ワインの涙

 扉が閉まるのに似たちいさな音が、聞こえたような気がした。
 次いで起こった微かな空気の揺れと、そこに混じる僅かな違和感。
 ゆっくり目を開けると、晩秋の朝の日差しが、カーテンの隙間から細く長く降り注いでいるのが見えた。

 重い頭を振りながら身体を起こす。時刻は六時。
 まずい、と、飛び起きかけて、昨日自分が発熱し、今日は一日お休みをもらっていたことを思い出した。
 ぐるりと肩を回して、深呼吸をひとつ。身体はまだ重いが、熱はなさそうだ。うん、とちいさくうなずいてベッドから降りようとしたその時、目覚めた時から微かに感じていた違和の原因に気がついた。

「……この……香り……」

 覚えのある香りが、室内のそこかしこに色濃く残っている。

 シナモンと白檀、そしてバニラの香水に混じった、ミルキーなホワイトムスク。これは紛れもなく、あのひと――オールマイト――のにおいだ。
 室内にはもうひとつ、別の人の香りがわずかに混じっていた。それはアンバー混じりのフルーティフローラル。こちらはたしか、13号先生の香り。

 慌てて室内をぐるりと見渡した。大きな変化は特にないが、ちいさな変化ならあった。それは、ベッドの隣のローテーブルに、封を開けていないゼリー飲料とミネラルウォーターのペットボトル、そして薬の袋が置かれていたこと。
 袋の中の処方薬を確認すると、一錠ずつ減っていたので、おそらく昨夜わたしが飲んだ――あるいは誰かが飲ませてくれた――のだろう。

 昨夜、熱でふらふらになっていたわたしを、オールマイトと13号先生が部屋まで運んでくれたことは覚えている。
 だけど……と、内心で呟きながら小さく息をついた。

 もしもそれだけであれば、残されたふたつの香りの濃度は同程度であるはずだ。けれど室内に残された香りは、スペースヒーローのそれに比べて、平和の象徴のほうが格段に濃い。まるで、本人が今までここにいたかのような濃度だ。

 ふと思い立ち、最も残り香の濃いベッド脇のクッションに触れた。
 晩秋の朝は冷えるというのに、そこはまだほんのりと温かかった。

「さっきまで、ここにいた……?」

 あの大きな人がこんなちいさなクッションの上では、ほとんど休めなかっただろう。大きな身体を小さくかがめてベッド脇に座る彼の姿を思い浮かべると、胸の奥がきゅんとうずいた。
 これが他の男性であれば、きゅんどころの騒ぎではなく、気持ち悪いの一言に尽きる。だが好きな男であれば話は別だ。あの多忙なる平和の象徴が、オールマイトが、わたしのために朝方近くまで――しかも性的な接触はせず――そばについていてくれたということが、ただただ嬉しかった。

 カーテンを開け、続けて窓も開けるかどうか少し迷って、そのままにしておくことにした。窓を開けたりしたら、風が彼の香りを連れて行ってしまうから。
 変な夢を見てしまったから、香りだけでもオールマイトを近しく感じていたい。

「……それにしても奇妙な夢だったな」

 ペットボトルの水を一口飲んで、小さく独りごちた。



 荒廃した街の中にオールマイトが立っている。くずれ落ちたビルの向こうに、「神野の悪夢」で見た恐ろしい敵の姿が見えた。オールマイトはその敵に向かって、ゆっくりと歩き出す。
 全盛時の姿ではない。ヒーロースーツを着てすらいない、暗い色のビジネススーツに身を包んだ痩せた姿の彼の人は、とても厳しい表情をしていた。

 全盛期のオールマイトですら苦戦した敵だ。臓器と個性を失った今の彼には、おそらく勝算はかけらもない。それなのに彼はまっすぐに前を見据え、独り征く。
 細長い後ろ姿に、「行かないで」と、わたしは叫んだ。懇願するように。
 するとオールマイトはゆっくりと振り返って、太陽のように破顔した。

「八木さん……」

 かつて呼んでいた名を口にすると、オールマイトは軽く眉を上げてから、ふたたびわたしに背を向ける。

「行かないで」

 だが、彼の足はとまらない。細長い背中は少しずつちいさくなってゆき、やがて敵と共に消え去った。
 そしてわたしは暗闇の中に取り残される。ひとりぼっちで。
 それはほんの数秒のことだったかもしれない。あるいは、精神世界の中では永遠に近い時間であったのかもしれない。

 絶望に襲われ立ち尽くしていると、どこかから低い声がした。

「大丈夫、ここにいるよ」

 それは紛れもなく、今去って行ったばかりの、オールマイトの声だった。



 覚えているのはそこまでだ。
 おそらく前半が熱のピークで、後半が薬が効いてきた頃に見た夢だろう。体調不良時に悪夢を見るのは、そう珍しいことではない。

「どうせなら、『ここにいるよ』の続きが見たかったんだけどねえ」

 苦笑交じりにひとりごち、ミネラルウォーターをまた飲んだ。

 ただ、わたしは期待してもいいのだろうか。
「ここにいるよ」と言ってくれた夢の続きが、現実でもあるかもしれないと。
 なぜなら、オールマイトは実際に傍にいてくれたから。朝が来るまで、わたしの部屋に。

***

 そんなことがあったのが、ひと月ほど前のこと。
 結論だけ言わせてもらうと、抱いた期待は、はずれに終わった。

 翌朝オールマイトに「部屋まで運んでくださってありがとうございました」と告げたら「なに、なんでもないことさ。他の誰でもそうしたよ」とさらりと言われた。
 爽やかかつ明るい声だったが、とりつく島もない調子だった。鋭利な刃物ですっぱりと話題を切られてしまったような、目前で透明なシャッターを閉められたような、そんな感じがした。

 これ以上踏み込まれたくないという一線は誰にでもある。しかし、以前からなんとなく感じていたが、オールマイトの場合、それが他の人より顕著な気がする。
 あの時の彼はいつものように柔らかく笑っていたけれど、わたしにお礼以上の発言を許さぬなにかが、確かにあった。

「……まぁ、実際忙しい人だしね。ここしばらく顔も見てないし」

 オールマイトの引退以降、世の天秤は不穏に傾きつつある。先月は泥花市で大きな事件が起きた。当然ながら雄英の先生たちも、授業のみでなくそれらの事件の対応に忙殺されている。

 それは引退したはずのオールマイトも、また然り。彼は自身が物理的に戦えなくなっても、別の方向から戦おうとしていた。現在は調査という形で全国を忙しく飛び回っている。どんな状況においても正義のために最善を果たそうとするオールマイトは、真のナチュラルボーンヒーローなのだとわたしは思う。
 とはいえ、クリスマスくらいは帰ってきてもいいのに、と、思わないでもないけれど。

 ともあれ、ほかの先生方も今日は全員出払ってしまっている。生徒寮のパーティーに呼ばれたり、メディアの取材があったり、ラジオやテレビの収録があったり、家族や恋人と過ごしたりとその理由はさまざまだ。
 ともかくも本日食堂で夕飯をとる予定の教師は、誰もいなかった。

 それを知ったランチラッシュが休みの提案をしてくれたが、もしも「誰かが」帰ってきた場合を考え、お断りした。

 まったく、帰ってくるかどうかもわからない――そしておそらく帰ってはこない――誰かさんのために食堂に待機しているわたしは、実に大概だと思う。

『今年のクリスマスケーキは、わたしがお作りしましょうか?』
『それは嬉しいね。ぜひ頼むよ』

 あんなちっぽけな約束を、オールマイトが覚えているとは思えなかった。それに約束した時点で「守れないかもしれない」と言われていたではないか。

――それでも待ってしまうんだから、片思いって難儀よねえ。

 そうため息をついた時、大きな剣を背負った少女が、食堂に姿を現した。

「あらエリちゃん。どうしたのその剣? …………すてきね」
「プレゼントでもらったの!」
「それは…………よかったわね」
「そうなの! すっごくかっこいいの!」

 肯定的な言葉を選んでよかった、と心から思うわたしの前で、ふんす! と、壊理が鼻息荒く胸を張る。その表情がかわいくて、おもわず笑みがこぼれた。

「コックさんも、メリークリスマス」
「メリークリスマス。そうそう。これね、コックさんからエリちゃんに」

 厨房からちいさな箱を持って来て、壊理の目の前で開けた。

「わあ! ケーキの上にサンタさんがのってる!」
「これはね、クグロフっていうクリスマスのお菓子よ」

 デコレーションケーキは、きっと生徒さんたちのパーティーでも出るだろう。だからやや大人向けではあるが、翌日以降でも食べられるクグロフを焼いた。
 さすがにそれだけでは地味なので、上半分をホワイトチョコでコーティングし、アラザンを散らし、マジパンで作ったサンタで飾り付けて、クリスマスらしさを出してみた。それが存外、壊理の心の琴線に触れたようだ。

「すてき。雪のおやまにサンタさんがあそびにきたみたい」
「ありがとう。明日にでも相澤先生と食べてね」

 子どもは詩人だなと思いながら箱を閉じる。と、壊理の背後から、「すみません」と、心地よいバリトンが響いた。壊理の保護者役を務めている相澤だ。

「香久夜さん、お気遣いありがとうございます」
「いえいえ。これは冷蔵庫にいれておけば日持ちしますので、おふたりで少しずつ召し上がってくださいね」
「ありがとうございます。いただきます」
「コックさん、ありがとうございます!」
「どういたしまして」

 そしてふたりはおやすみなさいとわたしに告げて、自分たちの部屋へと戻っていったのだった。



「片付け終了」

 と、独りごち、時計を眺める。時刻は二十三時を少し回ったところ。未練がましく、誰もいないというのにこんな時間まで待ってしまった。
 今日はクリスマスだが、ひとりの部屋に戻っても特にすることもない。

「久しぶりにここで飲むか」

 再び独りごち、開封済みのワインをカウンターに置いた。厨房の食材は、勤務時間後であればある程度好きに飲食していいきまりとなっている。
 だからといって、オールマイトが帰ってくるはずもないのに、日付が変わるまで粘ろうとしている自分が少しおかしかった。

 わたしはいつからこんな演歌な女になったのだろうか。
 それでも、それを面白がれるあたりまだ余裕がある、と自分で自分を分析し、くすりと笑った。

 ワイングラスを出してきて、そこにゆっくりと酒を注いだ。くるりとグラスを回すと、グラスの内壁に沿って生じた液滴が涙のように流れ落ちる。アルコール度数の高いワインで見られるこの現象を、ワインの涙と人は呼ぶ。

 メリークリスマス、ミスターオールマイト。と、心の中で呟いて、グラスの内側を絶え間なく流れるワインの涙を見つめた。

 時間をかけて一杯目のワインを空けて、二杯目の酒をまた注ぐ。と、その時、寮の玄関扉が、聞き慣れた声と共に、開かれた。

「私が……間に合った!」

 いつものダンディなスーツ姿はどこへやら。よれよれになりながら肩で大きく息をしている長身痩躯は、紛れもなく、わたしが待ちわびていたその人で。

「オールマイトさん?」
「ただいま。……あと、メリークリスマス」
「……お帰りなさい。メリークリスマス」

 うっかり涙が出そうになった。
 けれどさすがにここで泣くのはあまりに重い。だから泣くのはグラスの内側の液滴にまかせて、わたしは笑った。さりげなく。

「ひとり?」
「はい、わびしい一人酒です」
「そしたら、私もお付き合いさせてもらってもいいかな? といっても、私はお酒飲めないんだけど」
「お酒のかわりに、クリスマスの焼き菓子がありますよ。よかったらお召し上がりになりますか?」
「もちろんだよ! なぜって? 私はそのために帰ってきたんだ! 約束したろう?」
「まあ、覚えていてくださったんですね。ありがとうございます」

 なんでもないふうを装ってそう応えたが、震えるほど嬉しかった。世を支え続けていた英雄が、天にも斉しい一柱が、あんなちいさな約束を覚えていてくれたのだ。
 それだけで、再び瞳にうっすら膜が張る。それを彼には見せないよう背を向けて、わたしは厨房の中へと向かった。

 焼き菓子を皿にのせ、食堂へと運んだ。
 いつ戻るかもしれないひとのために焼いたのは、相澤たちに渡したのと同じ、日持ちするクグロフだ。
 生クリームやチョコレートで飾り付けたら胃袋のない彼には重いかと、粉砂糖で化粧した。

「わあ、クグロフだね。これってたしか、アルザス地方のクリスマス菓子だよね。嬉しいなあ」
「お飲み物は何になさいます?」
「君はなに飲んでるの?」
「白ワインです。アルザスのピノ・グリ」
「……ってことは、クグロフと合う?」

 はい、とうなずくと、オールマイトは鋭利な顎を撫でて、小さく笑った。

「そしたらさ、君も一緒に食べてくれる? たしかそういう約束だったよね?」
「はい。お相伴にあずかります。これ、ピノ・グリとの相性すごくいいんですよ。オールマイトさんにお試しいただけないのが、残念なくらい」

 いやぁ、と頭をかきながら、オールマイトが眉を下げる。

「飲めないって言ってるけど、実は私ね、お酒を飲んだことがないだけなんだよね」
「え?」
「出動要請がかかったとき、酔っ払っていたら充分な働きが出来ないだろう?」

 さも何でもないように告げられた一言に、背筋が伸びる思いだった。
 オールマイトが長年ナンバーワンで在り続けられたのは、彼に天賦の才があったからだと人々は言う。いや、かく言うわたしも、そう思っていた。
 けれどそれは、事実とはほんの少し異なっている。いや、彼が才能や体格に恵まれたことは間違いない。だがこのひとは、与えられた才の上にあぐらをかいて、トップになれたわけではない。
 おそらく彼は、天才であるのと同時に、努力の人でもあるのだ。

「まあ、今となっては、出動要請がかかることもないんだけどね」

 そう言って微笑んだ、その笑顔がどこか悲しかった。

「じゃあ、今晩お試しになります?」

 いや、とオールマイトは静かに首を振った。

「この身体でなにが出来るわけでもないんだけど、それでも真の平和が訪れるまでは、控えておこうと思ってるんだ」
「……ご立派です」
「なに、当然の心構えさ。というよりも願掛けみたいなものかもね」
「では、お紅茶をお淹れしましょうか。夕方、校長先生がゴールドティップスインペリアルを差し入れてくださったんですよ」
「それはすごいな。ぜひ」
「かしこまりました」

 紅茶の準備をして戻ると、テーブルの上に、ガラスの器に入ったティーキャンドルが置かれているのが見えた。このためにわざわざ用意してくれたのだろうか。

「クリスマスだからさ、ちょっとムーディにと思って」
「いいですね。すてき。……せっかくですし、少しあかり落とします?」
「君が嫌でなければ」
「消しましょう!」

 このひと時々乙女なんだよな、と心の中で呟いてから食堂の灯りを落とし、実はわたしもそういうの嫌いじゃないけど、と内心で続けた。
 というよりも、わたしはこのひとが見せる、かわいい行動すべてが好きなのだ。きっと。

 失礼します、と、声をかけてから彼の向かいに座り、クグロフを取り分けた。
 まるで恋人どうしみたい、だなんてガラにもなく思ってしまった自分に苦笑する。オールマイトの乙女が、少し移ってしまったのかもしれない。

 そして我々は目の位置でそれぞれの飲み物を掲げ、乾杯をした。メリークリスマス、と言いながら。

「……初めてだよ。前も言ったけど、こうして誰かとクリスマスを祝うことってなかったから、本当に嬉しいな。大人になってからはヒーロー活動が忙しくって、それどころじゃなかったし……。君のおかげだ。ありがとう」
「わたしオールマイトさんの初めてをいただいちゃったんですね。光栄ですわ」
「いや……そういう言い方すると、ちょっとアレだよね」

 二メートルを軽く越す大きなひとが、照れたように笑う。それがかわいくてたまらない。
 もちろん、彼はかわいいだけの人ではない。拳一つで天候を変えてしまうほどの人だからこそ、ちらりと見せるかわいらしさが引き立つのだ。
 オールマイトはそんなわたしの心情に気づいているのかいないのか、額に汗をかきながらも、優雅にクグロフを口元へと運ぶ。

「あ、コレうまいな」
「ありがとうございます」
「生地が薄い緑色だけど、これ、ピスタチオを練り込んでるのかい?」
「そうです」
「甘さ控えめだし、ドライベリーの酸味でさらっと食べられるね。うん。うまい」

 よかった、と思いながら、わたしもクグロフとワインを交互に口にした。うん、たしかになかなかの出来だ。
 「それにしても」と呟くと、オールマイトは「なんだい?」とささやいた。少しかすれ気味の低音は、多分な色気を含んでいる。

「今日はお戻りにならないかと思ってました」
「校長先生に報告をしていたら、今日がクリスマスだと教えてもらってね。で、慌てて新幹線に飛び乗ったというわけさ。私も間に合わないんじゃないかと思ってヒヤヒヤしたよ」
「お疲れじゃありません?」
「なに、このクグロフを食べたらそんなの吹き飛んだよ。もう一ついいかな?」

 一切れ目をぺろりと平らげてしまったオールマイトが次のピースを取ろうとし、それに気づいたわたしもまた、ケーキを取り分けるためにナイフに向かって手を伸ばす。
 当然のように、さして広くもないテーブルの上で、互いの手指が触れあった。

「あっ……」

 指先が触れたまま、固まること数秒。
 離れもせず、かといって相手の手を握るでもない。それはあまりにも不自然な形。
 周囲が静まりかえっているからだろうか、自らの心音がひどく大きく聞こえる。オールマイトはどうだろう。あの雷の夜のように、同じように胸を高鳴らせていてくれるだろうか。

「あの……」

 数分にも感じられる数秒ののち、思い切って声をあげた。するとオールマイトは何も言わず、さりげなく手を引いた。少し困ったように、眉を下げて。

「ああ、ごめん。じゃあ悪いけど、取り分けてもらえる?」
「……はい」

 まただ、とひそかに思った。
 オールマイトは、こちらが距離を詰めようとすると離れていく。

 わたしもそれなりの場数は踏んできているので、相手が自分に好意を抱いているかどうかくらいは、なんとなくわかる。
 うぬぼれかもしれないが、オールマイトがわたしを憎からず思っていることは、少し前から感じていた。でなければ、朝まで部屋にいてくれることはないだろうし、約束を守るために無理を押して帰寮したりもしないだろう。
 そしておそらく、彼自身も、わたしの気持ちを察しているに違いない。
 けれどオールマイトは、わたしとの関係を深めようとはしない。ぜったいに。

 クグロフを薄く切って皿に盛ると、低くやわらかい声で、ありがとうと返された。どういたしまして、と応えて、ワイングラスをくるりと回す。と、ワインの涙が幾筋も連なって、グラスの内側を降りてゆくのが見えた。
 毛細管現象によってグラス側面を昇った液滴は、ある程度の量になると自重によって滴下する。これがワインの涙が起きる仕組みだ。これはエタノールが蒸発してなくなるまで、延々と続く。

 近づいては離れ、離れてはまた近づく。ワインの涙は、そんな微妙で曖昧な関係を続けているわたしとオールマイトの関係と、少し似ているような気がした。

「うん。美味しいね」

 嬉しげにクグロフを食べる、痩せた横顔を見つめた。鼻筋が通り、眼窩が落ちくぼんだ、彫りの深い顔。
 やっぱり、このひとが好きだ。でもだからこそ、ずっとこのままどっちつかずな関係でいることはきつい。

 これが普通の男性相手であったなら、わたしも自分からアプローチを試みただろう。だが相手が相手だ。憎からず思われているのはわかっていても、軽々に気持ちを伝えることは、やはりためらわれる。

――でも、もしも。

 もしもまた今日と似たようなことがあったら、その時は行動を起こしてみようか。重くならないよう、さりげなく。

 エタノールの蒸発が終わるより早く、ワイングラスが砕け散る。そんな結末が待っているかもしれないけれど、このまま延々と流れ続けるワインの涙を見つめ続けているよりは、よほどいい。

「お茶のおかわりはいかがです?」

 ゆっくりと笑みながらそう告げる。と、こちらの思惑など思いもしないだろう平和の象徴は、「ありがとう、いただくよ」と答えて、秋の太陽のようにやわらかく笑んだ。

2024.9.17
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月とうさぎ