墨をはいたような雲一つない夜空に浮かぶ、玲瓏たる月。渡る風はさらりと乾き、完全なる秋の訪れを知らせる。
よく晴れた秋の夜はどこまでも心地よい。
……そのはずなのだが、軽やかな秋風が渡る戸外に比べ、家の中の空気はどんよりと重い。
雰囲気を悪くしているのは、もちろん私ではない。くるみだ。
このところ、くるみはご機嫌斜め。ちょっとしたことですぐすねる。
現在の彼女は私の大事なカッシーナのソファに座して、携帯をいじっている。話しかけても、ああそう、とか、ふーん、とか、適当にしか答えてくれない。
理由はわかっている。ここしばらく、私が多忙でいるせいだ。
ヒーロー業を引退したとて、スポンサーとの契約は未だ続いている。また広告塔としての仕事だけでなく、テレビや雑誌の取材もある。本業の他にも、私には平和の象徴として果たさねばならないつとめが多々あった。
だから学校が休みでも、私自身はなかなか休みがとれない。
ニューカレドニアの旅行以来、休みがとれたのは片手の指でかぞえられるほどだ。
おそらく、くるみはそこが気に入らないのだ。
私という男と一緒になった時点でこうなることはわかっていただろうになどと思ってしまうのは、やはり私のエゴなのだろうか。
いや、たとえそうだとしても、もう少し理解があってもよさそうなものだ。
それでも、一緒にいたいと思ってもらえ、この身を案じてもらえるうちが花。亭主元気で留守がいい、などと、大昔に流行った言葉のようになったら終わりだ。
やはりここは、機嫌をとっておいた方がいいだろう。円滑な夫婦生活をおくるためにも。
「ねえ、くるみ」
くるみの隣に腰掛けながら、声をかけた。
「ナンデスカ」
「今度の休み、どこか行こうか」
「今度の休みってイツデスカ」
「……次の日曜だよ」
「……」
くるみは、携帯から視線を離さない。
「次の日曜は久しぶりに丸一日休めそうなんだよ。CMやテレビ番組の撮りもない」
「……ほんとう?」
くるみが顔をあげた。もうひと押しと、くるみを見おろす。
くるっとカールしたまつ毛を有する目元は、出会った時と変わらず印象的だ。尖らせた口と、ふくれた頬がかわいい。
本当に、君は小さいふぐみたいだな……そう思ったが、口には出さずに飲み込んだ。
「ホントホント」
「……信じられないもん……ここ数週、マイトさん何度もそう言ってたもん」
「ごめん。今度こそ本当。ちゃんと調整とってあるから」
ふくれたまま携帯をいじっているくるみを、ひょいと抱き上げて、膝の上に乗せる。ちょっと身じろぎされたけれど、文句を言われないということは、合意のしるし。
「な。どこに行きたい?」
こつん、と額と額をくっつけて問う。すると、ついさっきまで尖っていた口元が、少しずつゆるんでいくのが見てとれた。
「べつにどこにもいきたくないもん……」
「くるみ、行こうよ」
ちゅ、とついばむようなキスを唇に落として、もう一度押した。
「あのね……」
と、くるみがさっきまでいじっていた携帯端末を、私の前に差し出した。画面いっぱいに映し出されているのは、駅をはさんで反対側のビルの屋上に設けられた、水族館のHPだ。
水族館の屋外エリアの一部に水槽と一体化した天井を設け、そこを泳ぐペンギンの姿を下から観察できるようになっている。
海の底から天空を泳ぐペンギンを眺めるようだと、今年の春先に話題になっていたところだ。
「ここ行ってみたい」
「ああ。いいよ。ここに行こう」
「……でもね」
するとくるみは、首をかしげてこういった。
「マイトさん疲れてない? 話題になったのはちょっと前だけど、まだ混んでるかもしれないよ。せっかくのお休みなんだから、おうちでゆっくりしたくない?」
これだよ。うちの小悪魔は、これがあるから怖いんだ。
ついさっきまであんなにすねて、全身で「わたし寂しい」って訴えていたくせに、こんなふうに、私を気遣うようなことを急に言い出す。
本当にだいじょうぶ? とこちらをうかがう、印象的な瞳。
ああ、もう。だから私は、君がかわいくて仕方がないんだ。
おじさん、今夜も頑張っちゃうぞ。
「家でゆっくり過ごすのもいいけど、私はね、久しぶりに君と出かけたいんだよ」
頬に手をかけながらそう囁くと、くるみは心得たように目を閉じた。
***
爽やかにからりと晴れた、日曜の昼下がり。空の透明度が増してくる秋の空は、高い。真っ青な空に、刷毛で描いたような繊維状の巻雲が浮かんでいる。まったく、心地のよい陽気。
それなのにどうして私は、休日であるはずの今日も、きっちりスーツを着込んでいるのだろう。
それには、理由がある。
昨日の夕方、職員室に一報が入った。二学年の生徒が、インターン先で大きな粗相をやらかした。
パトロール先でヴィランに出くわしたその生徒は、先走った行動に出てしまったらしい。
幸いにして民間人にも施設にも被害はでなかったが、インターン先のヒーローの一人が生徒をかばって怪我をした。
それだけに、謝罪には本人と二年の担任だけでなく、それなりの立場の人間の同行が必要とされた。しかし悪いことに、校長は別の用事でではらっている。
緊急会議の結果、私が謝罪に行くのが最も妥当であろうと相成った。
ゆうべ、やや重たい気分で、くるみにことの次第を説明した。
うそつき、と泣かれる覚悟をしていたが、意外にもくるみは何も言わなかった。ただ静かにうつむいて、わかった、とそれだけ。
正直な話、喧嘩になったほうがまだましだった。くるみは、常のように怒ることも、すねることも、泣くこともしなかった。
「終わったら連絡するから、駅で待ち合わせしよう」
「無理しなくていいから」
今朝の出がけに告げた言葉に返ってきたのは、抑揚のない平坦な声。
昨夜から今朝にかけて、くるみは一度も笑っていない。それがひどく気にかかっていた。
***
巨大ターミナルは、今日も人であふれている。
幸いにも、相手方のヒーローは謝罪を受け入れてくれ、学生のインターンの継続を快く承知してくれた。
『今、終わったよ。一時間後には駅に着くと思う。』
メッセージアプリからそう連絡を入れたが、既読はついたものの、返信がこない。
よほど怒っているのだろう。いや、違う。あれは、怒りではなく失望だ。
くるみは私に失望したのだ。それに気づいた瞬間ぞっとした。相手に失望した男女の関係がどうなるか、想像できないほど青くはない。
内心で焦りつつ歩を進めること数分、待ち合わせの大きな時計が見えてきた。
そこに愛しい娘が立っているのを確認し、口角をあげる。
くるみも私を認識したのか、いっしゅん泣きそうな顔をして、次に口を大きくへの字に曲げた。
その表情に、胸の奥がずきりと痛んだ。
「来てくれてありがとう」
思わずもらした本音に、くるみはちいさくうなずいた。
あまり言葉を交わさないまま、水族館に入場し、ふたりで展示を眺めた。
オーストラリアの海を再現したという水槽、カクレクマノミとイソギンチャクのエリア。日本の清流、アシカやカワウソ、そしてペリカン。
そのまま歩を進めていくと、大きな水槽の前に来た。ハワイのラグーンを再現したと思しきそこでは、巨大なマンタが優雅に泳いでいる。
それらを前にしても言葉が少ないままのくるみに、不安がつのった。
やがて屋根のあるエリアを過ぎ、屋外エリアに出た。スカイオアシスと銘打たれたそこには、透明な水槽と一体化した天井が設けられている。その中を泳ぐペンギンは、なるほど、空を飛んでいるようにも見える。
屋上を渡る、秋の風が爽やかだった。この光景を青空のもとで見たら、きっともっと美しく見えたことだろう。
けれどオレンジ色に染まる空を透かした水槽内を泳ぐペンギンたちの姿は、それはそれで壮観だ。
「綺麗……」
小さな呟きをとらえ、隣を見おろした。秋の夕日が、くるみの頬を染めている。
夕焼け空を泳ぐペンギンと、光に満たされた水の底から眺めるビルの群れ。瞳をきらきらと輝かせて、それらを見上げているくるみ。
ああ、そうだな。確かに綺麗だ。
「ねえ……」
「ん?」
と、不意にくるみが、水槽から私の方に視線をうつした。
「ごめんね?」
「は?」
「忙しいのは仕方ないことなのに……マイトさんはわたしだけのものじゃないのに……『オールマイト』と添い遂げるっていうのは、そういうのも全部覚悟しなくちゃいけないことだったのに……さみしいからってすねたりしてごめんなさい」
返す言葉をなくして、ただ立ち尽くした。
違うだろう。謝るべきなのはこっちだ。
私の心は君のものだ。それはたしかに間違いないのに、公人としての私は、君の言うとおり、君だけのものにはなれない。私は世を支える柱であり、その象徴だから。
すまない、いつも寂しい思いばかりをさせて。
私がオールマイトであり続けたことで、君にはたくさん心配をかけてきた。もともと、暴力的な場面や事件が苦手で、そういったドキュメンタリーも見られないような子だ。
私と一緒にならなければ、しなくてすんだ思いもあったろう。せずにすんだ苦労もあったことだろう。
「今日はありがとう。マイトさんと一緒にここに来られて、嬉しかった」
「……」
本当に、私の小悪魔は、こういうところがずるいんだ。
けれどくるみ、私はね、君のそういうところに癒され、そして救われているんだよ。君の天真爛漫な明るさと、一見わがままなようで実はどこまでも懐広い優しさに。
だから頼むから、君はこれからも変わらずにいてくれ。どうかこのまま、私を愛し続けてくれ。
エゴイストな私の、これが切なる本音だ。
なにも言葉を返すことができずに、くるみの手を握った。自身のそれと比べてはるかに小さい、華奢でやわらかな手。
無言のままに先を進むと、薄暗い小さなトンネルへと出た。ブルーとグリーンのライトに照らされた、クラゲの水槽トンネルだ。
ライトアップされて青白く輝くクラゲがゆらゆらと水槽内を漂うさまは、どこまでも幻想的で美しい。
水族館の目玉であるスカイオアシスに人が集中しているせいか、さいわいにして、ここはまったくひとけがなかった。奇跡的にも、私とくるみの二人だけ。
「すごいね」
「ああ」
「なんだかこっちまで水中に浮かんでいるみたいな気分……」
ね、とこちらを見上げたくるみの唇に、そのままそっと口づけた。驚いて目を見開いたくるみに微笑みを返して、また一つ、二つと、触れるだけのキスを繰り返す。
今日はごめん、ありがとう、愛してる。本当に言いたいそれらの言葉のかわりに、「また来よう。今度は昼間に」とささやいた。
くるみは頬を緩めて、小さくうなずく。
ああ、やっと心から笑ってくれたね。
「なにか食べて帰ろうか」
「わたし、タコスが食べたいな」
「悪くないね」
微笑みあってから、もう一度、やわらかい唇に口づけた。
2017.7.23