コットンホワイトの夜

 目の前で、冬の名残の雪が舞う。思わずついた息も白い。
 昨日まであんなに暖かかったのに、今年は春の訪れが早いと思ったそばから、またこれだ。
 コバルトブルーの傘を閉じ、トレンチの肩についた水滴をはたき落として、建物の中に入った。とたんに温かい空気につつまれ、今度は、ほっと安堵の息をつく。

 今夜もずいぶん遅くなってしまった。またしても、日付がかわるギリギリの時間帯。きっとくるみは、もう眠っていることだろう。
 最新の注意を払いながら、玄関の鍵を開け、扉を開いた。

 六本木のマンションと違い、今の住まいは玄関ドアを開けたら数歩でリビングだ。そっと廊下の扉を開くと、ダイニングテーブルにつっぷして寝ている、我が小悪魔の姿があった。
 遅くなるから先に寝ていてと言っていたのに……と独りごちかけ、いや、違うな、と思い直した。
 テーブルの上には、ノートパソコンと食材事典。つまりは彼女の仕事の道具。

 この秋、くるみはフードスペシャリストの資格をとった。
 家政学部出身の彼女は、もともと栄養士の資格を持っている。が、胃袋のない私のために栄養学の復習をしているうちに、食全体に関わる仕事に興味を持ったという。

 食品会社の企画、飲食店の空間コーディネートなど、フードスペシャリストの仕事は多彩だが、お料理教室の先生という道を選択する者も多いらしい。
 くるみもその道を考えているらしいが、現在の状況が状況だ。もう少し落ち着くまで待って欲しいと――一般人である彼女には詳しい理由を話していない。が、賢明な彼女は、水面下でなにかが起きていることをなんとなく察しているようすだった――伝えたところ、料理ブロガーとしてSNSへの投稿を始めた。
 なので、今のくるみはSNS映えするメニューの開発に、余念がない。

「くるみ」

 声をかけると、くるみは寝ぼけ眼をこすりつつ、頭をあげた。

「……おかえり」
「ただいま」
「ごはんは?」
「連絡した通り、食べてきたよ。私のことはいいから、今日はもう寝てしまいなさい」
「でも」
「私は大丈夫だから」

 できる限りの優しい声でそうささやいて、くるみをひょいと抱き上げる。姫抱きではなく、小さい子にするような、いわゆる「抱っこ」だ。一般的な身長のくるみと、背の高い私では、大人と子供ほどの身長差がある。これも、体格差があるからこそできること。

「奥さんだからって、常に私のお世話をしようとしなくてもいいんだよ。私だって大人なんだから」
「違うもん」

 と、くるみが私にしがみつきながら、ちいさく言った。

「マイトさんが自分でなんでもできるのは知ってる。でも、妻の義務とか、そういうことじゃないの。わたしが、マイトさんを待っていたかったんだもん。少しでもいいからお話したくて、ここで待ってたの」

 ぎゅっと、心臓をわしづかみにされたような気がした。
 くるみ、それは反則だ。

 結婚生活が長くなってくると、互いの存在がうっとうしくなったり、相手のためにすることを義務のように感じることがあるという。
 だが、義務ではないと君は言った。
 知っているか、くるみ。私はね、君のそういうところに弱いんだ。君は昔からそうだ。ウケやモテを意図している行動よりも、さりげない本音の部分のほうが破壊力がある。まったくもって、困ったもんだ。こんなふうにされたら、私はいつまでも君に夢中でいるしかないじゃないか。

「じゃあ、ちょっとだけ話そうか。私も、君に渡したい物があるし」
「渡したいもの?」
「今日が何の日か忘れたのかい? ハニー」
「あ、ホワイトデー」
「そう」

 くるみを、そっとソファーの上におろす。待ってて、と告げ、ヒーロースーツ用の衣装箱の奥に隠しておいた箱を取り出して、再びリビングに戻った。

「この箱、もしかして」
「うん。いいから開けてみろって」
「……マイトさん!」

 オレンジ色の包装紙ををあけたくるみが小さく声を上げた。
 白い箱の中に鎮座していたのは、ハートの形の鋳物ほうろう鍋。色は、くるみが前から探していた、コットンホワイト。

「すごいわ……中身はもちろん、箱まで綺麗。こんな綺麗な状態の新品を手に入れるのは大変だったでしょ」
「まあ、いろいろ伝手があるからね。赤いのと白いの両方あれば、SNS映えするだろうなと思ってさ」

 この鍋は、メーカー内でも人気の品だ。ブライダル用のギフトとしてもよく見かけるし、赤はひとつ、うちにもある。だが、廃版になって久しい白は、状態のいいものがなかなか見つからなかった。

「ホワイトデーのプレゼントにコットンホワイトの鍋なんて、なかなかしゃれてるだろ?」
「……そういうおじさんぽいこと言わなきゃかっこいいのに」
「え? いまのおじさんぽかった?」
「けっこうね」

 そうかあ……としょんぼりしかけたところに、やわらかい声が続ける。

「うそよ、ありがとう。これ、ずっと欲しかったの。とても嬉しい」

 甘えるように両手を広げたくるみを抱き上げ、膝の上に乗せた。マイトさんだいすき、としがみつかれたので、お返しとばかりにキスの雨を降らせる。

「マイトさんのくちびる、冷たい」
「ああ、まだ冷えてたか。外、雪降ってたからね」
「えっ、本当? 見てくる!」

 くるみが嬉しそうに私の膝の上から降りて、窓辺へと駆け寄った。
 ええ、待って。いま私、ちょっとその気になってたんだけど。

「……ま、いいか」

 年若い妻の後を追い、自分のそれより細い身体を後ろから包むように抱きしめる。窓の外で降りしきるのは、季節外れの、真綿のような雪。

「ホワイトデーに雪なんて、珍しい」
「こっちは東京より温暖なはずなのにな」
「ね、さっきのつづき」
「ん?」
「大好き」

 ああ、続きってそういうことか。オーケー。
 甘えるように言ったくるみの顎に手をかけて、やさしくこちらを向かせる。

「私のほうが、大好きだ」

 唇同士がふれあう寸前、くるみがうふ、と、微笑んだ。
 今宵は実に幸せな、コットンホワイトの夜。

2020.3.14 ホワイトデー
月とうさぎ