「おかえりなさい」
せっかく早めに帰宅したというのに、キッチンでなにかと格闘しているようすのくるみはこちらを振り返ろうともしなかった。
こういう時は、六本木のアイランドキッチンが懐かしい。
現在の我が家のキッチンは、壁つきのL型。広くて使いやすいが、作業中の相手の顔は全く見えない。
せめて振り返るくらいしてくれよ、と小さな愚痴がこぼれそうになる。
それにしても、おかえりなさいの声と共にいきなり飛びついてくる日があるかと思えば、別のことに夢中な今日のような日もあって、うちの小悪魔はほんとうに気まぐれだ。
私に言い寄る女性はたくさんいたのに、どうしてこうも操縦しづらいタイプの女性を選んでしまったのだろうか。そう心の中でため息をつき、いや、こういう一筋縄ではいかないところを好きになったのだったなと、苦笑をもらした。
テーブルの上に小さな紙袋を置いて、ネクタイを緩める。
「今日は君におみやげを買ってきたんだよな」
ぽつりと呟く。するとくるみがくるりと振り返った。
おいおい、みやげと聞いたとたんにこれか。
あいかわらず君は現金だな、と言いかけて口をつぐんだ。気まぐれな小悪魔と暮らして学習したことは、余計なことは言わずに限るということだ。
「え、なになに? なにかな?」
満面の笑みを浮かべながら、駆け寄ってきたくるみが私の周りをぐるぐるとまわる。まるで子犬だ。
いいから早く開けてみろって。
私の心の声が聞こえたのか、それともくるくる回るのにも飽きたのか、くるみが袋に手を伸ばした。
「口紅?」
箱を開けたくるみが声を漏らした。
そう、口紅だよ。色は君に似合う、イノセントなイメージのミルキーピンク。
「これ、最初のホワイトデーのと同じ?」
「うん。よく似合っていたからね」
くるみははじめてのバレンタインに、口紅型のチョコレートをくれた。だから私はそのお返しに、よく似た色の口紅をホワイトデーに用意した。
今夜のお土産は、それとまったく同じもの。
ちょっとずつキスで返してくれよ、と言ったら、あの夜の君は少し恥ずかしそうに笑ったんだ。
初々しくて、かわいかったよ。本当に。
「それに君、この間、必死の形相で口紅ほじくり出してただろ?」
「やだ。見てたの?」
見てたよ。あれはなかなか面白かった。表情豊かな君の百面相は、実に楽しい。
「そうなの。もう完全になくなっちゃったの。だからね」
と、くるみは口紅をテーブルに置いて、サイドボードの引き出しから小さいなにかを取り出した。
みて、と手渡されたのは、私が今日買ってきた口紅とまったく同じもの――つまりかつてのホワイトデーのプレゼントだ。ローマ字でくるみと刻印がされている。
だが、空のはずの口紅は中に何かが入っているようだ。振るとカラカラ音がする。
なんだろう、と不思議に思いながらキャップを開けた。
入っていたのは印鑑だった。印鑑と言っても実印ではなく、猫のイラストとファーストネームが彫られた、くるみが遊びで使っているものだ。
「口紅の中身をはずして、印鑑入れにしてみたの。ケースに名前の刻印もあるし、ちょうどいいかなと思って」
「……印鑑ケースは別にあるだろ? 使い終えた口紅のケースなんて捨てればいいじゃないか」
するとくるみは、ふぐのようにぷうとふくれた。
いや、でもさ。口紅のケースを印鑑入れにするなんて、なんともどうにも、みみっちい。
「……ばか」
「ばかとはなんだよ、失敬だな」
だいたい君はさ、最近ちょっとふてぶてしいぞ。
女優に似てるとか、自分はかわいいとか、前からちょっと図々しいところがあったけど、この頃はそれを大きく上回るふてぶてしさだ。
君はたまに、将来はおばさんではなく素敵なマダムになるんだと豪語しているが、このままいくと素敵マダムとやらにはなれないぞ。これは一般論だが、女性は年を経ると、どんどん態度が大きくなってくるものだ。
洗練された女性になりたかったら、普段から洗練された行動を心掛けなきゃだめなんだ。もったいない精神も悪くはないが、あまりにみみっちいのはどうかと思う。
「だって……」
「だって?」
「初めてのホワイトデーにマイトさんからもらった口紅だから、ケースだけでもとっておきたいの」
脳天に、ガツンと一撃。
……ごめん。私が悪かった。前言撤回。
君は普段はわがままばかりだけれど、こういうところが本当にかわいいよ。私は君の、こういうかわいさでぶんなぐってくるような行為に、とてもとても弱いんだ。
ああ、今夜は食事の前に、君を食べてしまおうか。
「なあ、くるみ。君はさ、これから何年経っても、こうして嬉しいことを言ってくれるのかな?」
「そんなのわかんないよ。あと十五年もしたら介護生活に突入してるかもしれないし」
言うにことかいて介護かよ……さっきとはまったく別の意味で、がつんとやられた気分だよ。
「……確かにそうかもしれないけどさ、君だってその時には立派なおばさんになってるんだからな」
「大丈夫。わたしは素敵マダムになるから」
「なら、私は元気でかわいい爺さんを目指すよ」
「グラントリノさんみたいに?」
「え? あの方、かわいいか?」
「小さくてにこにこしてて、かわいいよ。鯛焼きを渡した時の笑顔なんて、最高だったよ」
いいかくるみ。あの方がニコニコした愛らしい爺さんでいるのは、君が一般人の、若くて可愛い女性だからだ。もし君がヒーロー志望の学生だったら、指導という名のもとに、紙屑みたいにくちゃくちゃに丸められちゃうんだからな。
あの方に、私は何度嘔吐させられたことか。
「マイトさん……もしかしてグラントリノさんにまでやきもち妬くの?」
当時を思い出し反射的に眉をひそめてしまった私を見て、くるみが笑う。
違うよ。たしかに私は独占欲が強いけど、今の顔はそうじゃない。
だがここであれこれ言い訳するのは私らしくないよな、と、密かに思った。
「くるみ」
ぐいと自分よりずいぶん小さい身体を引き寄せて、その耳元でささやいた。
「口紅なんて、これからいくらでも買ってやる。だから君は、それを毎回私に返してくれよな」
「わたしがおばさんになっても? それでもちゃんとキスしてくれるの?」
「もちろんだ。それに君は、おばさんじゃなくて素敵マダムになるんだろ? いや、それもちょっと違うな」
するとくるみは、とても悲しそうな顔をした。
ばかだな、人の言葉は最後まできちんと聞くもんだ。
「マダムどころか、君がかわいいおばあさんになっても、私が生きている限り、愛と心をこめてキスを贈るよ」
悲しげだったくるみが、ぱっと花がさくように笑った。
ああ、本当に、君のこういうところが愛おしくてたまらない。
はにかんで頬を染めたくるみの唇に、早速、軽いキスをひとつ落とす。
なあ、でも、本当に。
初めてのホワイトデーのプレゼントを大事に取っておきたいっていう、その気持ちをずっと忘れないでくれよな。
素敵なマダム、いや、かわいい老婦人になっても、ずっと。
2017.3.13
2017 ホワイトデー