「ね、なに見てるの?」
リビングのテーブルの上でタブレットとにらめっこしていたマイトさんに、思わず声をかけた。丸められた背中が、やけに寂しげに見えたから。
「ニューカレドニアでの写真を整理してるんだよ。お互いのスマホで撮影したのとデジカメで撮ったものを、一つのファイルにまとめてた」
ニューカレドニア……わたしたちの初めての旅行。
今でもはっきり思い出せる。
落ちてきそうな満天の星、白い灯台に白い砂浜、青い海、カジノ、朝市、それからニアウリの下で笑い合うわたしたち。
とても楽しかった旅行だけれど、マイトさんが自ら写真を整理するなんて、珍しいことだ。どういう心境の変化だろうか。
「ところでくるみ、キッチンで飲み物かなにか作ってなかった?」
「あ、忘れてた。持ってくるね」
言われてみればそうだった。
キッチンカウンターのトレイの上には、グラスが二つ忘れ去られたまま。中身はサンフラワー色のドリンクだ。グレナデンシロップをジンジャーエールで割った、シャーリーテンプル。アルコールは入っていない。
トールグラスを手渡すと、マイトさんは静かな声で、ありがとう、と言ってくれた。
「でも、わたしが飲み物作ってたの、よくわかったね」
「そりゃあね。私は天下のオールマイトだから」
マイトさんが、胸を張って自慢げな表情をした。この人のこういうところがかわいくてたまらないのだ、本当に。
そして今本人が言ったとおり、マイトさんはわたしのことを見ていないようでよく見ている。旅行の時もそうだった。
ニューカレドニアのカジノで、わたしたちはごくごく短い時間だけれど行動を別にした。その時は放っておかれたみたいで寂しかったけれど、帰りの飛行機の中で彼は静かに言ったのだ。
「君はスロットですってしまった後、バーコーナーに寄ってピニャコラーダを頼んだ。そのままポーカーのテーブルを見てただろ? そこで三人の男に声をかけられ、丁重に断った。全部、ちゃんと見てたよ」
「ルーレットをしながら、そこまで見てたの?」
「当たり前だろ。どんなにセキュリティがしっかりしてようが、異国の地で愛する人を放置するなんて、そんな非紳士的なことはしないさ」
平和の象徴、正義の象徴。
オールマイトはパーフェクト。
そんなマイトさんが、ちゃんとわたしを見てくれている。どんなときも。いつでも。
それがどうしようもなく嬉しくて、ついつい笑ってしまった。
「どうしたんだい?」
「ん。ナイショ」
わたしの言葉にほんの一瞬目をまたたかせ、ナイショはずるいぞ、と、マイトさんは笑う。
「マイトさん、だいすき」
「私も君が大好きだよ」
マイトさんがわたしを抱き寄せる。そのままわたしは彼に身を預ける。そして、どちらからともなく唇を合わせる。
交わすのは触れるだけの優しいキスだ。これはいつものお約束。
確認の言葉は、すでにわたしたちの間には必要ない。
「楽しかったよね。旅行」
「そうだね」
「また行きたいな。今度はベルサイユとか」
「そうだな。またいつか、君と旅をしたいね」
マイトさんがぽつりと呟いた。
少し意味深な言い方だった。そうだな、でやめておくか、普通に「行こう」と言えばいいのに。
けれど、マイトさんはいつもこうだ。
オールマイトは嘘はつかない。だから、できない約束をしようとはしない。
神野での戦いに出向いたときもそうだった。
それはある意味、残酷なことで。
先の話になると歯切れが悪くなるのは、きっと彼がまだ重要なことを隠しているからだ。
けれどわたしは、それについて言及しようとは思わない。
「……あのさ」
「うん?」
「これから、ちょっと大変なことが起こるかもしれない」
知っている。というよりも、すでに大変なことが起こり始めているということは、なんとなくわかっていた。
教師寮の中に広がる不穏な空気と強い緊張感からも、それはうかがえる。
マイトさんの引退以降、敵は増え続けている。泥花市で起きた事件は記憶に新しい。
そんな中、マスコミは不安をあおり、無責任な民衆はヒーローたちを責める。
民間人であるわたしにもわかる。
混沌の時代がはじまろうとしているのだ。
「……それでね」
そしてマイトさんは、引退した今となってもなにか大きなものを抱えている。
きっと彼は最後まで、わたしにはそれを明かさないだろう。
口には出さないだけで、わたしは知っている。それらのことを。
「もしかしたら、私もそれに関わることになる……かもしれない。でも今すぐというわけではないんだ。場合によっては、そういう可能性もある……ってだけで」
歯切れ悪く、マイトさんがつぶやいた。
ここで「行く」と今断言しないのは、きっとこのひとの優しさだ。
「大丈夫よ。わかってるから」
どんなにわたしが止めたとしても、マイトさんは行くと決めたら行くだろう。
それがこのひとの、わたしの愛したひとの生き様なのだ。
「だって、マイトさんはワンフォーオールのひとだもんね」
「えっ?」
頓狂な声と共に、マイトさんが大量の血を吐きだした。
驚いた拍子に血を吐くことは前からあったことだけど、こんなに派手な吐血は久しぶり。そんなに驚くようなことを言っただろうか。
「どうしたの? 大丈夫?」
げふげふ、と咳き込みながら、マイトさんが口元を押さえる。
「……それについて、私、君に話したことあったかな?」
「学園戦争のこと?」
と、昔に流行ったスポーツドラマの名をあげた。
わたしが観たのはリメイク版だけれど、オリジナルはたしか、マイトさんが高校生くらいの頃に放送されていたはずだ。
個性出現前の部活動を題材にしたドラマで、その中で多用されていたのが、「ワンフォーオール・オールフォーワン」というフレーズだった。
ワンフォーオール・オールフォーワン。
一人はみんなのために、みんなは一人のために。
「……あ……うんうん、それそれ。懐かしいよな」
マイトさんはごまかすようにそう言ったが、その前に小さく、「あっ、そっち……」と呟いたのが聞こえてしまった。
ああそうか、と思いながら、内心で小さく息をつく。
ワンフォーオールという言葉は、このひとにとって、きっとなにがしかの意味があるのだ。けれどわたしには話せない。だからこそのこの動揺。
オールマイトは、秘密が多い。こういうとき、いつも考えてしまう。
もしもわたしがヒーローだったら、秘密を共有できたろうかと。それともやっぱりこのひとは、王者としての孤独を抱えて生きるのだろうかと。
それは答えの出ない、もしもの問い。
詮無いことだ。どんなに「もし」を語ったとしても、意味がないのに。
そしてパーフェクトなヒーローとしてのオールマイトに、わたしが口出しできることは何一つない。だから先ほども思ったように、それについては言及すまい。
こうしてぶれそうになるたびに、わたしは自分に言い聞かせる。幾度も、幾度も繰り返し。
決めたはずだ。わたしは人としての八木俊典を支えて生きていくのだと。
「……あなたはワンフォーオールよね。オールマイトは、みんなのために」
マイトさんが、はっとした顔をして、次にちいさくうなずいた。
本当は、自分のためだけに生きて欲しい。そう伝えたこともある。だがこのひとには、それがとても難しい。それもまた、よくわかっている。だから――。
「だから大丈夫よ。あなたの言いたいことはわかっているつもりだから」
「……」
「ただし、みんなのためだけじゃなく、自分のこともちゃんと考えるのよ。『自分も含めたみんなのために』それだけは忘れないでね」
「ウン……」
と、マイトさんは声をくぐもらせ、下を向いてしまった。彼は鼻をすすりながら続ける。
「最近は涙もろくなっていけないな。年かな」
薄いが広い背中に手を当てて、そっと撫でた。この背が背負ってきたのは、この世の平和と人々の笑顔。
誰もが、この背に守られ生きてきたのだ。
薄くて広くて、強くて弱い、わたしの愛しいひとの、愛しい背中。
「普段は気まぐれな子猫みたいなくせに、君はいつもここぞというとき、私の弱いところを突いてくるよね」
「そお? わたし今、胸の傷をつついたりしてないけど」
「あ……うん。敵でもないのにそこ攻撃してくるのも君だけだな」
マイトさんが、涙ぐみながらやわらかく笑んだ。
「だけど本当に、くるみ、君はいつも私の予想の上を行く。最高のパートナーだ。パーフェクトだよ」
パーフェクトなヒーローであるオールマイトが、民間人であるわたしをパーフェクトだと言う。
なんだかちょっと、くすぐったい。
「じゃあわたし、これから先もあなたのパーフェクトであり続けるから、見てて」
そうだ。これから先どんなことが起きたとしても、この気持ちを忘れずにいればきっと乗り越えられる。そんな気がする。
互いを信じて、互いを愛して。
そしてこれからもあなたはわたしの、そしてわたしはあなたのパーフェクトでいよう。
「君、そういうとこ、ほんとぶれないよね」
涙ぐみながらマイトさんが破顔して、わたしも彼を見つめて大きく笑った。
2021.7.18