スイートホーム

 今宵の平和の象徴さまは、いつもの彼とはやや違う。
 マイトさんが見ているのは、夏の風物詩でもある心霊特集。

――おわかりいただけただろうか――

 ナレーションと同時に、写真にうつりこんだ霊の姿がズームアップされる。するとわたしの大事なだんなさまは、大きく肩を強張らせた。
 もう、何度目になるだろう。

「マイトさん」
「……なんだい?」

 振り返った笑顔が、青ざめていた。
 それだけではなく、先ほどから、彼はずっとクッションを抱きしめ続けている。
 体の大きなマイトさんが小さなクッションを抱きしめて震えているさまは、それはそれでとてもかわいい。
 けれどやっぱり、無理はよくない。

「あのね、チャンネルかえてもいい?」
「どうしてだい? 楽しいじゃないか」

 いや、あなた絶対楽しくないでしょ……と、心の中でつっこんだ。
 『苦しい時こそ、笑っちまって挑むんだ』
 それは、オールマイトが自分に課した信条の一つ。けれど、家の中でまで、それを実践する必要はない。

 でもきっと、これは彼の優しさでもある。
 何故なら、この番組を見たいと言ったのは、わたし。
 だから、せっかくの彼の気遣いを無駄にしないよう、懸命に言葉を選んだ。

「なんかね、思ってたほど面白くないの。もともとゲストの女優さんが見たかっただけだから、もういいかなって。マイトさんがどうしても見たいなら別だけど……」
「……ン、まあ、そういうことなら、かえようか。くるみは他に観たい番組ある?」
「んー。特にないかな。でも今までわたしが観たい番組にしてたから、次はマイトさんが決めて。ね」

 オーケー、と答えながらも左手でクッションを握りしめたままの彼を見とめて、そっと目を細めた。

「なにか飲み物をいれてくるね。なにがいい?」
「アイスコーヒーかな」
「夜だから、カフェインレスのほうがいいよね?」
「ああ。そうしてもらえると助かるよ」
「ん、わかった」

 マイトさんのためのアイスコーヒーと、自分のためのカシスソーダを用意するために、わたしはしずかに立ち上がる。

***

「実はさ……ほんとはちょっと苦手だったんだ。ああいうの」

 二杯目のアイスコーヒーを飲み終えたマイトさんが、ぽつりと漏らした。
 彼の気遣いがわたしにばれていたように、わたしの気遣いも、また彼に気づかれている。
 残り少なくなってしまったカシスソーダのグラスの中で、溶けかけた氷がからりと鳴った。

「君は暴力的なものが苦手なのに、ホラーは大丈夫なんだな。意外だったよ」
「うん。猟奇的な物は苦手なんだけど、ああした静かな怖さはだいじょうぶなの。日本の夏って感じしない?」
「……しないよ」

 眉根を寄せたその表情がかわいくて、つい口元がゆるんでしまう。

「マイトさんは、逆だよね」
「うん。霊魂とかって、物理で倒せないような気がするだろ? そういうのダメなんだよね。スプラッタ系はまだイケるんだ……ゾンビにせよ不死身の殺人者にせよ、この手で倒せそうな気がするからさ」
「マイトさんなら、霊魂も吹き飛ばせそうじゃない? 一発くらいならまだスマッシュも打てるんでしょ? ホラ、前にあったじゃない。風圧でお天気を変えちゃったこと」
「一発ならまだ打てるだろうけど、試してだめだったら怖いじゃないか。理屈じゃないんだよ。ああいう、心理的に圧をかけてこられるのは、どうもだめなんだ」
「ふうん、そういうものなんだ」
「うん、そんなもん」

 そう言って、マイトさんは屈託なく笑った。痩せた顔に浮かぶ、ほんとうの笑顔。それを見たわたしも、なんだか嬉しくなって、ふふっ、と笑った。

「どうしたんだい?」
「そういえば、わたしたち、なんだかんだ言ってけっこう好みが違うよね」
「ああ。そうだね」
「たとえば映画なんかでも、わたしは映像が綺麗なものや恋愛ものが好きだけど、マイトさんはハードボイルドや痛快アクションをよく見てるよね。あと、意外なところで難解な作品も」
「難解なものを好むのが意外と言われるのは、なんだか心外だな」

 ちっとも気を悪くした様子のないまま、マイトさんが微笑む。

「お酒もそうよね。わたしは甘くて色の綺麗なカクテルが好きで、殆ど飲まないけど、マイトさんはバーボンが好き」
「優しいピンクをはじめとしたパステル系の色が好きな君と、赤や黄色、スカイブルーなんかの、はっきりした色を好む私」

 こつん、と、わたしのおでこに当てられた、マイトさんの額。
 至近距離で顔を見合わせて、ふたりでふふっ……と笑いあう。まるで小さなたくらみを思いついた、子どもみたいに。

「どうしてこんなに違うのに、一緒にいて楽しいんだろうね」
「そうだな。きっと、違うからこそ楽しいんじゃないか?」

 そう言ってから、マイトさんは小さくあくびをした。そういえば、今朝も彼は早かった。平和の象徴は、引退したからとて、暇なわけではけしてない。

「マイトさん、もう寝ようか」
「ん。でもその前に」

 落とされたのは、優しい口づけ。背中を走る、甘い予感。
 長い腕に包まれたわたしの上に、濃密な夜がおりてくる。

***

「……重……」

 すやすやと寝息をたてている大男を起こさぬよう、ごくごく小さな声を漏らした。
 マイトさんは、行為の後、冷たく背中を向けたりしない。たいてい、少しの間抱きしめてくれて、他愛ないおしゃべりをして、それから腕枕なり、手をつなぐなりして眠りにつく。
 けれど今夜は、少し状況が異なっている。手をつなぐどころの騒ぎではない。抱え込まれるように抱きつかれているのだ。この大きな人に。
 どんなに痩せていようとも、二mを大きく超えるマイトさんの体重は、重い。それだけではなく、この暑いのにこうべったりしがみつかれてしまったら、空調が効いた部屋であっても暑い。
 重い、暑い、おまけに苦しい。おかげでこちらは眠れやしない。

「……う……」

 と、先ほどまで気持ちよさそうに寝息をたてていたマイトさんが、苦しそうな声をあげた。

 このひとは、少し前まで、時折こうしてうなされていた。
 引退してからはそれもなくなり、やっと大きな荷物を下ろせたのだと安心していたけれど、まだこのひとは、なにかを失うことを恐れているのだろうか。個性を失い、戦うことができなくなった、今となっても。

 自分に覆いかぶさっていた長い腕をそっとはずして、愛しいひとの顔を見つめた。
 秀でた額に、汗がにじんでいる。

「け……い……」

 漏らされた、小さな呟き。
 けい、ってなんだろう。もしかして、女の名前だろうか? それとも、ヴィランの?
 夢の中でもこのひとはまだ、なにかと戦っているのだろうか。
 血の気が引く思いで、乾いた唇に耳を寄せた。耳孔に流し込まれる、ごくごく小さな声。

「おばけ……おばけこわい……」

 絞り出された低音に、思わず噴き出した。
 心配してしまったぶん、倍おかしかった。必死で声を殺しながらひとしきり笑い、そのあと、ほっと息をついた。

「大丈夫よ。わたしがずっと、そばにいるから」

 囁くようにそういらえ、秀でた額の際に浮かんだ汗を、そっと拭った。

 ごめんね、無理させて。あなたがこんなにおばけが苦手だなんて、思わなかった。
 一緒に暮らして一年以上経つのに、ほんとうに、まだまだ知らないことがある。それを少しずつ知っていくのもまた、共に生き、共に歩むということなのだろう。

 人生は長い。
 どちらかが花と散るその日まで、こうした平凡な日々が続けばいい。二十年たっても、三十年たっても、ずっと。
 きわめて非凡な英雄と、どこにでもある日常を。

2018.5.29

うなされるほど怖がりはしないだろう…と思いつつ、書いちゃいました。

月とうさぎ