オールマイトと二人で話したあの夜から、もう何ヶ月経つだろう。あれはこの樹につぼみすらない、真冬の出来事。
あれから時が流れ、桜の枝には白い雪が積もり、暖かくなるのとともにちいさなつぼみがついて、次に薄紅色の花が咲き、そして散った。今は立派な葉桜だ。
『私は今のいままで、誰とも深い仲になったことはない。好きになった人もいたが、距離を置き、できるだけかかわらないようにした。巨悪から守るためにだ』
あのひとは、わたしを好きだと言ったそのあとに、低い落ち着いた声でそう告げた。
オールマイトはヴィラン名を言わなかったが、彼の言う巨悪とはかの有名なオール・フォー・ワンのことだろう。ニュースで得られる情報からでも、それくらいの予想はつく。すでに収監されている敵をなぜそこまで警戒するのか、民間人であるわたしにはわからない。
しかし相手がオールマイトの臓器を数年前に破壊し、昨夏の神野では彼の真実の姿を白日の下に晒した、強大かつ凶悪な敵であることはたしかだ。
『それこそ四十年に渡る、長い戦いだ』
……その敵――オール・フォー・ワンを倒すため、彼は四十年間ずっと、私人としてではなく、「平和の象徴オールマイト」として生きてきたのだ。
その話を聞いた夜、わたしは泣いた。
己の恋が破れたためだけでなく、世を救い続けた孤高の存在が抱えてきた、四十年に渡る孤独を思って。
「……まったくねぇ……」
口に出すつもりはなかったのに、ちいさな声が漏れ落ちた。
まったく、やっかいな相手を好きになってしまったものだ。
互いに想い合っているのに結ばれるつもりのない男のことなど、忘れてしまえばいい。そう思うのが半分……いや一厘。残る九割九分九厘を占めるのは、彼を知ってしまった今となっては他の男性を好きになれる気がしないという感情だった。
だからあれからオールマイトと話せていないのは、接触を避けたからではない。――彼の方はわからないが、少なくともわたしは違う。
あの日以降、オールマイト本人が、職員寮の食堂が開いている時間に戻ることがほとんどなかったからだ。
本当に、怒濤のような日々だった。
どんどん悪くなる治安の中で、三月に超常解放戦線とヒーローが全面的に激突した。その結果、ヒーローだけでなく民間人にも多くの死傷者が出た。
ヴィランの残した爪痕は深かった。ことにギガントマキアの縦走による建物の倒壊は激しく、被害は膨大なものとなった。
そしてじわじわと、人々の中に不安と悲しみが広がりはじめる。
それは世間だけでなく、雄英の中ですらそうだった。全面戦争での犠牲者の中に、ミッドナイトが含まれていたというのも、その理由のひとつだろう。
誰もその件についてあえて語ろうとはしなかったが、ムードメーカーでもあった彼女の死は、わたしの心にも大きく昏い影を落とした。
事件はまだ続く。ヒーローへの批判の声は日々強くなり、たたみかけるように大きな襲撃事件が起こった。難攻不落の要塞刑務所、タルタロスが落ちたのだ。
その時世に放たれた凶悪犯の中に、オールマイトの宿敵であるオール・フォー・ワンの姿もあった。オールマイトが懸念していたのはこういうことかと、わたしはその時実感したのだった。
それが起爆剤になったのか、七カ所の刑務所が敵の襲撃を受け、受刑者の大半が脱獄するという事態となった。そしてとうとう、国は人々に避難所での暮らしを勧めるに至る。いつ終わるか知れぬ避難所での生活に、人々は消耗していった。
まさに、混沌の時代の訪れだ。
事情が事情なので、持てることになっていた店の話も保留となってしまった。根津は「避難所が閉鎖されるまでの間、雄英で働いてくれてもかまわない」と言ってくれたのだが、四月からは新しい料理人も来る。わたしとは違い、調理師免許だけでなくヒーロー資格も持った人だ。
だからわたしは当初の予定通り雄英を辞し、一般人向けの避難所エリアへと居を移した。
ふたりきりで話すことはなくなったが、オールマイトもまた同じ雄英の敷地内にいるので、たまに噂を聞くこともある。骸骨のように痩せていた、という声を聞くたびにちゃんと食事は取れているのかと、その身を案じた。
無理をしがちなひとだから、と、心の中でそっと呟いたその時、スマートフォンが鳴った。画面を確認すると、弟からのLIMEだった。
――ねえさん。悪いんだけど、すぐ俺の部屋に来てくれる?
――え? なんで?
姉弟ならではの気安さでぶっきらぼうに返すと、「ちょっと大事な話があってさ」と思わせぶりな返信がきた。
――大事な話ってなに? 物資の横流しでもしてくれるの?
――そういうことはしない。とにかく来ればわかるよ。
物資云々については我ながら悪い冗談だったが、弟がこうして事情を語らずただ「来い」とだけ告げるのは初めてのことだ。もともと口数の多いほうではないが、理不尽な男ではない。だからきっとLIMEで書けないような深い事情があるのだろうと、なんとなく察した。
――わかった。今から向かうね。
そう返信をして、弟の住まうエリアに向かった。
この避難所では、民間人と、雄英の学生を含めたヒーロー関係者の居住区はわかれている。それは雄英の生徒たちを守るためであり、また秘密保持のため必要に応じてされた配慮でもあった。弟は公安職員なので、職員や若手ヒーローが住む宿舎に住んでいる。
当然ながら、ヒーロー関係者の居住区入り口には、ちょっとしたセキュリティが設けられていた。関係者本人の申し出の確認と、身分証の掲示がそれである。
身分証には個性も記載されているので、戦闘に特化したものや隠密活動向きの個性持ちであれば、もう少し詳しく調べられたのかもしれない。けれどわたしの個性は、人より鼻が利くという程度のもの。おかげで特に問題もなく、すんなり中に入れてもらうことができた。
宿舎は雄英の寮とよく似た作りをしていた。入り口で簡単なチェックを受けて、これまたすんなりと中へ。エレベーターで二階に上がり、部屋の扉に着いたキーに暗証番号――これは先ほどLIMEで本人から知らされたものだ――を打ち込むと、電子キーの解除される音とともに、扉が開いた。
カーテンの締め切った薄暗い部屋の中でわたしを待っていたのは、だが、弟ではなかった。
「……どうして?」
「久しぶり」
照れくさそうにその人は告げた。
身につけているのは、ダークな色合いのスーツに同系色のネクタイだ。金色の前髪の間から覗く、晴れ渡った空の色をした瞳。見上げるほどの長身にふさわしい、ひょろりと長いその手足。低い落ち着いた声をしたそのひとを、一日たりとも忘れたことはなかった。
「どうして?」
立て続けに同じ質問をしてしまった間抜けな自分に呆れつつ、彼……オールマイトの言葉を待った。すると彼はまったく悪びれない様子で、頭をかきながら笑んだ。
「いや、私が君のところに行ったら目立っちゃうだろ? だから無理を言って弟くんに協力してもらったんだ。ヒーローと公安職員の両方が住んでいるこの宿舎なら、私が出入りしても、そして公安職員の身内である君が呼ばれても、まったくおかしくはないからね」
「いや……そうじゃなくて……」
なんの目的があってわたしをここに呼び出したのかが知りたい。
すると彼はまた微笑んで、ぽつりと呟いた。
「……どうしても、君に会っておきたかったから」
「なぜです?」
かわいげも愛想もない言い方だな、と思いながらも素直に疑問を口にする。と、オールマイトは、一瞬、少し困ったように眉を下げた。
わざわざ会いに来て、理由を言わない。
秘密主義のこのひとらしいが、彼の様子から、おそらく民間人には言えないなにかがあるのだろうと悟った。
けれど、一体なにがあるというのだろう。
戦えない身体になってしまったオールマイトは、現在は戦闘要員ではなく指揮官として中枢にいると、風の噂で聞いている。
「みづきさんに会いたかったから、っていうだけじゃだめかな?」
「だめではありませんが、会うだけでいいんですか? なにかこう、わたしが喜ぶような愛の言葉とかがあってもいいんですよ?」
そんな軽口を口にすると、オールマイトはますます困ったような顔をした。
弟の部屋は西向きだった。夕暮れの日差しが、揺曳する一条の光となってカーテンの隙間から忍び込んでいる。たよりなげにゆらゆらと漂うその輝きは、どこかわたしたちの関係のようだと、ひそかに思った。
「そういうのは、何一つ残せないかな」
「わざわざ呼び出しておいてですか?」
「それは……ゴメン。でもどうしても、君の顔を見て話をしておきたかったんだ」
「……近々大きな戦闘があるんですか?」
思い浮かんだことをずばりと問うと、彼はまさかとでも言いたげに――だが実際は否定も肯定もせず――肩をすくめた。
「……四十年来の親友と、最期のワルツを踊ろうと思ってね」
静かな微笑みを浮かべているが、青い瞳の奥底にあるのは、昏いけれども強い決意。
おそらくこのひとは、生きて帰る気がないのだ。自暴自棄になっているのとはまた違う、巨悪と差し違えるという覚悟がそのようすからも見て取れる。
たしかに指揮官として前線に立つというだけでも、大変な危険が伴うだろう。それこそ命がけの。
けれどそれほどの心構えを抱いてわざわざ会いに来たというのに、それでもこのひとは、わたしに何の約束もしない。愛の言葉などもってのほかだ。
『必ず戻る。だからそれまで待っていてくれ』
希望を持たせるそんな言葉のひとつすら残さない。もちろんそれはこのひとなりの誠実さなのだろう。でも、この誠実さは残酷だ。
「納得いかない、って顔だね」
「そりゃそうでしょう」
だよね、とオールマイトが首をかしげて微笑んだ。この期に及んでそんなかわいい仕草をしてくるのだから、このひとは、本当に。
「ただ、甘い言葉や約束は残せないけど、征く前に、君に知っておいてもらいたいことがひとつあるんだ」
室内に入り込んでいた細い光は、先ほどより輝きを失っている。そろそろ陽が沈むのだろう。
そう想うと、ひどく切ない気分になった。
「俊典」
「はい?」
いきなり出てきた知らない名前に、思わず間抜けな声が出た。
「八木俊典、っていうんだ」
「それって、もしかして……オールマイトさんの本名ですか?」
うん、と、くすくす笑いながら、彼が続ける。
「初めてあった日に私が『ヤギ』と名乗ったの、嘘じゃなかったんだよ。ちょうど選挙カーが通ってくれたから乗っかる形で伝えたけどね、私の本名は、八木俊典」
あぜんとして、口をぽかんと開けてしまった。あのタイミングで、窓の外を同じ名前の立候補者が通りかかるなんて、偶然とはいえできすぎだ。さすがオールマイト、「持って」いる。
いや、それよりも重要なのは。いま彼の口から出た名前だ。それは一般には公になっていない、ヒーロー業界の人間も一部の者しか知らないとされる、オールマイトの本名。
「……それ、わたしに教えちゃっていいんですか?」
「うん。君には知っておいてほしかったんだ」
「それだけですか?」
「うん。それだけ」
だが「それだけ」と言いながら、わたしはその重さを自覚していた。
一般的に知られていない本名を知っておいてほしいと言う彼の言葉は、愛の告白に斉しいものだ。
自分が死んでもその名を覚えていてほしいと、自分のことを知っておいてほしいと、暗にこのひとは言っている。
でもこの朴念仁は、そこはまったく意識せず、キスどこかハグも甘い言葉すらもなく、死地に赴こうとする。
残酷で鈍くて、けれど誠実で誰より優しい、大好きなあなた。
「……このまま戻ってこなかったら、忘れちゃうかもしれませんよ」
「……それならそれでかまわないよ。私を忘れて、君は幸せになってくれ」
さみしげに笑うオールマイト……いや八木俊典に、言いたいことはいくつもある。
あなたを忘れられるはずもない。
あなたを失って、わたしが幸福になれるはずもない。
そんなこともわからずに、このひとはわたしを守るために突き放し、世を守るために一人征く。
残していくのは、その名だけ。
だが、それがこのひとの愛なのだ。
ならばこちらはそれを受け入れるしかない。
絶対に忘れないその名を、その存在を。
「それじゃ、そろそろ行くね」
「ご武運を、とか言うべきでしょうか?」
「オイオイオイオイ、私は親友とワルツを踊りに行くんだぜ?」
「今そういうのはいらないです」
「アッ……はい……。ごめんなさい」
「……気をつけてね」
そう言って微笑むと、屈託なく八木も笑った。こういう笑い方をすると、表情が緩んでいつもより目元の陰影が薄くなる。眉間の皺が消えるだけで、少し若く見えるものだ。ずっとそうしていればいいのに。
けれどそれは、今のこのひとの生き方には似合うまい。背に乗せられた、象徴という荷を下ろすまでは。
だから、いまわたしができるのは――。
「いってらっしゃい、俊典さん」
一瞬、彼の青い目が大きく開かれ、そして次にやわらかく細められた。笑みの形に。
「うん。じゃあね」
微笑んで、八木が玄関の扉を開けた。細いが広いその背を、わたしは笑って送り出す。やがて目の前で扉が閉まり、そこに自動ロックの電子音が追いかけてきた。
反射的に窓辺に走り、カーテンを開けた。太陽は完全に沈んでしまっている。それでもまだ、空は明るい。
紫からピンク、そしてオレンジから淡い金色へとグラデーションを描く空。太陽が昇る寸前の数分と、沈んでからのこの時間を、マジックアワーと人は呼ぶ。
淡い金に染まる空の下に、八木が姿を現した。気配を感じたのか、それとも名残惜しく想ってくれたのか、彼が足を止めてこちらを見上げた。
互いの視線が交錯したその一瞬、肉付きの薄い顔が、かすかにゆがんだ。
「馬鹿ねえ」
そんな顔するくらいなら、待っててくれって言えばいいのに。
けれど、最期のワルツは敵とではなくわたしと踊ってと言えなかったこちらも、大概なのだ。
「どっちも大馬鹿」
瞳から一粒の水滴が落ちるのと、口から声が漏れるのと、いったいどちらが先だったろう。それがわからぬまま、わたしはマジックアワーの街を征く背の高い後ろ姿を、見えなくなるまで見送った。
そしてその翌日、雄英校長根津から避難民に対して公式アナウンスが入った。
死柄木弔が四日後に始動するため、当日雄英全域に戒厳令が敷かれるという。それに合わせて雄英の生徒たちも拠点を移すと。
昨日、八木がわたしを呼び出したのは、このような背景あってのことだったのだ。
どうか無事でと、出征していく人たちの安全を心から祈った。
***
避難所の各所に置かれたモニターからは、決戦の映像が映し出されていた。雄英や士傑の生徒を含めたヒーローと敵との戦いは、苛烈を極めている。
応援したい気持ちはあれど、見知った顔が散見されるが故に、どうにも見ているのがつらい。そっと場を立ち去ろうとしたその時、画面が切り替わったのか、場にいた人々から大きな歓声が上がった。
「オールマイト!」
信じられない気持ちで振り返り、モニターを見つめる。
「……うそでしょ……」
『どうしても、君の顔を見て話をしておきたかった』
画面の向こうに立っているのは、戦闘用のスーツをまとった長身痩躯。その姿を、わたしが見まごうはずもなく。
『近々戦闘があるんですか?』
『四十年来の親友と最期のワルツを踊ろうと思ってね』
あの日の八木の声と表情が、脳内で蘇る。
彼は否定も肯定もしなかった。だから戦うといっても、前線で指揮を執るといったかたちで因縁の敵と退治するつもりなのかと思っていた。
けれどまさか、まさか戦えないその身体で、若返った巨悪と直接対決するなんて。
『八木俊典、っていうんだ。君には知っておいてほしかった』
『このまま戻ってこなかったら、忘れちゃうかもしれませんよ』
『それならそれでかまわないよ。私を忘れて、君は幸せになってくれ』
ああ、そうだ。
オールマイトというヒーローは、八木俊典という人物は、そういうひとだ。
この身を平和の礎に。鋼の意思を宿したオールマイトというヒーローは、人々の為に在る柱。
暴風にマントの裾が翻ったその刹那、魔王が片手を振り上げ、八木が跳躍した。激しく打ちつける雨の音を消すように、細長い背が大きく吠える。
「エルクレス!」
もう大丈夫、と満面の笑みを湛えていたかつて偉丈夫の姿が、その細いシルエットと重なって、涙の向こうに滲んで消えた。
2024.9.27
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