帰り際、根津にそう問いかけられて、思わず「いやぁ、良いですね」と答えて、頭をかいた。
調理だけでも家事代行を頼んだらどうか、と提案し、手配までしてくれたのは根津だった。話を向けられたとき、わざわざそんな贅沢をしなくても、と感じたことは確かだ。だがぎりぎりの状態で活動している今の自分が、慣れない教師としての業務とヒーロー業を両立させねばならないと考えると、減らせる負担は減らしたほうがいいということも理解はできた。
ならばと根津の顔を立て、まずはお試しという形でサービスを利用してみることにした。自分でするのと大差なければ、そこで断ればいいのだと。
しかしフタを開けてみると、我が家に派遣されてきたのは、家政婦さんではなくフレンチのシェフ。調理師学校を出た後、高級ホテルの厨房で十年修行し、その後数年に渡って自身の店を切り盛りしていたという、筋金入りの料理人だった。
「実際、プロにお願いするとまったく違いますね。へとへとになって帰宅しても、テーブルの上には、栄養バランスの整った美味しい食事が用意されている。夕飯とは別におかずを数種類作っていってくれるので、翌日の食事の心配もいりません。調理後はキッチンまわりをピカピカに磨き上げてくれますから、掃除の手間が一つ減りました。お陰様で、非常に助かっています」
「そうだろう? 君は特に、食事の回数が多いから」
「はい。人柄も腕前も良い方を選んでくださって、先生には感謝しています」
そう、担当者の人選もかなり大変だったときいている。
なぜなら、オール・フォー・ワンの手の者が紛れ込む危険性を考慮したからだ。根津は、いくつかの家事代行会社を打診し、あがってきた担当者の身元と経歴を徹底的に調べあげたという。
採用になったみづきの情報は、当然ながら私も共有させてもらっている。
しかもみづきの実弟はヒーロー公安委員会に所属していた。彼は二千以上もの嗅覚受容体を有する個性の持ち主で――その数は生き物の中で最も嗅覚が優れていると言われるアフリカゾウより多い――優れた嗅覚を持つだけでなく、ヒトの汗の成分に含まれるある種の匂いを嗅ぎ分けることで、相手の感情を詳細に読み取ることができた。
表向きはヒーローではやっていけず事務方をしている、ということになっているが、実際はその個性を活かして動く潜入捜査員である。
いくつかの例外はあるが、基本的には身内に犯罪者や危険思想に侵されている者がいると、警察官や公安職員にはなれない。それを思えば、みづき自身が危険思想者やオール・フォー・ワンと接触している可能性は限りなくゼロに近かった。
「うん。料理の腕もいいらしいね」
「そうですね。出てくる料理は、本当にどれも美味しいです」
それにさ、と、根津校長が意味ありげににやりと笑んだ。
「ああいうタイプ、君の好みだろ?」
「な……なにを言ってるんですか。校長先生」
ぶはっ、と大量の血を吐きながら私は声をあげた。
「私はどこまでも平和の象徴。特定の人物に特別な感情を抱くようなことはありませんよ。ええ、決して! ビジネスの相手であればなおさらです」
「まあ、そういうことにしておくのさ」
唐突な言葉に動揺を隠しきれない私に向かって、根津は愉快そうに笑いながら、手のひらをひらひらと振った。
「それはそうと、今日は君の誕生日だろ? まわりが気を使って早上がりさせたと聞いてるよ」
「ええ。心遣い本当にありがたいです」
『オールマイトさん、今日はいいひとが待っているんでしょう? お誕生日デートくらい、遅刻しないで行ってあげないと』
はじめにそんなことを言いだしたのはミッドナイトだ。まわりもそれに賛同し、押し出されるように職員室を出てきたところだった。
ここ数日は帰宅の遅い日が続いていたので、申し出はありがたかったけれど、家で待っている人など家事代行サービスのみづきくらいしかいない。そして彼女が家主の帰りを心待ちにしているかどうかはまったく別の問題で、おそらくは、帰ってこないほうが仕事としては楽なのではないかと思う。
とはいえ、せっかくの皆の厚意だ。無碍に断ることはせず、今回はありがたく受けることにした。
実際問題、私は常に自分の体力の限界と戦っている。ここ数日は食後にシャワーを浴びたら、そのままベッドに倒れ込む。そんな状態が続いているのも、確かだった。
「それなら早く帰るのさ。せっかくの厚意が無駄になる」
「は……では、お先に失礼します」
校長に軽く会釈をし、門を出た。
よく考えたら、定時に上がるのは教師になって初めてだ。今日は誕生日でもあることだし、ケーキでも買って帰りたいところだ。
だが、ここで一つの問題がある。いい年をしたオジサンが、ケーキをひとつだけ買うというのはいかがなものか。
こういうことを女性……たとえばミッドナイトあたりに話すと、「気にせず好きな数買えばいいじゃないですか」と言われてしまうだろう。しかし私のような中年男というものは、そういうつまらないことが気になってしまうものなのだ。
とはいえ、胃袋のない今の状態ではとても二つは食べられない。ホールなんてもってのほかだ。
とすれば、ひとつをとっておいて明日食べるか、それとも誰かとシェアするか……いや、私は一人暮らしだ。分ける相手もいやしない。
……待てよ。
その瞬間、ある人物の顔が脳裏に浮かんだ。
「いやいやいやいや」
思わず独りごち、頭の上で手を振った。
いきなり一緒にケーキ食べようだなんて言われたら、いくらなんでもキモいだろ。
ないないないない、ともう一度口の中で呟いて、また歩き出す。たしかこの先に、評判のパティスリーがあったはずだった。着くまでに、どうするか決めればいい。
『ああいうタイプ、君の好みだろ?』
歩きながら先ほどのやりとりを思い出し、ひそかに息を吐いた。
まったく、校長先生が変なことを言うから、妙に意識してしまうじゃないか。
みづきは、笑顔が素敵な癒やし系の美女だ。だが、料理を作っているとき、その表情は一変する。和やかな顔つきが、張り詰めた糸のような緊張感を持った相貌に変わるのだ。個人的に、きりりとした女性は好きだ。特に、彼女は目がいい。射貫かれてしまいそうな、強い視線。
「あー」
自分でも思い当たる節があったので、思わず声を上げてしまった。先生は本当に私の好みをよく知っている。確かに私は昔から、ああいう目力の強い女性に甚だ弱い。
それに、目力が強いだけでなく、みづきは普段の見た目の印象通り、優しい思いやりも持っていた。
『けっこうレモン利かせてたんで、しみませんでした? そのご様子ですと、お口の中切ってますよね』
『それならなおさら、今日はお大事になさってくださいね』
あんなふうに人から心配されたのなんて、本当に久方ぶりのことだった。臓器がないことについてならまだしも、口の中を切ったくらいであんな声かけをしてもらえるなんて。そんなことまったく想像もしなかったから、その気配りに感動してしまったことは認める。
もちろん彼女のそれは職業的な配慮にすぎない。わかっている、わかってはいるが、自分よりも二十歳近く年の離れた美しい女性に細やかな気配りをされて、嫌な気持ちがするはずもなかった。
「だからといって、好きになったりはしないけどな。うん、しないよ」
と、独りごち、ちいさく嘆息。
そう。これは昔から、肝に銘じていたことだ。
私は特別な存在を作ってはいけない。そんなものを作ったら、あの凶悪な男――オール・フォー・ワン――がなにをしてくるかわからない。あの男はこちらの大切なものを壊すことを喜びとする。私のお師匠も、ご主人を殺されていた。だからお師匠はお子さんを守るために、断腸の思いで手放したのだと聞いている。
だから私は、誰かを特別に愛したりしないし、愛されようとも思わない。
先代から大いなる力を与えられて以来、私はずっとそうしてきた。むろん、これからもそうするつもりだ。
巨悪と戦うというのは、そういうことだ。
「……まあ……それはそれとして、やっぱりケーキは食べたいね」
笑顔でひとりごち、私は評判のパティスリーの扉を、静かに押した。
***
「おかえりなさいませ」
出迎えてくれたみづきの笑顔は、今日も春風のように柔らかい。
笑まれただけで自分が溶けかかったバターのようになっていることに気がついて、内心で「しっかりしろよ、オールマイト」と、自分で自分に檄を飛ばした。
こちらの心中など気づきもしないようすで――むろん気づかれても困るのだが――みづきが卵を手に微笑む。
「本日は卵料理にする予定なのですが、せっかくの早いお帰りなので、スフレオムレツにしてもよろしいでしょうか」
「うん。もちろんだよ。楽しみだな」
スフレオムレツはふわふわの食感を楽しむものだ。作ってすぐに食べないとしぼんでしまう。こういう早帰り出来た日にしか食べられない。
「早速準備いたしますね」
うん、と返して、ダイニングチェアに腰掛ける。妙に落ち着かない気分のままで。
***
「いや、おいしかった。ごちそうさまでした」
「おそまつさまでした」
ハーブソルトを利かせたスフレのオムレツはふわふわで、口に入れた途端ふわりと溶けた。
本当に何を作らせてもうまいな、と感心していると、みづきがまた口を開いた。
「食後になにかお飲みになりますか?」
「いや、汗かいちゃったから、先にお風呂にしようかな。君は気にせず、作り置きのおかずを作っていてくれたまえ」
はいという返信を背に、浴室へと向かう。明日のおかずはなんだろな、と心の中でつぶやきながら。
*
風呂をすませ、髪を乾かしてリビングダイニングに戻ると、みづきがかしこまった様子で私のことを待ち受けていた。
「あれ、どうかした?」
「申し訳ありません。時計を見間違えていたようで、三十分ほど時間が余ってしまいました。おかずはいつもの数を用意いたしましたが、もう少しお作りするか、どこかお掃除でもさせていただきたいと思うのですが」
「いや、掃除って……。君は料理人だろ?」
「はい。わたしの契約は調理中心となってはおりますが、時間が余ってしまった場合は、掃除などの家事を承ることも可能でございます。そのための研修も受けておりますので、どうぞお気兼ねなく、なんなりとお申しつけください」
いや君、言いかた堅いよ。他人行儀だな。
しかし掃除と言われても、室内は片付いているし、定期的にロボット掃除機が作動するので床も綺麗だ。さしあたって掃除が必要そうなのは、今使用したばかりの浴室くらいだが、入浴後の湯気も消えきらぬうちにそれを頼むのは、さすがに気がひける。
どうするか、と腕を組んだその時、私は先ほど自分が冷蔵庫に入れた箱の存在を思い出した。
「君、ケーキ好き?」
「ケーキですか? 苦手ではありませんが……」
「そしたらさ、君、その三十分でケーキ食べるのつきあってくれない?」
「えっ?」
怪訝そうな顔をされてしまった。まあ、それはそうだろう。五十を超えたおっさんとサシでケーキ、キモいよな。
だから彼女の心情を慮って、素直に事情を話すことにした。
「実は私、今日誕生日なんだよね」
「まあ、それはおめでとうございます」
「ありがとう。でね、自分で自分を祝おうと思ってケーキを買ったんだ。一つだけ買うのもなんだから二つ買っちゃったんだけど、やっぱり一人じゃ食べ切れそうもないんだよ。これも業務の一つだと思って、一緒に食べてくれない? 他の日ならまだしも、誕生日に一人でケーキを食べるのは、なんだか味気なくて」
するとみづきは顎先に手を当てた。
それは彼女が個性を使用する際に無意識にしてしまう癖であると、校長の調査により、私はすでに知っている。
ハイスペックの個性を持つ校長が手に入れた情報は、初顔合わせの時にみづきの前で開いた職歴書とは比べものにならない。生年月日、家族構成、彼女が暮らしてきた場所や親しくしていた相手の名前および略歴。学校の成績、趣味嗜好、個性とそれを使う時の癖。本当に多岐に渡る。
そしてみづきの個性は実弟同様、嗅覚に関するものだった。彼女は人並み外れた嗅覚を持ち、人の身体から出される微妙な香りから、相手の悪意や好意の有無などのざっくりとした感情を読み取ることができるという。
他人の家で出されたものを食する時は、常になにかを混入される危険性がつきまとう。だからこの場合に彼女が個性を使って私に悪意がないかどうか確認するのは、危機回避のための手段ともいえる。
個性の使用が許されるのは資格持ちだけとなっているが、実際は人に迷惑をかけないものであれば、たいていにおいては黙認されているし、私もそのつもりで、みづきの返答を待った。
「そうですね」
しばらく考えていたみづきが、やがて意を決したように口唇を開いた。
「せっかくのお誕生日です。わたしでよろしければ、ご相伴にあずかります」
「わあ、ありがとう」
「いえ、それはこちらこそです。そうしましたら、ケーキに合わせるのは珈琲と紅茶、どちらがよろしいですか?」
「うーん、今日は珈琲がいいかな。よかったら君の分も淹れて。一緒に飲もうよ」
「まあ、ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」
こちらこそだよ、と小さく呟き、冷蔵庫からケーキの箱を出した。二人で食べるなら一番小さいホールにしても良かったなと思いながら、箱を開く。
中には鮮やかな赤のフレジェと、焼き目のついた白いメレンゲが乗ったレモンパイ。
「ねえ、みづきさんはどっちがいい?」
「いや、そこは八木さんから。お誕生日じゃないですか」
「そう? じゃあ、遠慮なく先に選ばせてもらうね」
女性を差し置いて先に選ぶのはスマートではないのだが、彼女の立場上、私より先に選ぶことはできないだろう。
「フレジェは綺麗で美味しいんだけど、食後に食べるにはちょっと重いんだよな……私レモンパイにしていい?」
「もちろんです。わたしはフレジェをいただきますね」
和気あいあいと語り合いながら、みづきが小皿にケーキを載せ、珈琲をサーブしてくれる。わくわくしながらフォークを手にしたその時、ぷつん、と音がして、リビングのモニターの電源が入った。
いやタイミング、と、心中で呟く。
新しい清涼飲料水のコマーシャルの初放送をチェックしようと、あらかじめセットしておいたのだ。
――私が、爽やかに、来た!
画面の中では、私がお決まりのセリフを告げながら、高らかに笑う。続けて「弾ける爽快感」とナレーションが入り、商品を持ってポーズを決める私のアップ。まあ、出来は悪くない。
「この番組、お好きなんですか?」
「えっ?」
「出没!東京街巡り」
みづきが言う通り、CMが終わってすぐに始まったのは、東京の街紹介番組だった。奇しくも、本日の特集は三茶町。かつてみづきが住んでいた街である。
テレビからは女性タレントの甘い声が流れ続ける。
――今日は瀬田谷区は三茶にきています。
「三茶か。たしか君、ここでレストランを経営してたんだっけか」
――まずは美味しい家庭的フレンチのお店から。
「はい。いい街でしたよ。離れてしまいましたが好きでし……」
と、画面を眺めていたみづきが、言葉を失い立ち尽くした。
――こちらラパンは、グラントハイアットホテルで修行を積んだシェフが開いたお店だそうです。
次いで流れてきた店の名に私もぎょっとして、画面とみづきを交互に見やる。
ラパン。
それはかつてみづきがパートナーと共に経営していた、フレンチレストランの店名だった。
2024.8.19
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