恋人の口から出た言葉を復唱しながら、豊満はあんぐりと口を開けた。
「うん」
「いや、埋もれ券てなんやねん」
「だから、太志郎のお肉に埋もれさせてもらえる券。回数券みたいになってて、渡したらいつでも太志郎のおなかに埋もれさせてもらえるの」
そう言って、豊満の恋人であるなまえは、花のように笑んだ。
「……父の日の肩たたき券やないねんから……ホワイトデーやで、もうちょっとこう、色気っちゅーかしゃれっけっちゅーか、そういうのんはないんかい」
「うーん。でもわたし、太志郎に埋もれる権利が欲しいのよね」
そんなんいつでもさせたるわ、と心の中で呟きながらそれでも豊満は考える。
本人が欲しいというのならいいのかもしれないが、もらったものを思い出すと、さすがにそれはどうだろうと。
バレンタインに、豊満はなまえから高級チョコレートをもらっている。驚いてしまうくらい美味なるチョコレートだった。あれは安い物ではなかっただろう。
だからそれに見合うくらいのお返しはしてやりたい。そう思うのが男心だ。
しかし豊満にはホワイトデーに苦い思い出があった。プロ一年目の時のことだ。当時つきあっていた彼女にマシュマロをあげたら、泣かれてしまった。なんでも、マシュマロにはあなたが嫌いという意味があるとか、ないとか。
当時、豊満はまだ若かった。いや、青かった。だから思ったことを、つい口に出してしまった。
「あほか。嫌いな人間にわざわざお返しなんかするかい」と。
豊満が若ければ、相手も若くそして青かった。
そこからケンカに発展し、どちらも引くことなく、結局そのまま、青すぎた恋は終わった。
もちろん、豊満はすでに大人である。率直でストレートな物言いをすることはあるが、思ったことをすべて口にするほど青くはない。だから同じようなことにはならないだろうが、それでもややこしいことになるのはやはり避けたい。
だから何が欲しいかたずねたというのに、我が恋人はこの豊満なお肉に埋もれる券なるものが欲しいのだと言う。
「まあ、おまえが欲しいっちゅうなら、やらんでもないけども……」
「ありがと。大好き」
両手をひろげてなまえが抱きついてきた。豊満のそれよりも遥かに小さく細い身体が、肉の間にもふっと埋まる。
これも埋もれるっちゅーこっちゃないのかい。券なんかなくとも、おまえいつでも俺の腹に埋もれに来とるやんか。
豊満はそう思ったが、それは口には出さなかった。
***
「ほい」
「え?」
「豊満太志郎さんより、みょうじなまえさんに埋もれ券365回分のプレゼントです」
なんだかんだ言っても、豊満はこういうお遊びがきらいではなかった。わざわざ印刷会社に発注して作ってもらった「埋もれ券」だ。
「存分にお楽しみください」
告げながら、オレンジイエローのソファに身をあずけたなまえに紙の束を手渡す。と、彼女は大きく目を見開いた。
「なに驚いとんねん。欲しいゆうたんはなまえやろ」
「言ったけど……」
けどってなんやねん、と口に出しそうになり、豊満は思いとどまった。
なまえの顔が輝いたからだ。
そういえば、と豊満は思う。自分がプレゼントしたものになまえが不満を漏らしたことは、未だかつて、一度もなかった。
「だって……こんなに! こんなにいいの?」
「ああ、もう、好きに使いや」
満面の笑みを浮かべるなまえに苦笑を返しながら、隣に腰を下ろした。自身の体重をかけてもきしみひとつあげない、大きなこのソファは、豊満のひそかなお気に入りでもある。
「ありがとう太志郎、大事につかう」
「せやけど、おまえはほんま欲がないな」
「そう?」
豊満は人気ヒーローだ。全国区では五十位代であるが、関西地区のランキングなら十位以内に必ず入る。その年収は同世代の男の数倍。だからこそ、人気エリアに自らを模した自社ビルも持てる。
なまえも、それはわかっているのだろうに。
「せやからな、そんな無欲ななまえさんに、太志郎さんからもうひとつプレゼントがあります」
「なに? たこ焼き?」
「なんでたこ焼きやねん。そこはせめてマカロンとか花の形のラングドシャとか言うとこちゃうか?」
「だってわたし、太志郎のたこ焼きが大好きだから」
「ファー!」
耐えきれず、吹きだしてしまった。
まったく、と豊満は笑いながら思う。
俺はきっと、こいつのこういうちょっとずれててとぼけたところが好きなんやろう、と。
「そんなに笑うとこ?」
「いや堪忍な。まあ、一緒に食うっちゅう点では、たこ焼きもこれもたいしてかわりないかもしれへんな」
パーカーのポケットの中からプレゼントを取り出した。豊満の大きな手の中には、筆記体でSとEの文字が入った紺色の箱がある。
「コスメ?」
「せや」
ちいさな手――おそらく女性としては普通サイズなのだろうが、豊満から見れば大抵の女性の手はとても小さく見える――が箱を受け取りリボンをほどく。出てきたのは金色の蓋にローマ字でなまえの名が刻まれた、ベージュピンクのリップスティック。
「わ、これ人気色」
「さよか」
「わたしがここの口紅好きなの、知ってたの?」
「さぁ、どやろなぁ」
豊満は世の男性同様、化粧品にはうとい。だが職業がら観察力はかなりある。以前なまえが泊まりに来た時の朝、同じメーカーの口紅を使っているのを横目で見ていた。それを覚えていただけだ。
「……つけてみてもいい?」
「そらもちろん、ええに決まっとるやんか」
きゅ、と中身を繰り出してつけると、小さな唇――これも豊満と比べての話である――が、艶をふくんだ淡いピンク色に彩られた。
「かわいいやんか」
「ありがとう。でもこれ、口紅よね。食べるものじゃないよね」
「口に入れば同じやんか。こうやって」
豊満は大きくかがみ込み、ピンク色のくちびるにちゅっと音をたててキスをした。
「ごちそーさん」
「ばっ……」
不意打ちのキスに真っ赤になって、ぽかぽかと腹を叩いてくるなまえがかわいい。つきあって数ヶ月経つというのに、こういう初々しいところは変わらぬままだ。
「あほうやな、おまえの攻撃なんか効くかい。こちとら沈ませ屋さんのファットさんやで。どんな攻撃もこの身体に沈ませたるっちゅーねん。せやけどな、なまえ」
なまえをひょいとかかえあげ、目線の高さを合わせた。
「なに?」
「俺な、めちゃめちゃおまえが好き」
こつん、とおでことおでこをくっつける。
するとゆでだこみたいに顔を真っ赤にしたまま、なまえは「わたしも太志郎がだいすき」と呟いた。
「せやから、ほんまは券なんかなくとも、おまえはいつでも俺に埋もれてええんやで」
抱きしめながらささやくと、なまえはちいさくうなずいて、そしてそっと目をとじた。
大きくて丈夫なソファを選んでよかったと思いながら、豊満はもう一度、ベージュピンクのくちびるを食む。
2021.3.14
2021年 ホワイトデー
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