冬の星座

「なまえちゃーん、今日俺に渡すもんない?」

 大きなアルミの急須を手に近づいてきたなまえに、おどけて声をかけた。からかいと本音が入り交じった言葉は、バレンタインチョコの催促だ。

「あるある。はいどうぞ」

 じゃじゃーっという音をたて、湯飲みに注がれたのはほうじ茶だった。

(いや、これお茶やん)

 さらりと躱されてしまったことに気づき、ファットは内心でため息をつく。

(嫌われてはいないと思うんやけどな)

 むしろ好かれてるのではと思う節すらある。伊達に三十年近く生きちゃいない。相手に気があるかないかくらいは見極められる。その程度の場数は踏んできたつもりだ。
 互いを憎からず思っている定食屋の常連とアルバイトの学生、という関係を一歩進めたくて、バレンタインの日の閉店間際に店を訪れてみたのに、このていたらく。憎からず思ってはいるけれど、今のところは積極的に距離を詰めたいと思うほどではない。そういうことか。

(まあ……焦ってもしゃーないし、のんびりいこか)

 心の中で小さく呟き、なまえが淹れてくれたお茶を、ぐっと飲み干した。熱いほうじ茶は、身体を芯から温めてくれる。

「ごちそうさん」

 と厨房に声をかけ、席を立つ。のれんの隙間から顔を出した大将に「今日もうまかったで」と感謝の意を告げ、会計をすませ外に出た。

(しっかし残念や。義理チョコくらいはもらえる思とったんやけどな)

 先ほどなまえに渡されたおつりを握りしめ、再び大きく息をついた。
 ごう、と真冬の寒風がファットの上に吹きつける。身を切るような冷風にフードをかぶり直すと、背後から、聞き慣れた声が追いかけてきた。

「ファット!」

 この声を聞き逃すはずもない。なまえだ。

「おう。なまえちゃん、どないしたん?」
「ごめんなさい。おつり、間違えてしまって」
「お、そら気づかんかったわ」

 釣り銭を確認し忘れるなんて情けない。何が情けないって、それだけ今日という日に翻弄されて、気もそぞろだったところがだ。

「ごめんね」

 すまなさそうに眉をさげ、なまえが不足分のおつりを差し出した。おおきにと受け取ったが、なまえは目を潤ませて、なにか言いたげにこちらを見上げたまま動かない。たかが釣り銭を間違えたくらいで、そんなに恐縮しなくてもいいのに。

「ホンマにな、ちゃんと確認せえへんかった俺も悪かったんや。わざわざ追いかけてきてくれておおきに。そのカッコじゃ寒いやろ。早よ戻り」

 うん、とうなずいたなまえが愛しい。寒そうにまるめたその身体を、抱きしめてしまいたい。

「ファット……!」

 よからぬことを考えたその瞬間、なまえがエプロンのポケットから取り出したものをファットに手渡した。大きく分厚いてのひらの上にちょこんと乗せられているのは、赤いリボンがかかった小箱。

「今日はバレンタインだから……よかったら食べて」

 恥ずかしそうに、なまえが頬を染める。
 いやこれいけるんちゃうか、とファットが思ったその刹那、聞き覚えのあるダミ声が響いた。定食屋によく出入りしている、近所のおっちゃんだ。

「なんや、自分らできとったんか! 知らんかったわ!」
「や、できとったっちゅうか……」

 まさに今からでけるとこ、と返そうとしたところを、なまえの声が割って入った。

「違うの! これはお礼だから! いつもお世話になってるお礼! それ以上でも以下でもないんだからね! おじさんもファットもわかった?」

 早口でそうまくし立て、なまえがまた、大きく眉を下げる。

「なんや、本命やないんか」
「そうだよ。本命チョコだったらこんな往来でなんか渡せないよ」

(せやったら、なんでそない悲しそうな顔しとんねん)

 いや、悲しそうに見えるのは、やっぱり男のうぬぼれか。がっかりしながら「お礼でも嬉しいわ。おおきに」と告げるとなまえは「うん。それじゃ……」と残して、小さな身体を翻す。そしてファットよりはるかに小さく華奢な身体は、夜の雑踏へと消えた。

「……じゃましたみたいで悪かったなぁ」
「いや、まァ……ぼちぼちやろ。気にせんといて」

 ほろ苦い笑みを返し、ファットは事務所へと歩を進める。まだ仕事は残っているのだ。軽く息をついて、手のひらの中の小箱を見つめた。淡い色の包装紙と赤いリボンがかわいかった、あの子みたいに。

(……や、リボンのかたち、ちょおいびつやな)

 まさかな、と、独りごちながら路上で箱をあけた。
 白い箱の中には、トリュフチョコがみっつ。チョコは綺麗な球体ではなく、やっぱり少し、いびつな形。これはどうみても手作りだ。

「………………いやこれ、義理装った本命チョコちゃう?」

 いや、手作りだから本命だなんて、これもまたうぬぼれ男の発想か。世の中には友チョコなるものもあるというし、それらを手作りする層もまた少なくはないと聞く。だが、…………それでも。

「まったく脈ない、っちゅうことやないよな……きっと」

 ひときわ強い風が吹き、電線がうなりを上げる。寒さを倍増させるエオルス音を聞きながら、それでも心は温かかった。
 身も凍るようなこの時期は、乾燥していて吹き来る風も強く冷たい。けれどそのぶん空気は清い。他の季節よりまたたく星は綺麗に見える。
 ファットは、空を仰いだ。見上げた先には、繁華街の人工のあかりに負けじと輝く、ひときわ目立った星みっつ。
 オリオン座のベテルギウスと、おおいぬ座のシリウスと……。

(あとひとつ、何やったかな)

 最後の星の名は思い出せないが、ともかくも、あの三つの星は、この季節を代表する星座。

(空には三つ星。ほんで、俺の手の中には三つのチョコか)

 いびつな形のトリュフチョコをひとつ、口の中に放り込んだ。

「甘」

 いつか自分となまえの関係も、このチョコのように甘いものになるといい。いや、きっとそうしてみせる。

「せやから、お星さまたちも見守っててや」

 きらめく三つの星を仰ぎながら、ファットは大きく微笑んだ。

2023.2.14

前出の「両片思い」のふたりです

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