綺麗だ。滑らかでやわらかくて、触れると吸いつくみたいなんだ。
 まあこれは、あばたもえくぼってやつかもしれないけれど。

「でもさ……」

 と、くるみが少しさみしそうな声を出した。

「今日で終わりだね」
「……」

 くるみの言うとおり、明日はもう帰路につかなくてはならない。お昼の便で成田へ向かう。私たちの短いバカンスも、もう終わりだ。

「マイトさん」
「なんだい?」
「楽しかったね」
「うん」
「海も夜空もとても綺麗だった…知ってる? 美しい物を見ると、人はそれを愛する人と一緒に見たいと思うものなんだって。わたし、あの星もあの海も、マイトさんと一緒に観ることができて良かった」
「……うん」
「わたし、とっても幸せ」

 それはこっちの台詞だよ。
 君と過ごせる時間が、私にとっての宝物だから。

「どうしたの?」
「なんでもないよ」

 訪ねてきた時の顔があんまり可愛かったから、かたちのいい鼻をつまんでやった。

「いたい!」
「君もさっき私のわき腹をたたいただろ? そのお返しだ」
「だってあれは、マイトさんが嘘をついたから!」
「あれはね、嘘だけど嘘じゃないって言ったろ」

 だってさ、オールマイトはぜったいに嘘をつかないんだよ。
 ニアウリの話は私が真実にしてみせる。私たち二人が幸せになれば、あの伝説はほんとの嘘に変わるんだ。
 だからくるみ、これからもっともっと幸せになろうな。

 ニアウリの下で口づけた我々に、これからも神の祝福がありますように。

2016.11.22
月とうさぎ