私の目覚めは、痛みで始まる。
これは睡眠の質や普段の姿勢の問題ではなく、長年に渡って無理を重ねたせいだ。ベッドから起き上がろうとするだけで、関節が、筋肉が、内臓が軋みをあげる。むろんこの痛みはずっと続くわけではなく、身体が温まり血流がよくなれば自然に消える。
これはもう、何年も前から続いていることだ。
それでも、平和の象徴たりえるために無理を押してきたことに、私は何の後悔もない。
いやそれどころか、ワン・フォー・オールの残り火が消え、戦うことができない身体になった今となっても、私は考え続けている。この身にまだできることはないのかと。
痛む身体をごまかしながら、枕元の端末を手に取った。留守電が一本入っている。
それは少し前に、某所に開発を依頼した案件だった。
***
「冷えますね。お疲れ様です」
寮の入り口で、相澤と鉢合わせた。
「相澤くんこそ毎日大変だろう。なに? 君も今帰宅?」
「いえ。俺は職員室に忘れた書類を取りに戻っただけです」
「エリ少女は?」
「訓練疲れでぐっすりですよ。ですが、順調です」
「それはなにより」
答えながら扉を開けて、中へと入った。
エレベーターに向かうには、必然的に食堂の前を通らねばならない。さりげなく厨房の中に視線を走らせると、ちょうど上がり時間だったのだろう。シェフキャップを外していたみづきと目が合った。
食堂にはうっすらと香味野菜と共に煮た牛肉の香りが残っている。今日の夕飯はビーフシチューかワイン煮込みあたりか。そう思ったとたん、途端に腹が空いてきた。
みづきは年末に一日だけ帰省しただけで、年明け後もずっと雄英の寮につめてくれている。おかげでこちらは遅くなっても美味しい食事をいただけるのだが、さすがに就業時間を過ぎた今、それをお願いするわけにはいかない。
自室にレトルトかなにかあったかな、と棚のラインナップを思い起こしていると、こんばんは、と、みづきに声をかけられた。
「夕方食べそびれちゃったんで、これからブフ・ブルギニョンで遅めの夕飯にする予定なんですけど、よかったらお二人もいかがです?」
「え? でも君もうあがりだろ?」
前もこんなことあったな、と思いつつそう言った。彼女がどう答えるかわかっているくせに、私はどうにも甘えている。
「ええ。でも食器の洗浄は機械がやってくれますし、下げるだけなら一人分も三人分も大差ありません。それに、独りで食べるのも味気ないので」
「じゃあ、お言葉に甘えていただこうかな。もちろん自分の分の食器は自分で下げるよ。相澤くんはどうする?」
「寝ているとはいえ、壊理ちゃんを一人にしたままですので、今日は自室に戻ります。香久夜さん、いつもお気遣いありがとうございます」
いつも、という言葉に引っかかりを感じ、眉を上げた。
先週この時間に戻ったときは、みづきとミッドナイト、それにマイクとセメントスの四人で仲良くワインを空けていた。ちなみに私はその時も声をかけてもらったが、疲れていたので辞退した。だからみづきが仕事あがりに居合わせた誰かと飲んだり軽い食事をとったりすることは、そう珍しいことではない。
だが、いま相澤が告げた「いつも」には、それとはまた違うニュアンスが含まれているような気がする。そう思った瞬間、私の胸の奥に、ちいさな黒い靄が生まれた。
そんな私の心境など知る由もなく、ふたりは会話を続ける。
「先日はパンケーキをありがとうございました」
「いいえ。一緒に作れて楽しかったですわ」
ちょっと待て、いま、一緒に作ったって言った?
作ったの? パンケーキを? 相澤くんと? ふたりで?
「こちらこそです。クリスマスのクグロフだけでも申し訳ないのに。あれからずっと、みづきさんの作るお菓子の虜ですよ」
「お口にあってよかったです。実は少し不安だったんですよ」
黒い靄が、一気に心中で膨れ上がった。
この感情は一体何だ、と思いかけ、すぐに嫉妬だと気がつき、驚いた。誰かを妬むことなんて、自分には無縁だと思っていたのに。
「オールマイトさん、どうかされました?」
「いや」
彼女の問いに答えた己の声が、存外に険を含んでいたので、私はまた驚いた。それでも我慢ができなくて、私は自分の中に生じた疑問を言の葉に乗せる。
「……クリスマスのクグロフ、相澤くんにも焼いたのかい? ああそれとも、相澤くんだけじゃなく、ほかのみんなにも?」
「いや。たぶん、焼いてもらったのはうちとオールマイトさんだけじゃないですかね。そうでしょう?」
みづきの代わりに相澤が答え、彼女もそれに「ええ」といらえた。
相澤はなぜか面白がっているようにも見える。だからだろうか、それに返した「ふうん」という声は、意図せず不機嫌そうなものとなってしまった。
そんな私の返答に思うところあったのか、みづきがなにか言いたげに視線をよこす。と、そこに愉快そうなバリトンが追いかけてきた。
「壊理ちゃん『コックさんと一緒にパンケーキを作ったの』ってすごく喜んでました。本当に、いつもありがとうございます。つらい経験をしてきた子なので……」
「ええ。素直でかわいい子ですし、たくさん楽しい思いをさせてあげたいですよね」
「ご協力、痛み入ります」
「あとエリちゃんが訓練で疲れているようなら甘いものを出したりもできますので、いつでもおっしゃってください。夜はプリンなんかいいかもしれませんね。卵を使うので栄養価も高いですし、消化も良いので……」
「ちょ……ちょっと待って!」
会話の様子がおかしいことに気づいて、割って入った。
「……ひとつ聞くけど、もしかしてクグロフをもらったのも、一緒にパンケーキを焼いたのも、相澤くんじゃなくてエリ少女?」
「「ええ。そうですけど」」
ふたりの声が重なって、私は小さく吐血した。
うわ、なんてこった。勘違いしてヤキモチを妬くなんて、こんなに恥ずかしいことはない。
恥じ入りながらあたふたしていると、相澤がこちらを見やって小さく笑んだ。まるで「背中押しますよ、元ナンバーワン」とでも言うように。
「それでは、壊理ちゃんが心配なので、俺はこれで」
「ええ、おやすみなさい」
「おやすみ」
三人三様に言葉を紡ぎ、相澤は自室へと戻っていった。
私とふたりきりになったみづきは、またしてもこちらを見て何かいいたげな顔をしたが、結局何も言わずそのまま厨房へと向かい、数分後に湯気の立ったトレイを手に戻ってきた。
トレイの上には、いい香りのブフ・ブルギニョンが二皿。薄く切ったバケットも添えてある。そしてそれぞれの飲み物は、赤ワインと丁寧に淹れられた薄めの紅茶。
「どうぞ」
「うん。いただきます」
両手を合わせてそう告げる。大きめにカットされた牛肉にスプーンを入れると、繊維にそってほろりと崩れた。やわらかな肉とマッシュルームをスプーンに載せて、いざ一口。
「……うまい。前にうちで作ってもらったのもうまかったけど、こっちはなんというか、格段にうまいね」
語彙力ゴミか、と心の中で己にツッコみつつ、ブフ・ブルギニョンを口へと運ぶ。本当に実にうまい。この時間に肉の煮込みは重いかとも思ったが、ぜんぜんそんなことはなく、さらりと食べられる。
「ありがとうございます。いつもはランチラッシュのレシピなんですが、今回はフレンチのメニューなので、わたしのレシピでやらせていただきました。これね、半日以上ワインにつけ込んであるんですよ。そのあとじっくり火を入れました」
「時間と手がかかってるんだね。これにバケットがまた合うな」
「マッシュポテトや固めに炊いたバターライスなんかも合いますよ」
「ああ〜、それ絶対美味しいやつだ」
熱い煮込み料理に、一月の風で冷えた身体がゆっくりと温められてゆくのを感じ、ふうと息をついた。
ふふ、と微笑みながら、みづきも私同様に、ワインで煮た塊肉を食べ進める。
次いで彼女はクリスタルのワイングラスに唇をつけた。紅の塗られていない唇はおそらく牛肉よりやわらかく、そして弾力があるだろう。それに触れてみたいと思うと同時に、不謹慎な発想をした自分に呆れ、そっとみづきから目をそらした。
「なにか?」
「いや、おいしそうに飲むなと思ってね」
さすがに本当のことは言えないので、ごまかすようにそう告げる。と、最後の一口を食べ終えた彼女は小さく笑って、「実際美味しいですしね」と静かにいらえた。
この瞬間、切実に思った。酒を飲みたいと思ったことはあまりないけれど、このひとと共に、同じものを飲んでみたいと。
「あのさ」
「はい」
「いつかまた平和な世の中になったらさ、このお料理で赤ワインを飲んでみたいと思うんだ。私は胃袋がないから、ほんのちょっぴりになるだろうけど」
「あら、その時はぜひ、わたしの作ったブフ・ブルギニョンでお願いします。またわたしにオールマイトさんのはじめてをくださいね」
「だからさあ、その言い方やめてって」
汗をふきつつそう答えると、からかうように笑まれた。だからこの時、私が少しばかりやりかえしたい気持ちになったのは、責められることではないだろう。
「君のはじめては誰とだったの? もちろん、お酒の話だよ」
「……たしかにそういう言い方をされると、ちょっとセクハラっぽいですね」
「だろう?」
だが言うほど不快ではないようで、みづきは軽く肩をすくめ、目だけで笑んだ。
「初めてのお酒は二十歳の誕生日に。調理師学校の同級生とお祝いがてら飲みました」
「みんなで?」
「いや、二人でしたね」
少し困ったようなその顔にピンときた。男か。
「それはちょっと……いや、すごく妬けるね」
私がそう告げた途端、みづきが片方の眉を高々と上げた。
それは古き時代のハリウッド女優を彷彿とさせる、見事な表情。
「オールマイトさん」
「なんだい?」
すると彼女はゆっくりと微笑んだ。が、その目が笑っていない。
あれ、と思った。
なんだか不穏な空気だ。私はなにか、変なことを言っただろうか。
「みづきさん、もしかして怒ってる?」
「怒ってませんよ」
「うそだ。君、絶対怒ってるだろ」
「……じゃあ言いますけど」
するとみづきはきりりと柳眉を逆立てた。
美女が怒るとけっこう怖い。思わずごくりと息を飲む。
「いつもそうやって、気を持たせるようなことしたり言ったりするの、どうしてなんですか?」
思ってもみなかった言葉に、答えに窮した。するとたたみかけるようにみづきは続ける。
「さっき相澤先生とお話してる時も思ったんですけど、あれって完全にヤキモチですよね。わたしの勘違いだったら本当に恥ずかしいですし、申し訳ありませんが、もしかしてオールマイトさん、わたしに気があるんですか?」
包丁で野菜を切るようにすぱっと言われて、私は固まってしまった。確かに彼女の言う通りだ。身に覚えはおおいにある。
「前から気になってて、いいかげんはっきりさせた方がいいと思ったので、思い切っておたずねしました」
違うんだ、と言おうとして、それはだめだ、と思い直した。
さきほどのあれはどうあがいても嫉妬であるし、彼女に対する気持ちを否定したら嘘になる。
私はオールマイトだ。都合の悪いことをあえて言ったりはしないけれど、平和の象徴は嘘をつかない。ついてはならないと思って生きてきた。
そして私は、この時はたと気がついた。
みづきの個性は嗅覚に関するもので、警察犬のように鼻が利く。だが彼女にはもうひとつ、個性でできることがあった。それは汗や体臭に混じるかすかな成分から、自分に対する相手の感情を読みとくこと。
個性を使えば、私の気持ちなど簡単に分析できたはずだ。けれどおそらく、彼女はそれをしていない。
「……そういうの、君の個性を使えばわかるんじゃない?」
「質問に質問で答えるのはずるいです」
「悪かった。確かにそうだね。ただ疑問だったからさ。無資格者の個性使用は禁じられているけれど、人に迷惑をかけないようなものなら、黙認されているだろう?」
「それはそうですが……しませんよ。自分に危険がないか確認するためならともかくとして、さしたる事情もなく他の人の感情を勝手に読むことは、人としてしてはいけないことです」
凜とした声に、強くまっすぐなまなざし。
ああ、まごうことなくこのひとは。と、私は思わず目を閉じる。
閉ざされた視界の奥に、厳しい雪山が見えたような気がした。人の手の届かぬその頂にひっそりと咲くのは、高貴なる白、エーデルワイス。
そうだ。この高潔なる魂があってこそ、私は君を愛したのだ。
だからこそ私は、今この場を、いい加減な言葉でごまかすわけにはいかない。
「オールマイトさん?」
「ああ……。すまない。そうだね、君の言う通りだ」
軽く息をついて、彼女を見つめた。
「そういうまっすぐなところも含めて、私は君が好きだ」
ぱっと花が咲くように、みづきの表情が明るくなった。だがすまない。私はその期待に応えることは、決してできない。
「あの、いい年をして中学生みたいなこと言いますけど……わたしもオールマイトさんのことが好きです。だからとても嬉しいです」
うん、私も嬉しいよ、と内心で答える。しかし、だからといってどうにもできない。
君は私のエーデルワイスだ。高貴なる白い花を、悪の手で枯れさせるわけにはいかない。
だから私は居住まいを正し、まっすぐにみづきを見つめた。
「私も、君が私と同じ気持ちでいてくれたことはとても嬉しいよ。でもね、私は君と特別な関係になることはできない」
みづきの表情がとたんに陰った。
彼女が手にしているワイングラスの内壁についた液滴が、幾重にも連なり伝い落ちる。それはまるで、天使の流す涙にも似て。
「……もしご事情があるのなら、それを聞かせてもらっても?」
うん、と私は小さくうなずいた。
ここまできたら致し方ないことだ。個性のことをはずし、彼女に危険が及ばぬ範囲で語ることはできるだろう。
「詳しくは話せないが、私はある敵とずっと戦い続けているんだ」
「……はい」
「それこそ四十年に渡る長い戦いだ。相手は不老不死のようなものでね。だから私の師匠も、師匠の師匠にあたるひとたちも、皆そいつと戦ってきた」
「師匠たち?」
「そうだ。最初に奴と戦った者から数えると、私は八代目だ。その長き戦いの中で、私のお師匠はそいつにご主人を殺されている。いや、お師匠だけでなく、その前の代の人たちも似たようなものだ。中には家族だけでなく、親しくかかわった相手すべてが惨殺された者もいる」
ごくり、とみづきが息を飲んだ。そうだろう。恐ろしい話だ。
この間にもみづきのグラスの中では、マランゴニ効果がくり返されている。上昇しては落ちてゆく、ワインの涙。
このグラスのように彼女に涙を流させることは決してあってはならないと、強く思った。
「だから私は今のいままで、誰とも深い仲になったことはない。好きになった人もいたが、距離を置き、できるだけかかわらないようにした。巨悪から守るためにだ」
「……で、わたしともそうすると?」
「うん。そういうこと」
「あなたはずっとそうやって生きてきたんですか? 誰のことも愛さずに」
「ああ。けれど私に後悔はないよ。なぜって、私は平和の象徴だから」
では、とみづきは呟いて、ワイングラスに視線を走らせた。グラスの縁に流れる涙を見つめ、彼女はなにを思うのだろうか。
一呼吸ほどの沈黙のあと、みづきはふたたび私に瞳を向けた。優しげな風貌の中に潜む、強いまなざし。
「その敵を誰かが倒したなら、状況は変わりますか?」
「そういうことではあるけど……。全盛期の私が倒し切れなかった敵と、その手の者たちだ。厳しい戦いになるだろう。私もできうる限りのことはするつもりだが、勝てると断言できない以上、君に待っていてくれと言うことはできない」
「わたしが待っていたいから、そうするというのは?」
一瞬、決意がぐらついた。
「私が」待っていてくれと言ったからではなく、「彼女の意思で」そうしてくれるなら、それでいいのではないかと。
――馬鹿な……。
いい加減にしろオールマイト、と内心で叫びながら、手のひらがしびれるほどの強さで己の頬を叩いた。
みづきはまだ若く、そしておおいに魅力的だ。他の男と恋愛する権利と機会は充分にある。彼女の大切な時間を、全身を平和に捧げ棺桶に片足を突っ込んだロートルのために縛り付けるなど、そんな手前勝手が許されようはずがない。それをさせてしまったら、何より、私が私自身を許せなくなる。
「……そうされるのは、私自身がいやなんだ」
そうですか、とみづきは下を向いた。
切なげな表情に、胸が苦しくなった。
本当はその細い肩を抱きしめて、その日が来るまで待っていてくれと言ってしまいたい。けれど、それはしてはならない。彼女を大切に思うからこそ、絶対に。
「つまり、わたしはふられちゃったんですね」
「……うん。そうなるね」
「わかりました」
みづきはまっすぐこちらを見つめて、ちいさくうなずいた。
さすがに大人の女性は、こういう時にごねたり泣きわめいたりしない。
けれど感情を表に出さないからと言って、平気なわけでは決してないのだ。
私の引退後、世の中はどんどんおかしくなってきている。大きな事件が増え、治安は悪化し、不穏は拡大し続けている。教師陣の様子からも、この国に大いなる危機が迫っていることをみづきは気づいているだろう。
けれど私は、いや、我々は、みづきからそれを問われたことがない。
なぜなら彼女はわかっているからだ。今の状況で民間人であるみづきにそれを聞かれても、報道で伝えられている以上のことを答えられないということを。
私の愛した香久夜みづきという女性は、そんなひとだった。
ワイングラスを手にとって、みづきは中身を飲み干した。上下する喉と、口の中に流れていく赤い液体。扇情的でセクシーで、どこか哀しいそのしぐさ。
「お気持ちを聞かせてくださってありがとうございました」
小さく笑んで、彼女が席を立つ。うん、と私は小さく答える。
情けないことに、その声は常よりもずっと弱く、そして細かった。
「こちらのお皿、お片付けしても?」
「あ……いや、自分でやるよ」
「一つ片付けるのも二つ片付けるのも一緒ですから」
みづきは静かにそう告げて、紅茶の入ったカップ以外の食器をトレイに載せ、厨房に向かった。少しして出てきた彼女は、少し赤い目をしていた。
「それでは、お先に失礼します」
「うん。おやすみ」
「おやすみなさい」
エレベーターへと向かう白い後ろ姿を見送りながら、終わってしまった、とひそかに思った。
何も始まらないまま終わった恋だ。何も得てはいなかったはずなのに、初めから望んではならないと思っていたことなのに、失ってしまった、その喪失感に押しつぶされそうだった。
互いに深く想い合っていたが故に、我々は友達にすらなれなかったのだ。
手元のマグをみつめて、大きく息をついた。冷えてしまった紅茶がますます悲しみを募らせる。
その時不意に、みづきの部屋から眺めた空を思い出した。
熱に浮かされ眠る彼女の部屋から見た、マジックアワーの空。深い藍色をした空が、低くなるにしたがって金へと変わる。夜明け特有の、見事なグラデーションだった。
次いで現れた、ごくごく淡い青――ペールブルー――の白みがかった空。
そばにいるだけでいい、と心から思い、そっとカーテンを閉めたあの日は、そう遠くはないはずなのに。
「あれ?」
肉付きの悪い頬の上を流れたのは、一筋の涙。
「なんだこれ、涙?」
慌ててそれを拭い、大きくため息をついた。
まぶたの奥からペールブルーの空が消え、一人ぼっちの食堂に、孤独な夜が降りてきた。
2024.9.22
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