露寒

 まだ話が終わらないんだろうか。
 ゆめさんが「根津先生とふたりで話をしたい」と言って生徒指導室に消えてから、もう一時間近く経つ。

 ため息をついて、戸外に視線を向けた。
 廊下の窓から見下ろす景色は、見慣れたもののはずだ。だがなぜか、今日は初めて見る景色のように感じる。葉を落とした落葉樹というものは、こんなにも寒々しく寂しげなものであっただろうか。
 そう思いながら眉を寄せたその時、生徒指導室の扉が開いた。

「入って」

 根津先生の言葉に従い、私は生徒指導室に足を踏み入れた。そして私が座すと同時に、先生は言った。

「八木くんには、ひとつ約束してもらわねばならないことがあるのさ」
「約束ですか?」
「うん。ゆめさんがもといた場所にもどったら、君の中からゆめさんに関するすべての記憶を消させてもらう。悪いけど、これは決定事項なのさ」
「え……?」

 あまりのことに、返す言葉を失った。もちろん、そういったことができる個性のひとはいる。けれど、他人の記憶を消すだなんて、そんな非人道的なことが許されるはずがない。

「大丈夫。消すのはゆめさんのことだけさ」

 根津先生はすぐ近くにいるのに、ひどく遠いところから声をかけられているような感じがした。先生と私の精神こころには、いまそれほどに距離がある。

「他の記憶は何一つ消しはしないよ。そこは安心してほしい」
「承諾できないと言ったら?」
「……無理やりにでも消させてもらうことになるだろうね。僕も、できればそういうことはしたくない」

 小柄な先生は、そう告げて切なげな顔をした。
 わかっている。根津先生がここまで言うのには、それなりの理由があるのだろう。だからといって、ゆめさんとの記憶を消すことには同意しかねる。
 おそらく、ここで別れたらもう二度と会えないひとだ。せめて思い出だけでも残すことを許してほしい。

「理由をお聞かせ願えますか?」

 うん、と根津先生がうなずいて、ゆめさんの顔をちらりとみやった。彼女は何も言わず、ただまっすぐに私を見つめている。初めて見たときと同じ、印象的な瞳で。

「未来が変わってしまう可能性があるのさ」

 思わず、未来、とオウム返しした。そう、と先生は頷いて、そして続ける。

「ゆめさんは、時空を歪ませる個性によってこの時代に飛ばされてきた、未来の雄英関係者なのさ」

 信じられずに、私はゆめさんを見下ろした。
 未来から飛ばされてきただって? そんな荒唐無稽なことが現実にあるのだろうか。

 だがいまは個性時代だ。空を飛ぶ人もいれば、目の前の先生のように、人類より高い知性を持つ動物もいる。先ほど先生が言ったように、人の記憶を消せる人も。

 かつての夢は現実に。
 実際に私自身も「力をストックし、別の人間にそれを譲渡する個性」によって、人並み外れた力を手に入れている。これもまた、個性時代といえど常識では考えられないことだった。
 それらを踏まえて考えれば、時空をゆがめ人を過去に飛ばす個性があるという可能性は、ゼロではない。

「雄英関係者……ということは、ゆめさんはヒーローなんですか?」

 ゆめさんが静かに首を振った。彼女のかわりに、先生が答える。

「雄英関係者とひとくちに言っても、ヒーローとは限らないのさ。たとえば学校職員にも、教師、事務員、調理師など、いろいろな職種があるだろう? またそれだけじゃなく、職員の身内も広い意味では雄英関係者なのさ」
「……はい」
「将来、八木くんとゆめさんが関わる可能性もあるからね。君の記憶は消さなくてはいけないのさ。未来で君たちが出会った時この記憶が残っていたら、なにがしかの支障が出てしまうだろ? それに君はすでに――」

 先生は言葉を切った。続く言葉がなにか言われなくてもよくわかる。そして「君はすでにゆめさんに特別な感情を抱いているだろう?」という台詞を、あえて言わずにいてくれたことも。

「……わかりました」
「……賢明だね。では、これからのことを話そうか。まず、ゆめさんを元いたところに帰すことは僕にもできない。だから個性が解除されるのを待つしかないという結論に至った。そしてその日が来るまで、ゆめさんには雄英の食堂で働いてもらうことになったよ。ただ住むところがすぐ探せそうにないのさ。生活に困窮した女性を対象とした支援センターもあるけれど、いま入所希望者が多くてね。なかなか順番が回ってきそうにないんだ。僕の所に来てもらうわけにもいかないのさ。だからね八木くん、ちょうどいい住まいが見つかるまで、ゆめさんにはいままで通り、君と一緒に暮らしてもらう」
「……いいんですか?」

 先生の口から出た意外な言葉を、私は少しばかりの驚きと大いなる喜びを持って受け入れた。少しでも彼女と共にいられるならば、私にとってはさいわいだ。

「ただ、ゆめさんと君が一緒に暮らすにあたっては、いくつかのことを約束してもらわねばならない」
「……男女の関係になってはいけないとか、そういうことでしょうか?」
「まあ、それもあるね。でもそれについてはあまり心配してないよ。君は信頼できるから」

 いや、そこまで信じられても困るんだけどな、と思いながらも静かにうなずく。

「なにより重要なのは、彼女に未来さきのことや彼女自身に関することをたずねてはいけない、ということさ」
「あとで記憶を消すのにですか?」
「そう。ゆめさんはいつ向こうに帰れるかわからないからね。知ってすぐ記憶を消せるなら別にいいけれど、期間があると、記憶を消すまでの間に、君が未来を見据えた行動をとってしまう可能性もある。無意識も含めてね。だから、もし聞きたいことがあるなら、必ず僕のいるところでしてほしいのさ」
「わかりました。では早速、いくつか質問をさせてもらっても?」

 根津先生ではなく、ゆめさんを見つめて私はたずねた。

「ゆめ、という名は偽名ですか?」

 ゆめさんははっとして、そして次に、ごめんね、とちいさく呟いた。本名を教えてくれるつもりはないようだった。

 これで、ひとつの疑問が解決した。
 ゆめさんはおそらく、「雄英関係者」であるだけでなく「私の」関係者でもあるのだろう。だからこそ、私の記憶からゆめさんの存在は消さなくてはいけない。残しておいたら、未来が大きく変わってしまうから。

 ゆめさんは私のなんなんですか、とたずねようと思ったがやめた。きっと教えてはもらえまい。ゆめさんがいまだ偽名を使っていることからもそれがわかる。きっとよほどの仲だろう。
 恋人かなにかだったりして、という考えがちらりと浮かんだが、それはないなと思い直した。悲しいけれどゆめさんは既婚者だ。

「ではもうひとつ。ゆめさんは何年先の未来から来たんですか?」

 ゆめさんがチラリと先生を見た。答えたのはゆめさんではなく、またしても根津先生だった。

「三十五年から四十年の間さ」
「……そんなに先なんですか?」

 三十五年から四十年といえば、私は五十代。おじさんもおじさんだ。そんな年齢になった自分など、まったく想像もつかない。だって五十代だぜ。初老じゃないか。

 だがたしかに、四十年近く先の世界から来たのなら、諸々のことがうなずける。昨今の情勢にうとかったのも、小銭しか持っていなかったのも。なぜなら紙幣は、来年にデザインが変わる予定だから。

 ゆめさんは私を見上げて、もう一度、ごめんね、と言った。
 あなたが悪いわけじゃない。謝ることなんかないんだよ。
 そう言いたかったが、言葉にはできず、ちいさく微笑んだ。
 なぜって? あまり考えたくもないひとつの可能性に、気がついてしまったからさ。



 先生と別れ、ゆめさんとふたり並んで歩きながら、私は大きくため息をついた。

「どうしたの?」
「いや、この樹」

 と、頭上の樹を指さした。先ほど廊下から見下ろした、あの落葉樹だ。

「葉がなくなると、ずいぶん寂しいんだなあって思って。夏はすごく立派に見えたのに」
「そうね。プラタナスは葉が大きいから、この時期ちょっと寂しいかもね。でも春にはまた緑の葉をつけるから」

 そこでゆめさんは言葉を切って、私に向かって微笑んだ。

「春になったら、また会えるの」
「また……」
「そう、必ずね」

 なんとなく、庭園樹のことを指しているのではないような気がして、私は足をとめ、ゆめさんをまっすぐに見つめた。彼女もまた、私をまっすぐに見つめている。

 露寒の季節に吹く風が、葉を失ったプラタナスの枝を、かすかにゆらした。
 この葉が緑の葉をつける頃に、またゆめさんと会えるのだろうか。だとしたらそれは、いったい何年先の春なんだろう。そして五十を過ぎているその時の私と、二十代半ばのゆめさんの関係は、いったいどんなものなのか。
 考えたくない可能性がもう一度頭に浮かび、私は静かに目を伏せる。
 十七歳の私にとって、三十五年から四十年という月日はあまりに長く、そして遠い。
 
***

 私はそれから、毎日学校から駆けて帰るようになった。お師匠とのトレーニングの後も、また同様に。
 栄養士の資格を持っているというゆめさんの勤務時間は、食堂の片付けが終わるまで。つまり私の帰宅する時間には、ゆめさんは家に戻っている。だから私は、毎日疾風のように駆け、旋風のように部屋の中へと飛び込んだ。
 家に着いたときゆめさんの姿がなかったらと思うと、ひどく恐ろしかったから。

 ゆめさんの家が決まったという連絡が入ったのは、そんな暮らしが1週間ほど続いた頃のことだ。

 正直、心の底からいやだと思った。ずっとここにいてほしい。
 けれどそういうわけにはいかないことも、私にはよくわかっていた。

 決別が避けられないのなら、私よりずっと華奢なその身体を抱きしめて、そのまま朝まで過ごしたい。けれど、それが許されないことだということもわかっている。
 人には、絶対にしてはいけないことがある。もしも私が思う「考えたくない可能性」が現実のものであるのなら、私がゆめさんに性的な意味で触れることは許されることではない。
 だからひとつの提案をした。

「これから星を見に行きませんか?」

 露が霜に変わりそうな、寒さ厳しい11月の夜だ。思った通り、ゆめさんはすこし微妙な顔をした。

「だってほら、今日は二人で過ごす最後の夜だから」

 ゆめさんは一瞬なにか言いたげな顔をして、すぐにそれを飲み込んだ。

「星なの? 蛍じゃなくて?」
「蛍? さすがにこの時期は無理ですよ」
「ごめん。あなたが蛍に思い入れがあるのを知っていたから」

 私は首をかしげ、ああ、と思った。
 今年の夏、お師匠と蛍を見に行ったことを指しているのだろう。東京育ちの私にとって、蛍の乱舞は珍しくとても貴重な体験だった。
 けれど、それをゆめさんに話したことがあっただろうか。

「今夜、流星群がやってくるんです。雄英の対面にある山の頂上がね、天体観測の穴場なんですよ」

 目的の場所が山の上だと告げると、ゆめさんはまた難しい顔をした。きっと、登るのが大変だとか思っているんだろう。ゆめさんは大人なのに、本当に思ったことが顔に出る。そんなところがかわいいし、そんなところがまた愛しい。

「大丈夫、私が連れて行きます。お姫様抱っこで飛んでいきますよ」
「ん。それなら行く。暖かくしていかないとね」

 にっこりとゆめさんが微笑する。
 ああ、やっぱりそうなのか、と小さく内心で呟いた。

 いまの言葉で、窓硝子に浮かぶ結露のように心に溜まった「考えたくない可能性」が、私の中で確信へと変わった。露が霜になるように、心のひだを凍らせながら。

***

「どうぞ。寒かったでしょう?」

 持参したポットからステンレスのマグに紅茶を注いで、ゆめさんに手渡した。ありがとう、と紅茶を受けとり彼女が微笑む。
 ゆめさんが座っているのは、空気を入れてふくらますタイプのマットの上だ。大きなマットの上にちょこんと座って紅茶をすすっている彼女は、大人の女性のはずなのに、どこか少女のようにも見える。

「俊典くんも座ったら? この毛布一緒に使えばふたりともあったかいんじゃない?」

 またそういうことを、と、私は内心でため息をついてから、ゆめさんの隣に腰掛けた。

「俊典くんは嫌かもしれないけど、寒いからもうちょっとくっつかせてね。ほんと、露寒とはよく言ったものよね。露すら霜になるって……さむ……」

 話しながら、ゆめさんが私に身体を寄せてきた。ぴったりと。
 私にとって刺激的にも感じられるこの行為は、彼女にとって特に深い意味はない。ふたりいるのだから、くっついていたほうが暖かいという、ただそれだけのこと。

「ゆめさん」
「なあに?」
「ゆめさんのご主人ってどんな人?」
「前もその話しなかった?」

 したね。でもさ、聞きたいんだ。あなたの愛した人がどんなひとなのか。

「教えてよ」
「……優しくて、とても強い人。力がどうこうってだけじゃなくて、心のあり方って意味でも、彼より強い人を私は知らない」

 ぽつりともらしたゆめさんのその表情が、あまりにもきれいで、私は唇を噛んだ。このひとにこんな顔をさせているのは、私ではない。

「その優しいご主人はさ、ゆめさんが私とこうしているの知ったらどうするかな」
「しょうがないって笑う気もするし、意外と大人げないとこもあるから、すねちゃうような気もするわね」
「すねるの? 怒るんじゃなくて」
「怒ることはないかな。相手があなただし」
「……やっぱり……そうなんですね」

 心のひだに生じた露が、また凍りつく。寒い晩秋の夜、露が霜になるように。

「そうってなにが?」
「いや……。これは多分、聞いちゃいけないことだろうから」

 するとゆめさんは、口を思い切りへの字に曲げた。

 なんて顔をしているんだよ、大人のくせに。
 いや、でも、私とあなたの関係性を思えば、それもしかたのないことか。
 だってそうだろ、ゆめさん。あなたは私の娘なんだろ?
 だからあなたのご主人は、あなたが私と暮らしても、怒ったりはしないんだ。

 ゆめさんが私の娘だと思えば、すべてのことがうなずける。彼女が私に対してとことん無防備だったのも、私の名前を知っていたのも、一時的に彼女が私の家に住むことを根津先生が是としたことも、きっとそのため。
 ゆめさんがことあるごとに私に「若い」と繰り返したのは、若くない私を知っているからだ。

「俊典くん」

 ぽつり、とゆめさんが呟いた。彼女はどこか逡巡しているようすだった。だから私は、手にしている紅茶を口元へと運びつつ、ゆめさんの言葉を待った。

「勘違いしてるみたいだから、言っておくけど」
「はい」
「私、あなたの娘じゃないから。だいいち、成人している女が、実の父親にこんなべったりくっついてたら変でしょ」

 驚いて、私は紅茶をふきだした。それはもう盛大に。

「あー、もう」

 気をつけて、と姉のような口調で告げたゆめさんが、私の濡れた口元を拭いてくれる。こんな時にまで「こういうの悪くないな」なんて思ってしまうのは、悲しい男の性かもしれない。

「やけどしなかった?」
「大丈夫です……それより……」
「ああ、いま言ったこと? そうよ。わたしあなたの娘じゃないの」

 と、ゆめさんはもう一度、たたみかけるように言った。

「ほんとに? ほんとに私の娘じゃないの?」

 じゃあ手を出しても良かったの?と続けかけ、ギリギリのところで思いとどまる。思うことはセーフでも、口に出したらこれはアウトだ。

「じゃあ、姪っ子とか?」
「父親にくっつく娘が変なら、叔父にべったりくっつく姪も変でしょ」
「……じゃあ、あなたは私の何なの?」

 するとゆめさんがふうと息をつき、さあなんでしょう、と挑発するようにこちらを見上げた。
 くそ、年上の小悪魔め。

「それより俊典くん」
「なんです」

 かなり不機嫌な声で、私は答えた。

 それよりってなんだよ。いまの私には、あなたと私の関係性を知ること以上に大事なことなんてないっていうのに。

 いらだちながらゆめさんを見つめ、そしてぎょっとした。ゆめさんの存在が、先ほどよりもずいぶんと薄くなっているように感じたからだ。

 私たちの関係を知ることよりも重要なことが、いま、ここで起きようとしている。

「なんか、私の身体へんじゃない?」
「……うん」
「わかる? なんか、実体がなくなってくような、そんな感じがしてるの」

 ほら、と、ゆめさんが、ブランケットの上に手のひらをかざした。
 それを見て、全身の毛が逆立った。
 信じられないことに、手のひらを梳かして、ベージュとグリーンのタータンチェックが見えている。

「こっちに来るときも、こんな感じだったんですか?」
「ううん、一気だった。階段から落ちて、気がついたらこっちに。でも来る時と帰る時とでは違うのかもね」

 私はゆめさんの肩に手を回し、そのまま抱きしめた。
 このひとは本当に不思議だ。つまらないことでわあわあ騒ぐくせに、こんな重大な時に、こんなにも冷静に話せるなんて。

「個性事故で一時的に若返った人なんかもそうだって言うじゃない。若返るのは一瞬だったけど、戻る時は数時間かけてじわじわ老けていったって。それと同じなんじゃないかな」
「……そんな……」

 腕の中にいるゆめさんの身体が、人間の肉体とはやや異なるたよりないものに変化していくのがわかった。見た目もそうだ。色や形がどんどん薄れていく。
 それなのにどうにもできないことが、とても悔しい。

「ゆめさん……気分が悪かったりはしませんか? 大丈夫ですか?」
「うん。ちょっとへんな感じはしてるんだけど、それだけよ。でも俊典くんと一緒の時で良かった。だってほら、こうしてぎりぎりまでお話していられるじゃない?」
「そんなのんきな言い方、やめてくれよ!」

 叫びと同時に、同時に涙が一気にあふれ出した。
 それを見たゆめさんが、困ったように眉を下げる。

 くそ、くそ、くそ。これじゃあまるで子どもじゃないか。
 もっと余裕を持って、別れの時を迎えるはずだったのに。
 元の世界に帰る彼女を、笑顔で送り出すつもりだったのに。

「なんだか、いつもと逆ね。帰る時が来たから教えちゃうけど、いつもはね、わたしがあなたにわがままを言って、あなたはしょうがないなって笑ってくれるのよ」
「いつも?」

 そう、とゆめさんがうなずいて、静かに続ける。こうしている間にも、ゆめさんの姿からはどんどん色とかたちが失われていく。

 なんて情けないんだ。
 好きな人との最後の場面で、気の利いた言葉ひとつかけられず、子どもみたいに涙を流し、洟をすすることしかできないなんて。

「オールマイト」

 と、彼女は私のヒーロー名を呼んだ。
 もちろん、私は彼女にこの名を教えたことはない。

「……あなたは、ヒーローになった私を知っているんだね?」
「ええそうよ。とてもよく知ってる。っていうよりね、この国であなたを知らないひとはいない。あなたはすべてを救う者オールマイト。未来の平和の象徴」

 ゆめさんが愛おしげに私の頬を撫でた。触れる指の感触はかすかにあるのに、彼女の手はすでに、うっすらとした輪郭のようなものにしか見えなかった。

「やっぱり、いまはお肌がすべすべなのねえ」
「未来の私の顔に、触れたことがあるの?」
「ええ。もっと乾燥してて、皺っぽい」
「……教えて。あなたは私のなに?」

 うふ、と、彼女は笑った。

「わたしの名前はね、八木なまえ」
「……なんだ。やっぱり娘なんじゃないか」
「娘じゃないわよ。でも身内」
「なんだよそれ。はぐらかさないでちゃんと教えてくれよ」

 また、ゆめさんが笑った。いや、笑ったようだった。彼女の姿はすでに、靄のようなものになってしまっていたから。
 何もできないことが悔しくて、彼女を失うことがかなしくて、私はその靄に唇を寄せた。

「そのキスは、未来のために取っておいて」

 ゆめさんであった靄が、露寒の空気のなかへ溶けてゆく。

 いやだ、いやだよ。行かないで。

「大好きよ、マイトさん。いままで一緒にいてくれてありがとう」

 え、と私は目を見開いた。
 マイトというのは、ゆめさんが寝言で呟いた、彼女の夫の名のはずだ。

「マイトさんって、私のこと?」
「そうよ。未来のあなた。わたしと初めて会った時に、あなたがそう名乗ったの」

 だから、と彼女が静かに告げる。

「未来でわたしを見つけてね。必ずよ」

 その言葉と共にゆめさん、いや、なまえさんは、私の元から姿を消した。完全に。匂いすらも残さずに。






「なんだよ、マイトって。もしかして、オールマイトのマイトかよ……」

 ぐす、と洟をすすり、涙を拭いながら独りごちる。

「未来の私は、なんでそんな名を名乗ったんだよ……」

 地面に落ちたステンレスのマグを拾い上げた。露寒のおりだ。中身もカップも、すでに冷たくなっている。

 なまえさん。強引で気まぐれな、子猫みたいな年上のひと。
 朝になったら、私の記憶は消されてしまう。だからきっと、あなたのことはなにもかも忘れてしまうのだろう。けれどそれでも――。

 それでも私は、未来で必ずあなたを見つけ、そしてあなたを愛するよ。
 だから、いつか……いつか必ず、一緒に流れる星を見よう。
 はるか遠い、未来の夜に。

2021.12.3
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月とうさぎ