庭園の中は、秋の薔薇でいっぱいだ。赤、白、ピンク、紫、そして黄色。むせかえりそうな、花の香。
「うわあ、すごいきれい。晴れてよかったね」
はしゃいだ声をあげるくるみに、そうだね、と低く応えた。
休日の朝、秋の薔薇を見に行こう、と、言い出したのはくるみだった。気まぐれな彼女らしい、唐突な提案。
欧州風の古城の下に広がる薔薇園は、東京にいたころよく足を伸ばした庭園のそれと、すこし似ている。
ただし、規模はけた違いだ。
薔薇園だけでも、東京の庭園の何倍あることだろう。古城もまた素晴らしい。パンフレットによれば、現代建築は東側のカリヨンだけで、他はすべて、欧州の古城をそのまま移設したとのことだった。
「オールマイト、みっけ!」
鮮やかな黄色い薔薇の前で、くるみが立ち止まった。
花径だけで20cmはあるこの超巨大輪には、私の名が冠されている。
そういえば、自身の名前をくるみに明かしたのも、この薔薇の前だった。
二年前の初秋のことだ。秋の陽光が燦々と降り注ぐ庭園で、私はくるみの前で騎士のようにひざまずき、本名とそして愛とを告げたのだった。
「隣の薔薇は、君みたいだね」
私が指したのは、くるみによく似た、カップ咲きのピンク色の薔薇だ。品種名はなんといっただろうか。さほど大きくはないけれど、形が美しく、香りがいい花。
「ありがと。前もこの薔薇を見て、同じ事を言ってくれたよね」
「そうだっけか」
とぼけてそう答えたが、本当はしっかり覚えている。だが、さすがに照れ臭いので、忘れていたことにしておくつもりだ。
と、突然東側のカリヨンが鳴った。
数秒遅れて、城の扉がゆっくりと開かれる。邸内から出てきたのは、婚礼衣装を着たカップルだ。
「びっくりした……結婚式?」
「……みたいだね。薔薇の季節限定になるけど、結婚式だけでなく貸し切りで記念撮影もできるみたいだよ」
パンフレットに書かれた小さい文字をひろいながらそう告げると、くるみは瞳をかがやかせた。
「すてき。薔薇を見おろすお城で撮影だなんて、憧れちゃう」
「私たちも、結婚記念日に写真とろうか。なんなら、もう一度ウェディングドレスを着たっていい」
「結婚記念日……たとえば花婚式の時とか?」
「ああ、悪くないね」
花婚式は結婚四周年のお祝いだ。花の名がつく記念日を、薔薇園をみおろす古城で祝うのも悪くない。
するとくるみは、少し考え込むような顔をした。
「……できれば、銀婚式のお祝いがいいな。ウェディングドレスは着なくていいから」
「銀婚式?……ずいぶん気の長い話だな。でもさ、その頃になったら、私けっこうなおじいちゃんだぜ」
「マイトさんは大きいから、トリノおじいちゃんみたいなかわいさは出ないかもしれないけど、きっと違う可愛さとカッコよさを併せ持った素敵なおじいちゃんになると思うよ」
「おい。トリノおじいちゃんって、グラントリノ先生のことか?」
「うん。そう呼んでくれって、おじいちゃんが」
「……君ねぇ……いつからそんなに先生と仲良くなったんだい? まさか、連絡を取り合ってたりしてないだろうね」
「それはナイショ」
「ナイショ、じゃないよ。まったく」
否定しないのは肯定のあかしだ。まったく、油断も隙もない。
あの方と君が仲良くなってしまったら、こっちは悪い遊びもできないじゃないか、と思いかけ、ああそれが狙いかと、内心でため息をついた。
もちろん、悪い遊びなどする気はない。ないけれど、想像する余地くらいは残してくれてもよさそうなものだ。
そんな私の内心の嘆きには気づかず、くるみは笑う。
「トリノおじいちゃんのことはおいといて、はれて銀婚式の日を迎えられるように、元気に仲良く過ごそうね」
「そうだな」
きゅっと、手を握りしめて、くるみが私を見上げた。
「あのね。わたし、とても幸せ」
「うん」
「だからわたしたちをめぐり合わせてくれた神様に、感謝しないと」
違う。たぶん、神様じゃない。
反射的に、そう漏らしそうになった。
いや、めぐり合わせを決めたのは神様なのかもしれない。だが、その道筋がぶれないよう、尽力したのは一人の男だ。
ずっと、不思議だった。くるみが、我が事務所に採用されたことが。
我が事務所は、あまり規模を大きくしたくないという私の意思もあり、所員の募集はめったにしない。事務員であればなおのこと。
だがその小さな枠に対して、希望者は多い。結果、採用されるのは、たとえ事務員と言えど、それなりの資格や才の持ち主になる。
しかしくるみは高偏差値でもお嬢様校でもない、実に平均的なレベルの女子大の家政学部をしごく平均的な成績で卒業し、うちの事務所に入所した。事務能力も、ごくごく普通。
しかもくるみの実家には、当時借金があった。そのあたりの審査を、我が事務所は厳しくしていたはずだった。なのに、どうしてくるみを採用したのかと。
その理由に気づいたのは、最近になってからのことだ。
おそらくは、彼のしわざだ。
かつて私が心から信頼し、背中を預けた、ただ一人の男の。
引き継ぎの際、秘書になにかを残したのだろう。表向き、彼の独立は円満に成されたことになっている。
私も当時、彼が指示したことはよほどのことがない限り継続するようにと、就任したばかりの秘書に伝えた覚えがある。
見えた未来は変えられないと聞いた。だから、彼がなにもしなくても、くるみとは別の場所で出会えていたのかもしれない。
けれどやはり、私は彼に、多大な感謝をせねばなるまい。
そして同時に、やりきれない気持ちになる。
決裂したその後ですら私のサポートたらんとした彼は、どんな気持ちで我が事務所を去ったのだろうか。
もう少し違うやり方があったのだろうと、今ならわかる。
わかったところで、全てがもう、手遅れなのだけれど。
「マイトさん、どうしたの?」
「いや、なんでもない」
「あのねマイトさん、泣いていいんだよ。悲しいときは、男の人も泣いていいの」
「……どうして、そんなふうに言うんだい?」
「なんとなく、そう思ったの」
ああ、まったく。と、心の中で大きく息をついた。
君にはすべて、お見通しなのか。
わがままばかりの自由な子猫のようにふるまっているくせに、肝心な時、くるみはこうなる。
あの薔薇の園で、「わたしがあなたを守ります」と告げたその言葉通り、君は私人としての私を、守り続けてくれている。
そんな君に、私がどれだけ救われていることか。
「泣かないよ。君がそばにいてくれるから」
自らの名を冠した薔薇の前で、くるみを強く抱きしめた。
泣かないよ。そのかわり今、崩れそうな私の心を、支えてくれ。
「マイトさん、みんな見てる」
「かまわない」
「ん……わかった」
と、くるみは私のうしろに手を回し、腰を軽くぽんぽんと叩いた。
まるで、幼子をあやすかのように。
まいった。
君はオールマイトを、平和の象徴を、幼子のように扱うのか。
けれど、そんな君に出会えてよかったと、心から思う。
また、カリヨンの鐘が響いた。今度は婚礼の旋律ではなく、時刻を知らせるシンプルな音だ。青く甘い花の香がたゆたう園の中を、カリヨンの音が鳴り響く。高く、そして低く。
綺麗な音、と君が言い、まったくだ、とくぐもった声で私が答える。
爽やかな秋の陽光が、我々の上で、きらきらと踊り続けている。
2018.5.18
結婚四周年は、花婚式の他に、書籍婚式・果実婚式と呼ばれることもあります。
オールマイトの名を冠した薔薇の前で彼が本名を明かす話は、「1ダース」の夢本に収録されています。秋の薔薇園でマイトさんが夢主に本名を教える、ただそれだけの話です。