4話 逃げ水

 普通なんて嫌。特別な相手に選ばれたい。
 わたしは神様にもらったこのかわいい容姿を利用して、王子様に見初められるんだ。
 そしてずっとずっと、しあわせに暮らすの。

***

 バスルームの電気をつけず、かわりにベリーの香りのアロマキャンドルに火をともした。キャンドルと同じ香りの入浴剤を入れてから、ゆっくりと湯につかる。
 六つのアロマキャンドルをともすのと、しまい風呂に入浴剤を入れるのは、わたしの最大の贅沢。

 湯気で満たされた、ほの暗いバスルーム。薄い桜色のついた湯の中で手を動かすと、小さな波ができた。バスタブの中の自分の身体が、ゆらゆらと揺れて見える。
 脱力しながら天井に目を向けると、そこにいるはずのない頬のこけた男の顔が浮かんで、そして消えた。

「どうしよう……」

 思わず独りごちていた。
 お金持ちの妻になる。おとぎばなしのヒロインになる。
 このごろ、今まで夢見ていたことすべてが、子供の戯言のように思えてしまう。それはきっと、平和の象徴よりも、魅力的な人に出会ってしまったから。

「自分の足で立てる女になりなさい」

 あれから一週間が経つというのに、あの厳しい声が忘れられない。

 どうしよう、あの人のことが頭から離れない。
 平凡な恋なんて、絶対にいやだと思っていたのに。
 特別な人しか好きにならないと、決めていたのに。

 最初は、痩せこけてはいるが、変に色気のあるおじさんだと思った。優しい口調や雰囲気なのに、その視線は妙に鋭くて、自分の心の柔らかいところを射られたような気がした。
 一緒に食べるランチは美味しかった。自分で作ったお弁当なのに、あのひとと食べるといつもより美味しいような気がした。
 背が高いあのひとの姿は、どこにいてもすぐに見つけられた。

 ホテルにつれこまれてベッドに押し倒された時、そんな人だったのかと心の底から失望し、そして悲しかった。
 そうだ。わたしはあの時、怖かったのではなく悲しかったのだ。
 けれど、あのひとはやっぱり、優しい人だった。
「もう大丈夫だ」
 耳元で響いた低音には、オールマイトとのそれとよく似た安心感があった。

 ラブホテルでの一件の翌日、オールマイトの秘書が朝一番でわたしのところに来てくれた。
 秘書は、背が高くてとても美しい人だった。均整のとれた体を黒いスーツに包んだ大人の女性。才色兼備という言葉を、体現するようなひと。
 落ち着いたアルトで伝えられた手続きの説明はわかりやすく、また事務処理は迅速だった。ただの事務員であるわたしを見下すこともなく、優しく親身になって話をきいてくれた。とても、とても素敵なひとだった。
 ああいう人のそばで、マイトさんは働いていたのだ。

 オールマイトの秘書を思い出すたび、ぶくり、と、心のどこかで、なにかが弾ける音がする。
 それはわたしの心に生まれた、黒い感情。毒の泥地ではじける、ガスのような泡立ちだ。
 これは嫉妬だろうか、それとも羨望だろうか。
 マイトさんへの感情は、やっぱり恋なのだろうか。そんなもの、夢をかなえるのには邪魔になるだけなのに。

 けれど、もう手遅れなのだと、心のどこかが叫びをあげる。
 今この瞬間、あの人の薄くて広い胸に抱かれる、美しい女性がいるのかもしれない。
 嫌な想像が頭をよぎり、わたしの心がぎしぎし軋む。
 嫉妬と恋慕と羨望と、そして子供の頃からの夢。いろんな想いがまじりすぎて、自分の気持ちが整理できない。

 まとめられないこの気持ちは、手が届いたと思ったら消え失せてしまう、武蔵野の逃げ水のようだ。いくら追いかけても届かない。どれほど考えても答えが出ない。終わりのない問答。

 いやだ、いやだ、どうしよう。好きになんか、なりたくないのに。

 風呂の栓を抜いて湯を流しながらわたしは思う。
 こんなぐちゃぐちゃした気持ちなんて、お湯と一緒に流れてしまえばいいのに。

***

 最近、マイトさんとは会えていない。最後にランチをしてから、もう、十日以上たつ。
 その間、一度だけ『ごめん、忙しい』というメッセージと、うさぎが必死で謝っているイラストのスタンプが送られてきた。それきり、何の連絡もない。
 あの時立て替えてもらったお金を返したいのに、なかなか機会に恵まれない。
 中央線に揺られながら、眺めていたメッセージの画面をファッション系のブログページに切り替えて、わたしは一つため息をついた。

 そうこうするうちに、電車が新宿に到着した。目的の場所は、都内で最もコスメコーナーが充実していると言われる百貨店。
 あの人からいつも漂う、スパイシーな甘い香り。シナモンで漬けたドライフルーツ入りのブランデーケーキのような香りに、白檀とバニラが追いかけてくる、複雑なフレグランス。それを探すために来た。

「うわ、濃ゆい!!」

 黒いキャップの香水を一振りしたムエットを試香して、思わず叫んでしまった。横で、きれいにお化粧した販売員が苦笑している。

「これじゃないです。ここまで苦い感じじゃなかった。もっと美味しそうな、甘い香りでした」
「こちらは後から甘くなってきますよ。フレグランスは時間で香りが変化しますし、人によって香り立ちが違うんです。天然の香料や良質の人工香料を使ったものほど、差が出ます。肌のペーハー値や体温、つける場所でもかわってきますよ」

 さすが有名メゾンブランドの販売員、わたしの不満げな声にも嫌な顔一つせず、「こちらは今風の香りではないけれど、古くからのファンも多い名香ですよ」と教えてくれた。

 念のため、同じブランドから出ている銀のキャップの香水と紺色の瓶の香水を、それぞれムエットに振り掛けてもらい、持ち帰ってみた。
 銀のほうは華やかで、紺色のほうは爽やかだった。でも、どちらもあのひとから漂う香りとは大きく違う。

 中央線に乗り込んでから、再びムエットを嗅いでみた。不思議なことに、最初は苦手だと感じた黒いキャップの香水が、まったく不快ではなくなっていた。
 最初に感じられたレザーのような渋味と強いスパイス感が薄れ、バニラまじりのドライフルーツのような香りに変化したムエットを、電車の中で何度も何度も嗅いでしまった。まるでその香りに魅せられてしまったかのように。
 帰宅してからも数分おきに紙を鼻にあてている自分に気づいて、苦笑をもらした。
 ああ、でも、そうだ。これがマイトさんの香りだ。

***

 六月に入って、やっとマイトさんから連絡が来た。
『雨でなければ、明日、いつもの日本庭園の木蓮の下で』と、たったそれだけ。
 わたしは会えなくてさみしかったのに、彼はそうでもないのだろうか。少し悲しく思いながら『お昼は何も買わないで来てくださいね』と返事をすると、『どこの店にする?』と、食堂風の建物の前でうさぎが笑んでいるスタンプが送られてきた。
 そのあっさりした感じが悔しかったので、『まだ内緒です』と応じてから、パンダが舌を出しているスタンプを返してやった。

 わたしの願いがかなったのか、その日は好天に恵まれた。
 どんなに遠くにいても、体の大きいマイトさんを見つけることは簡単だ。
 けれど、久しぶりに会うマイトさんは、心なしか一回り痩せてしまったように見えた。頬から顎にかけてのラインがいっそうシャープになり、眼窩のくぼみも深くなっている。光沢のある茶色のチョークストライプのパンツは、やっぱり腰のあたりがぶかぶかだった。
 お礼の言葉と共にお金を渡すと、マイトさんは少し眩しそうな顔をして、小さくうんとうなずいてくれた。

「で、お礼といってはなんですが……」

 五時半に起きて作ったお弁当を、どきどきしながら手渡した。手作りなんて重いだろうか。手作りを嫌がるひともいるから、少しこわい。
 けれどマイトさんは、お弁当を見て微笑んでくれた。彼の大きなてのひらの上にちょこんと乗った小さなお弁当箱は、ちょっとしたインパクトがある。

「お母さんに作らせたのかい?」
「心外。マイトさんも、若い女は料理なんかしないと思っているタイプだったのね。うちの母は忙しいから、食事作りは私の担当なの。だからこれはわたしの手作りです。お口に合うかわからないけど、どうぞ」
「くるみちゃんの手作り?」

 マイトさんは意外そうな顔をしてから、ありがとうと笑んでくれた。この人はわたしといる時、よく意外そうな顔をする。

 梅雨の晴れ間の日差しは、思いのほか強かった。
 暑いねと声をかけると、お弁当の包みを広げたマイトさんが、まったくだ、と、ワイシャツをまくりあげた。
 その細い右腕を見た瞬間、わたしは小さく声をあげた。手首から肘の上まで包帯で覆われたその傷は、おそらく相当深いもの。

「これ、どうしたの?」

 マイトさんは、なんでもないよと優しく笑う。
 ああ、柔らかな拒絶。なんでもないというレベルの怪我ではないのに。これ以上は聞いてくれるというニュアンスが、今の笑顔には含まれている。

 しかたなく、それ以上の詮索をあきらめて、わたしもお弁当の包みを開けた。いただきますと、二人同時に手を合わせる。
 はたして、お弁当は彼の口に合うだろうかと心配しながら、傍らの背の高い男をちらりと盗み見た。
 胃袋のないマイトさんは、少量ずつをゆっくりと口に入れる。長めの前髪が揺れるのを見ながら、まるで大きな垂れ耳うさぎみたいだと思った。もしゃもしゃと咀嚼するその姿が、とてもかわいい。

「マイトさん」
「なに?」

 マイトさんがある程度の量を食べたのを確認してから、そうたずねた。

「香水、どの辺につけてるの?」
「腰骨のあたり、かな」
「そこ……嗅いでもいい?」
「ハア?」

 マイトさんはいつものように、盛大に吐血しながらひっくり返った。
 ねえ、なんか鼻血も出てない?

「なんなの、君。今のはセクハラで訴えられてもおかしくないよ」
「えー、そんなことになったら、わたしはこの人に無理やりホテルに連れ込まれましたって言うもん」
「……」
「あの時わたしが受けた精神的苦痛は、匂いを嗅がれるなんて生易しいレベルのものじゃありませーん」

 ぐっとマイトさんがひるむのがわかった。
 普段はニコニコ笑っているけれど、このひとは、ときたまこんなふうに感情が顔に出ることがある。こういう表情も好きだなあと、しみじみ思う。

「とにかくダメ。君、ぜんぜん懲りてないな。そんなところに密着されて、私がその気になったらどうするの?」
「その気になるの?」
「……そりゃあ……私も男だからね……」

 ふいと横を向いて、マイトさんが応じる。
 ああもう。どうしてこのひとは、いちいちこんなにかわいいのだろう。

 お弁当の後、少し時間があまったので、庭園内をふたりで歩いた。池の傍まで来たところで、長くて意外に太さのある指を、じっと見つめた。
 マイトさんは痩せているけれど、手は大きくてごつごつしている。二メートルを超える長身を支えるための、骨格がしっかりしているからだ。
 あの手に触れてみたいな……と唐突に思った。
 むっとする湿気を含んだ六月の風が、髪をなぶる。

 ああ、本当に今日はあつい。それが気温のせいなのか、マイトさんといるせいなのか、わからないけれど。

「えっ? くるみちゃん?」

 驚いたような低音が上から降ってきて、わたしははっと我に返った。
 なんということ。わたしの右手が、マイトさんの左手の人差し指と中指を握りこんでいる。
 触れたいと思ったら本当に触れてしまった。どうしよう。これ、相手が悪ければ痴女扱いだ。

「あ、ごめんなさい」
「いや……」

 マイトさんは赤くなっているが、わたしの顔もきっと同じようなものだろう。それでも、この指は離したくない。
 もし彼さえ嫌でなければ、このままでいさせてもらいたい。どう伝えようかと悩んでいると、マイトさんがそっと二本の指を引き抜いた。

 ああ、ふられちゃったなぁ。
 顔を見られないように下を向く。涙がこぼれそうになるのを必死でこらえた。

 けれど次の瞬間、わたしの心臓が大きく跳ね上がった。
 右手全体が骨っぽいなにかで包まれたからだ。マイトさんの大きなてのひらが、わたしの手を覆うように包みこんでいる。

 そのまま二人、無言のまま池の向こうに咲くアジサイを見ていた。梅雨の晴れ間の日差しを受けて、ガクアジサイのほころびがきらきらと光っている。
 この都会の庭園に咲く花を、ずっとこの人と見られたらいいのに。

 と、突然、わたしの手をすっぽり包み込んでいたマイトさんの手が動いた。節くれだった指が、わたしの指の間に入ってくる。お互いの指と指を絡めるようなこの手のつなぎ方は、俗に言う恋人つなぎ。

 心臓が早鐘のように鳴り響いている。苦しいくらいに。息はきちんとできているはずなのに、呼吸困難で倒れそうだ。

 同時に、心の奥底から湧き上がってくる気持ちがあった。
 好き、好き、好き。わたしはマイトさんが好き。

 この瞬間、わたしは覚悟を決めた。

 玉の輿なんてもう知らない。
 かぼちゃの馬車を蹴倒して、ガラスの靴は叩き割れ。

 それでも乙女は夢を見る。

 頬がこけ、眼窩がくぼみ、肉が削げ落ちたマイトさんが、きっとわたしの王子様。

 わたしはついと顔を上げ、シャープな顎を有する人をじっと見つめた。不思議そうに腰をかがめて見つめ返してきた蒼い瞳に、何も言わずに笑顔でいらえる。

 覚悟しておいてね。恋人がいようが、ほかに好きな人がいようが、わたしはあなたを手に入れる。逃げても逃げてもつかまえるから。

 たとえそれが、触れた途端に消えてしまう、逃げ水のようなものであったとしても。

2015.3.11
月とうさぎ