ビーフシチューの味見をしつつ、独りごちた。
コブサラダは冷蔵庫で冷えているし、ガーリックノットはもうすぐ焼ける。あとはマイトさんが帰ってきたらホタテと海老をアンチョビとあわせて炒めれば、今日の夕飯は完成だ。
これはおおむねいつものことだが、マイトさんは帰りが遅い。一線を退いても、あちらこちらと忙しく動き回るのはかわらない。
今日もやっぱり遅いんだろうな、とため息をついた瞬間、驚くべきことに玄関の扉がひらいた。
「ただいま」
「おかえり、早かったのね。――それ、どうしたの?」
出迎えと同時に上げてしまった声。だってマイトさんの手には、白いビニール袋に入ったたくさんの柚子が。
「事務長さんにいただいたんだ。毎年ご実家からたくさん送られてくるらしくてね。先生方もどうぞって」
「ふうん。それにしても、立派な柚子ね」
傷がなく実がぴんと張った、美しい黄色の果実。
これだけあったらいろいろ楽しめそうだ。和食の香り付けにしてもよし、マーマレードにしてもよし、お菓子に入れるもよし、絞ってぽん酢にしてもよし。
「独身のみんなはランチラッシュに渡して調理してもらうみたいだけど、私はほら、家にフードスペシャリストがいるからさ」
「それみんなの前で言ったの? わたしなんて、現場に立ったこともないのに」
「なに、謙遜することはないよ。せっかく取った資格じゃないか」
「そうだけど、ちょっと恥ずかしいな」
マイトさんの言うとおり、わたしはこの秋、フードスペシャリストの資格を取った。
元々栄養士の資格は持っていたが、マイトさんのためにと栄養学の復習をしているうち、フードスペシャリストという資格に興味を持ったからだ。
それにずっと心のどこかでひっかかっていた。つきあう前、マイトさんに「自分の足で立てる女性になりなさい」と言われたことが。
仕事としてやっていくかどうかはまだわからないけれど、この資格取得が大きな自信につながったことは確かだった。
「――ね、くるみ」
「あ、ごめんなさい。なあに?」
「これ、二つもらっていい?」
「もちろんよ。っていうか、もらっていいもなにも、元々はマイトさんがもらった物じゃない」
「そうなんだけどさ、一応ね」
「で、何に使うの?」
「お風呂に入れようかなと思って」
「柚子湯! たのしみ」
「それで、お願いがあるんだけど」
と言いながら、大きな身体をもじもじさせる、わたしのマイトさん。
「なあに?」
「久しぶりに、いっしょにはいろ?」
「ごはんの前に?」
「ウン。だってこんなに早く帰れるの久しぶりだろ。私、明日からまた出張だし」
「うーん」
「ネ、いいデショ? ネ?」
両手の指を胸のあたりで組んで、小首をかしげる大男。
かわいこぶった中年男性なんて気持ちが悪いはずなのに、マイトさんがこうするとめちゃくちゃにかわいい。
昔、わたしは自分をかわいいと思っていたし、いまもまあ、同様に考えてはいるけれど、マイトさんにはかなわない。
このかわいさに抗える人がいたら見てみたい。ちなみにわたしは無理である。
「もー。しょーがないなー」
「じゃ、私先に行ってるね」
全身からハートマークを飛ばしてバスルームへと消えた夫の姿を見送って、目を細めた。
お風呂だけですむかなぁと、心の奥で呟きながら。
***
バスルームに行くと、すでにあかりは落とされていた。
雄英の学生寮と教師寮は外観こそは同じだが、その内装は大きく異なる。
生徒寮は風呂やキッチンが共用だが、教師寮の建物内の共有部分はごく一部。それぞれの部屋にキッチンやバスが完備されており、一般的な集合住宅のようなつくりになっている。
すべてにおいて贅沢なつくりだった前のマンションとは違い、この部屋のバスルームは狭い……というかごくごく一般的なサイズだ。――とはいえそれとは別に職員寮には共同の大浴場もあるのだから、文句は言えない――一般的なのは照明も同様で、前の家のように、バスルームに調光設備まではついていない。
けれどわたしは未だに、明るいところでマイトさんに裸を見られるのははずかしい。
だから二人で入るときはこうして電気を消してもらって、キャンドルのあかりを頼りに入浴するのがおやくそく。
バスルームの扉を開けると同時に、柚子の香りが鼻腔に飛び込んできた。色に例えるなら、この香りはシトラスイエローだ。爽やかですがすがしく、鮮やかな。
柚子を切らずにまるごと入れただけなのに、意外にも強く香るので驚いた。
「いい香り」
「うん。おいで」
両手を広げたマイトさんに、後ろから抱きかかえてもらう形でお湯につかる。
「あったまる……」
「そうだなぁ」
揺れるやさしいキャンドルの炎。それにあわせて揺らぐ、わたしたちのシルエット。湯気とともに立ち上るのは、柚子の香。
キャンドルのあかりのしたで、わたしを抱きしめる腕を見つめた。立ち枯れた柳のような、やや乾燥気味の、長く細い腕。だがこの腕が、世の平穏を守ってきたのだ。何年も、何年も。
そしてこのひとは、未だに世を救おうと奔走している。直接的な戦闘とは、また違ったやり方で。
本当に、とどまることを知らないひと。そんな彼を深く尊敬するけれど、同時に切ない気持ちにもなる。
――と、マイトさんがぽつりと呟いた。
「こういうの、いいよな」
「ん?」
「こうして、薄暗い浴室で、ただただまったりするだけっていうの」
柔らかでどこか寂しげな声と共に、うなじに落とされた、彼の唇。
それはベッドルームで与えられるそれとは異なる、甘えるようなキスだった。
「ずっと、こうしていたいな」
マイトさんはときたまこんなふうに、わたしに甘えることがある。詳しいことは何も言わずに。
彼がなにも言わないように、わたしもなにがあったのかは問わない。ことが重要であればあるほど、隠そうとするひとだから。
「うん。わたしもそうおもう」
だから、マイトさんの言葉に同意して、彼の大きな手の甲に唇を落とした。
なにか、あったのかもしれない。
あるいは、なにもなかったのかもしれない。
いずれにしろ、こうすることで彼が安らげるならそれでいい。
柔らかなキャンドルの炎と共に、揺れるふたつのシルエット。
それがひとつに重なった時、シトラスイエローの香りが、いっそう強くなった気がした。
2020.12.17
夢主のフードスペシャリスト資格取得云々のくだりは夢本「マイトさんといっしょにごはん」でも触れています。もしご興味がおありの方は【夢本通販ページ】へどうぞ。
雄英教師寮の造りは管理人の創作です。
また我々の世界ではフードスペシャリストの試験は年一回、12月に行われますが、このお話の世界では9月と12月の年二回行われる……ということになってます