Recuerdos de la Alhambra

 夜景が一望できるバーラウンジに流れているのは、郷愁をそそるクラシックギターの音。こうしたバーでピアノの生演奏がおこなわれることはよくあるが、ギターは少し珍しい。
 トレモロで装飾されたメロディーが美しいこの曲は、なんという名前だっただろうか。
 カシスソーダを傾けながら、少しのあいだ考える。それでもやっぱり、思い出せない。
 なんだったっけと首を傾げたその時、背後から落ち着いた低音が響いた。

「ごめん。待たせた」
「ううん。大丈夫。お仕事、お疲れ様」

 約束の時間より少し遅れて登場した英雄に、わたしは微笑む。
 彼もまた微笑んで、わたしの隣のスツールに腰掛けた。

 ヒーローを引退しても、『オールマイト』は各業界からひっぱりだこだ。いや、ヒーロー業を引退してからのほうが、講演の依頼やパーティーへの招待は増えているかもしれない。
 極力そういったものを固辞しているマイトさんだが、仕事や人脈の関係上どうしても断りきれないものもある。
 そういうとき、会が終わる時間を見計らって別の場所で待ち合わせ、食事やお酒――といっても呑むのはたいていにおいてわたしだけだが――を楽しむことが、わたしたちの新たなたのしみの一つとなった。

「ああ。思った通りだ。そのネックレス、よく似合ってる。ドレスとの相性もいいね」
「ありがとう」

 今日はパーティーだったから、正装しているマイトさんに合わせて、わたしも少しドレスアップしている。
 選んだのは、胸元があいたプリーツシフォンのワンピースドレス。ウエストはサテンのリボンで、スカートは膝丈。デザインが少し甘いので、色は黒にして落ち着きを持たせた。
 大人っぽく見えるように髪もあげてみたけれど、マイトさんはどう思っただろう。
 おうちでまったりもいいけれど、外での待ち合わせは、こういうドキドキ感があるからとても好き。

 いまさっき似合っていると言われたネックレスは、マイトさんからプレゼントされたもの。
 ホワイトゴールドの鎖に、大きさが異なるクローバー型のモチーフが六つ。クローバーはそのままフレームになっていて、中身はカルセドニーと白蝶貝と黒蝶貝がふたつずつ。

「くるみ、今日の君はセクシーで、とても素敵だ」
 
 そう言って笑うマイトさんは、光沢のあるダークグレイのタキシードを身に着けている。スレンダーな彼には、黒よりこういった色の方が似合う気がする。
 大きな手。低い声。上下する喉仏。無駄のない洗練された所作。
 ああ本当に、とわたしは思う。

 セクシーなのは彼のほう。

 ナンバーワンヒーローの座からは退いたけれど、抱かれたい男ナンバーワンの座は、きっとまだまだこのひとのもの。
 そう思ってしまうのは、わたしが未だにマイトさんに夢中だからだろうか。

「そのかわいい唇を、今すぐ食べてしまいたいよ」

 文字通り痩せて枯れてしまったが、マイトさんはやっぱりオールマイトだ。普通の日本人男性が言わないようなことを、平気でさらっと口にする。

「ふふ。今日ね、この間マイトさんが買ってきてくれた口紅をつけてきたの」
「ああ。いちじくの香りのあれだね」
「うん」
「でも、君の唇はいちじくなんかよりずっと甘いよ」

 耳孔に流し込まれる言葉は、カシスソーダよりも甘くて。
 見つめられているだけで、身も心もとろけてしまいそう。

「もう。あまり煽らないで」
「冗談だろう? 煽られているのは私のほうだ」

 ばか……と言いながら、マイトさんのごつごつした指に自分のそれをからめた。
 このままおうちには帰りたくないな、と不意に思った。
 今日はこのムードのままで、彼とベッドに潜りたい。

「マイトさん……」
「なんだい?」
「明日、お休みよね」

 上目づかいで彼を見あげる。彼は背が高いから、意図しなくても常に上目づかいになってしまうけれど、今はあえて視線に媚を含ませた。
 それに気がつかないような人ではない。

 ところがマイトさんは、小さな声で、だからなんだい?と軽くいらえた。
 うなじで揺れていたエンドパーツの黒蝶貝を、しゃらりとすくいあげながら。
 優しいけれど明らかな意図を含んだ指先の感触に、甘いなにかがこみあげてくる。

「あのね?」
「うん」
「……このままこのホテルにお泊りできたらなぁって」
「どうして? ここから家まではすぐだよ」
「そうだけど……」
「そうだけど、なに?」

 マイトさんの晴れわたった空のような双眸の中に、金の炎がゆらめいた。
 ああ、とわたしは心の中でため息をついた。このひとは、全部わかっていて聞いている。

「……いじわる……」

 少し恨めしげに彼を睨むと、明るくごめんとかえされた。

「じゃあ、それ飲んだら行こうか」

 ポケットからカードキーを出しながら、マイトさんが告げる。

「ひどい、最初からそのつもりだったの?」

 ぷっとふくれっつらを作ったが、彼は黙ったまま、頬をゆるめた。

***

 部屋に足を踏み入れた瞬間、初めてマイトさんとお泊まりしたホテルと少し似ていると思った。
 眼下に散りばめられた人口の星々。都会の夜景を楽しめる、素敵なお部屋。
 そういえば、寝室から都市の夜景を見おろすなんて久しぶりだ。タワーマンションに住んでいた六本木時代は、毎日のことだったけれど。

「たまにこうして、家とは別のところで過ごす夜も悪くないだろ?」

 背後でマイトさんが静かに問うた。わたしはそれには答えない。だって彼はその答えを、誰より知っているはずだから。

「夜景が綺麗」
「そんなものより、君のほうがずっと綺麗だ」

 甘い言葉と共に、無造作に投げられたタキシード。それがソファの上に落ちると同時に、後ろから大切なものを包むように抱きしめられた。
 行為の時、言葉でじわじわと責めてくることもあるけれど、わたしに触れるこの大きな手は、いつもやさしい。

 優しくて強い、大好きなひと。
 でも時折、ほんの少しの弱みを、わたしに見せてくれるひと。
 一日でもいい、私より長く生きてくれ。そう言われたこと、忘れない。

「ね、マイトさん。さっきバーで演奏されてたの名前、わかる?」
「どれのこと?」
「あなたが来たとき流れてた、トレモロが印象的な曲」

 わたしはメロディーを口ずさむ。
 クローバーのモチーフを指先でもてあそびながら、彼がこたえる。

「ああ。ヒントはね、このネックレス」

 脳裏に、スペインはグラナダの丘に建つ宮殿が浮かんだ。イスラム建築の粋を凝らして建てられた、城塞を兼ねた美しい宮殿。
ああそうだ。この曲は、Recuerdos de la Alhambra……アルハンブラの思い出。

 ごつごつした指が、わたしの胸元にあるクローバーをやさしく撫で続けている。焦らされているのがわかっているので、甘えたような声を出した。

「ね……はずして」
「わかった」

 マイトさんが大きく屈んで、わたしのうなじに口づけた。
 そのまえに君の髪をおろしてもいいかな、と耳元でまた低音がささやく。

「ん……」

 応えると同時に、マイトさんがビジューで装飾された夜会巻きコームを、そっと引き抜いた。

「きちんと結われた髪が乱れるさまはさ、たまらないよね」

 言葉と共におろされたのは、ネックレスではなく背中のファスナー。
 
「え……待っ……」
 
 抗議する間もなく、ブラのホックまでもが外された。
 胸元を下から持ち上げるように優しくすくい上げられて、思わず身体がぴくりとはねる。

「なんだい? 君、はずして、って言っただろ?」
「……下着じゃないもん……」
「そうかい? でも、どっちにしろ、こっちもはずすつもりだったからかまわないだろ? もちろん、君が本気で嫌だと言うのなら、ここまでにしておくけど?」

 楽しそうにわたしを見つめる。マイトさんの青い瞳。
 こういうとき、先に目をそらすのはいつもわたしのほう。こんなことを言われて平然としていられるほど、わたしはまだ慣れてはいない。

 こちらの返事を待たずにマイトさんの手によって脱がされたドレスが、さらりと床に落ちる。そのままの格好で抱き上げられて、ベッドの上に横たえられた。

「ネックレスは?」
「うん。そのまま」
「どうして?」
「ネックレスだけを身に着けた君も、最高にセクシーだと思うからだよ」

 クローバーのモチーフを優しく避けて、マイトさんがわたしの胸元に唇をよせた。

「ばか……」

 彼はちいさく笑っている。

 宮殿の名を冠したネックレスのみを身に着けて、わたしは今夜も、八木俊典という名の波に流される。
 耳の奥に残っているのは、郷愁を誘うあのメロディー。
 いつかこの夜も、懐かしく甘い思い出になるのだろうか。
 彼の熱を全身で受け止めながら、そっと、目を閉じた。

2017.4.16
月とうさぎ