荒野をくだって

 高層ビルの合間を縫うように、一人、夜を駆ける。
 頭上にはさえざえとした輝きを有する美しい氷輪、見おろした先にはオレンジや金に輝く光の行列。
 この都市は、今日も平和だ。

 かつて私は、人々が安心して暮らせる世を願い、大いなるちからを継承した。その時に抱いた気持ちは、今となっても変わらない。市井の人たちが笑顔でいられることを、そして愛する君がいつも笑っていてくれることを、私は心から願い続けている。

 我々ヒーローの前には、常に荒涼たる野が広がっている。ヒーローが華やかなのは見た目だけだ。その実は、いつも危険と背中合わせ。
 己が倒れたら、背後の人々に危険が迫る。だから絶対にヒーローは市民の前で折れてはいけない。平和の象徴と呼ばれる我が身なれば、なおのこと。

 もちろん、私はそれでいいと思っている。たとえ己が悲惨な死を迎えようとも、それが巨悪の撲滅と引き換えであるならかまわない。自己犠牲はヒーローの本質だ。

「けれど……」

 思わず言葉がこぼれ出た。

 けれどそれは、くるみにとって、どうなのだろうか。

 私はナチュラルボーンヒーローだ。だからなにがおころうと、己の信じる道を往くだろう。この荒野を。平和の象徴という、名誉ある重い看板を背負って。

「いかんな」

 思考が良くない方向に向かったことに気づいて、首を振った。こんなことでは、と息を吐き、スピードを上げた。
 正面にそびえ立つこの都市を象徴するタワーの明かりは、すでに落ちている。
 彼女はもう眠っただろうか。目指すマンションの、最上階の明かりを探しながら、内心でそう独りごちた。

***

 鼻孔をくすぐる甘い匂いに、目が覚めた。甘いバニラに混ざるのは、溶けたバターの芳しい香り。
 重たい身体を起こし、時計を眺める。時刻は十一時三十分。

 なんてこった。もう昼じゃないか。いくら休みとはいえ寝過ぎだぞ。と、己を叱責しながら、寝室を出た。

「おはよう」

 笑顔で迎えてくれたのは、もちろんくるみだ。わがままで気まぐれな、私のかわいい小悪魔だ。だがその小悪魔が、本当は気遣い豊かな優しい女性であると、私はとうに知っている。

「おはよう。いい匂いだね」
「うん。昨日遅かったみたいだから、ブランチは消化にいいフレンチトーストにしたの。おかゆにしようかなって思ったけど、こないだ中華がゆを作ったばっかりだから」
「……ありがとう」

 私には胃袋がない。だから疲労が溜まっている時は、おかずがたくさん並んだ食事が重く感じることがある。くるみはそれを知っているから、栄養価が高く消化にいいものを選んでくれたのだろう。

「もうできるから座ってて。すぐ食べられる? 飲み物は紅茶でいい?」

 立て続けの質問にイエスと応えて自席についた。一枚板のテーブルの上には、自らの写真が大きく載ったニュースペーパーが一部。
 平和の象徴、という文字に目を細め、新聞紙を脇に置いた。と同時に、私の前にスープカップと紅茶が置かれる。スープの中には、柔らかく煮込まれているであろう野菜がたくさん。これもまた、栄養価が高く消化のよいメニューだ。

「さ、食べましょ」

続けてフレンチトーストを運んできたくるみに、ありがとう、と応えて微笑んだ。

「いいにおいだね。おいしそうだ」
「そりゃおいしいに決まってるじゃない。わたしが作ったんだもの」
「……君のそういうとこ、本当にぶれないよね」

 まあね、と胸を張ったくるみのティーカップに、私はひとつ砂糖を落とす。ありがと、と笑んだくるみに、どういたしまして、と静かに答えた。
 そして私は、いただきます、と手をあわせ、表面はカリカリ、中はふわふわのフレンチトーストにナイフを入れる。

「あ、おいし」

 私が感想を告げる前に、くるみがそう呟いた。

「こんなにおいしいものを作ってくれるわたしがいて、あなたはほんとうに幸せ者よね」
「そういうこと、自分で言うかい?」
「幸せじゃない?」
「もちろん幸せだよ」

 片方の眉をあげ、少し呆れたように私は答える。まるでそうじゃないみたいに。
 けれどそれがただの照れ隠しのポーズであるということを、私もくるみも知っている。
 そう、本当に私は幸せ者だ。

 だが、私のことをなんでも知っているようなくるみにも、やっぱり知らないことはある。
 くるみと暮らすこの部屋を、私が心の中で楽園と呼んでいることが、そのひとつ。
 オールマイトというヒーローの前には常に荒涼たる野が広がっているけれど、八木俊典という男の前には常に穏やかな楽園が広がっている。

 それは君が、私のそばにいてくれるからだ。
 荒野をくだったその先に、いつも楽園が待っている。その事実が、今の私を支えている。

2023.1.26

六本木時代のお話なのでもっと前に置くべきなんですが、今はここに置いときます

月とうさぎ