この身体になってから、寒さにはめっきり弱くなった。襟の隙間に入り込む寒風を阻止すべくマフラーをぐるりとまき直し、家路を急ぐ。
こんな日は、職場から家までの距離が近いことがありがたい。ビル同士をつなぐこの連結ブリッジを渡れば、我がマンションの入り口はすぐそこだ。
本日のみやげはバニュルスの赤。本当はバーボンにしたいところだけれど、残念ながらくるみはウイスキーがあまり好きではない。
彼女の基準でいう「かわいいお酒」ではないからだそうで、酒にかわいいもなにもないだろうと思うのだが、ほとんど飲まない私の嗜好に合わせるよりは、彼女に合わせたほうが合理的というものだ。
いずれにせよ、バニュルスならば及第点をもらえるだろう。南仏はルーション地方で作られる、深く美しいガーネット色をしたフルーティな甘口ワイン。カシスが好きなくるみは、きっと気に入る。
そしてこの酒は、バーボン同様、チョコレートとの相性がいい。
一緒に暮らして初めて迎える、バレンタインの夜にはぴったりだ。
「ただいま」
「おかえりなさい!」
「おっと!」
玄関を開けたのと同時に飛び込んできたのは、かわいいくるみの声……ではなく本人だった。
自分よりはるかに小さい身体をしっかり受け止め、危ないじゃないかと抗議した。
「だってマイトさん、オールマイトでしょ。わたし一人くらい支えられるでしょ。あれ? ねえ、それ、おみやげ?」
私の抗議をさらっと流し、みやげのワインに話題を変える辺り、目ざといと言おうか図太いと言おうか。
「ああ。今夜開けようかと思って買って来たんだ。これはね、南仏ルーション地方で作られた……」
「わー、ありがとう。ワインよね。すごい楽しみー」
ちゃっかりワインを受け取って、くるみはキッチンへと去って行く。
……最後まで話を聞いてくれよ。ちゃんと薀蓄も仕入れてきたんだからさ。それにただいまのキスくらいさせてくれてもいいだろう?
一方的に抱きついて、一方的に去っていく。くるみのこういうところは、実に気まぐれな子猫のようだ。
だが私の子猫は家庭的な一面もある。我が家のダイニングテーブルにはいつも、栄養バランスの整った食事が並ぶのだ。
今日はどうかな、とダイニングに続く扉を開ける。食卓にはビーフストロガノフとハート型のニンジン入りのミートローフ、蓮根とブラウンマッシュルームとベーコンのサラダと、オニオングラタンスープが並べられていた。
……なんだかいつもに比べて、彩りもバランスも悪い気がする。全体的に茶色くて、肉の比率がやや高い。
「今日はね、チョコレート色を意識してみました!」
なるほど、それで見事に茶色なんだな。バレンタインから連想したメニューなんだな。
いろいろと突っ込みを入れたいところだが、面倒なことになるとわかっているのでやめておく。これはくるみと知り合ってからの十か月で学習したことだ。
断じていうが、私はくるみの尻に敷かれているわけじゃない。余計な争いをせぬほうが、互いのためであるからだ。
「ハッピーバレンタイン!!」
くるみが私の前に立って、小さな紙袋を二つ差し出してきた。一つは白地に黒のブランドロゴが入ったもので、もう一つは表が黒、内側がショッキングピンクというコントラストの効いたもの。
白い方は見覚えがある。私の愛用している男性用オーデトワレを製造しているブランドだ。中身は想像通り、黒い蓋のトワレだった。
「ありがとう。そろそろなくなるなと思っていたんだ」
「うん。それよりも、もう一個のほう早く開けて」
せかされて、黒い紙袋に手を突っ込んだ。中に入っていたのは、リボンのかかった小さな黒い箱。
箱を開けると、小さな円柱状のケースが顔を出した。この形状に見覚えはあるが、使用したことは一度もない。
「……口紅?」
返事の代わりに、ふふ、とくるみが意味深に笑った。
本人は気づいていないようだが、こういう笑い方をすると、くるみはとたんに色気が出る。
頼むから他の男の前ではやってくれるなよと思ってしまうのは、私が嫉妬深いからなのか。
早く、とまたせかされたので、底の部分をくるりと回して中身をくり出した。
色は白みの強いイノセントなイメージのミルキーピンク。たしかにくるみに似合いそうな色ではある。
だが、口紅からかすかに甘い香りがすることに気がついた。この香りはチョコレート。
「あっ、これ、口紅型のチョコか!」
「かして」
くるみがずいとてのひらを突き出した。白くてしなやかなそれに、円柱形のチョコをはいと手渡す。
するといきなり、くるみはチョコを自分の唇に塗り始めた。どうやら普通のチョコレートよりも柔らかいらしい。驚くべきことに、うっすらだけれど色もつく。
「これはこうやって」
「うん」
「わたしごと食べるの」
やられた。
上目づかいでこちらを見上げるくるみの、なんと魅惑的なことだろう。もともとくるみの目元は印象的だ。先ほどの笑い方もそうだが、この無邪気な小悪魔から自然と滲み出る艶は、男の欲を駆り立てる。
「小悪魔め」
そう言いながらミルキーピンクのチョコレートが塗られた唇に、キスを落とした。甘い。本当に林檎風味のホワイトチョコの味がする。
「でもさ、くるみ」
「なに?」
「こんなふうにして一本ぶんを食べたりしたら、君の唇、荒れちゃわないかい?」
「……ムードないこと言わないで!」
ごめん、と笑ってそのままくるみを抱き上げた。
「えっ、なに? どうしたの?」
「ン。仰せの通り、チョコごと君を食べちゃおうと思って」
「ごはんは?」
「ごはんはあと」
「だって、冷めちゃう」
「大丈夫。君の作ったごはんは冷めても美味しいから。それより今は君がいい」
きっと甘くておいしいだろうな、と囁くと、くるみは恥ずかしそうに私の肩に顔をうずめた。
***
結局そのまま、私はバニュルスも食事もそっちのけで、くるみを食べちゃったんだよな。
「ねえ、なににやにやしてるの」
「にやにやなんてしてないさ」
「うそ、してた。超してた」
心地よい初秋の夜風を感じながら過去を反芻していた私を現実に引き戻したのは、寝室に入ってきたくるみの声だ。
あのバレンタインから一年半経ち、住まいも職場も変わったけれど、くるみは相変わらず気まぐれな子猫のようにかわいい。
「これをね、君に渡そうと思って」
外側が黒、内側がショッキングピンクの紙袋を差し出すと、くるみは目を丸くした。
「ここって、東京と大阪にしか店舗がなかったんじゃなかった?」
「直営店はね。でも期間限定でたまにこっちにも来るみたいだよ。見たら口紅チョコがあったから、買ってみたんだ」
「チョコレートの限定店舗って、バレンタイン時期だけかと思ってた」
「デパート側もいろいろ企画を考えるみたいだね」
ほら、と袋の中身をベッドサイドの小さなテーブルに広げた。
赤は木苺の香り、ローズが桃、ラメ入りのピンクは苺、濃い紫がさくらんぼ、そしてミルキーピンクは林檎。
「どれもかわいいね。さて、今夜はどれを君と一緒に食べようか?」
「……ばか」
「くるみ」
「なに?」
「あの頃の気持ちを、お互いずっと忘れずにいような」
耳元でそう囁くと、くるみはちいさくうんとうなずき、私の肩に顔をうずめた。
一緒に暮らして初めて迎えた、あのバレンタインの夜と同じように。
2017.02.14
2017 バレンタイン