――そうなんです。三年前からですね。
――で、お二人はこのお店で愛を育んで、最近ご結婚されたと。
――はい。二ヶ月ほど前に子どもも産まれました。
テレビからは、ハンサムな男性シェフとタレントの会話が流れてくる。シェフの隣で微笑んでいる愛らしい雰囲気の若い女性が、おそらく彼の妻だろう。
なんとなく気まずい気分で、ちらりとみづきを盗み見た。
彼女は完全に色を失っている。その無表情かつ蒼白な顔を見て、テレビの中のふたりと彼女の間になにがあったのかを、私は悟った。
なんとなく、そんな気はしていた。みづきの経歴を見た時から。
共同経営者の男性とみづきは、住所を同じくしていた。つまり彼らは公私共にパートナーであったということだ。平たく言えば、事実婚状態。
おそらくみづきはその相手と別れたことで店を辞し、実家に戻ってきたのだろう。それが透けて見えていたから、私は初顔合わせの時にそこに言及することを避けたのだ。
モニターのむこうでは、みづきにとって残酷であろう会話が延々と繰り広げられている。チャンネルを変えてやりたいが、いまそれをするのも不自然だ。
どうするオールマイト、おまえに今できることは何だ?
そう自問を繰り替えしていると、こちらが気づいたことを察したのだろう。みづきがこちらを見て、ゆっくりと微笑んだ。瞳に涙の膜をうっすらと張ったまま。
この瞬間、胸の奥が強く締め付けられたような気がした。他人のことのはずなのに、ひどく苦しい。
なぜ笑う。そんな顔をしてまで、笑わなくていいんだ。
「お察しのご様子なのでお話いたしますが」
と、みづきが微笑みながら続けた。だがその顔は、泣いているようにしか見えなくて。
「わたしが店を辞めて地元に戻った理由がこれです。まったくお恥ずかしい話です。笑っちゃいますよね。十年一緒にいたパートナーに裏切られるなんて」
「何を言っているんだ。それ君のせいじゃないだろ」
とたん、彼女の印象的な目が大きく開かれ、瞳を覆っている水膜が厚みを増した。
けれどみづきはすぐに天を仰ぎ、それをこぼすことなくやりすごした。芯の強いひとだと、しみじみ思った。
そしてまた、みづきはこちらに向き直り、凪いだ湖のように穏やかに笑んだ。
「ありがとうございます。わたしのプライベートのことでお気を使わせてしまってすみません」
「かまわないよ。それに……」
「はい?」
「もしかしたら君、このこと、誰にも話したことないんじゃないか?」
一瞬、みづきの肩がこわばった。
やっぱりか、と口の中で呟く。そんな気はしていた。なんとなくだけれど。
彼女がうちに通うようになってすぐ、弟の香久夜くんが私のところに挨拶に来た。
『気の強い姉でいろいろと失礼などあるかと存じますが、ご容赦ください』
香久夜弟の、第一声がこれだった。
『いや、気が強いなんてぜんぜんだよ。むしろ癒やし系じゃない? それに作ってくれる料理はどれも美味しい。助かっているよ』
『あー、見た目はそうかもしれませんが、それ猫かぶってるんですよ。なにせ子どもの頃から人前で泣いたことがないくらいですからね。とにかく気の強い女なのでご気分を害されることがあるかもしれませんが、本人悪気はないと思いますので……大目に見てやってください』
そう告げた香久夜弟の顔は、どこか照れを含んでいた。口ではあしざまに言っているが、本心では姉を慕い、案じているのだろう。だから私は心配ないよと彼に答えた。
実際のところ、私が彼女を気に入りすぎることはあれど、その反対はないだろうとその時からわかってはいたのだ。
とにかく、泣いたことがないと弟が言うくらいだ。おそらくみづきは、ずっと弱音を吐かずに来たのだろう。長年寄り添った相手と別れたことについても。
「おじさん一応君より長く生きてるからさ、話くらいなら聞けるけど?」
そう告げると、みづきの表情が破綻した。ほんの、一瞬だけ。
そして彼女はまた先ほどと同じ無表情に戻り、テーブルの上に視線を移し、ちいさな声でぽつりと言った。
「…………彼女の妊娠にはじめに気がついたのは……彼ではなく、わたしでした」
みづきがぽつりぽつりと語り始めた。
アルバイトの女の子が気分悪そうにしていることが増え、様子がおかしいと思い問い詰めてみると、実は妊娠していると言われた、と。そして――。
「彼女は苦学生で、うち……ラパンでバイトをして生活費を稼ぎながら、近隣の大学の夜間部に通っていたんです。だから相手は同じ大学の学生だとばかり思ってました。ですが……彼女は相手について絶対に語ろうとはしない。……あまりにも頑なだったので、『このままではらちがあかないから、もうひとりの店主である彼を交えて三人で話す』と伝えた時、彼女の表情が崩れました。そこで気がついてしまったんです……相手は彼だと」
「……そうか」
はい、と彼女は答えた。
「そして悪いことに、その時わたしの個性が暴走してしまって……。たまにあるんです。気が高ぶったり動転したりすると、わたしの意思にかかわらず個性を使ってしまうことが」
それは校長からの報告書にも書かれていた。だがそれは彼女の中に相手の感情が自然に流れ込むもので、本人はともかく他者に迷惑をかけるようなものでもない。だから我々も、特に問題視していなかった。
「嗅ぎ取れた感情は、申し訳ないという謝罪の気持ちでした……」
そりゃないだろう。人のパートナーと寝ておいて、申し訳ないもなにもない。そう思うならはなからするな。
そう思ったが、さすがに口には出せない。
そしてみづきは、まずは相手の女の子ではなく彼とふたりで話すことにしたのだと言った。
「そうしたら彼、事実を認めた上で、わたしとやり直したいと言ったんです」
「え? うん? そうなの?」
それならなんでこういうことになってるの、と続けそうになるのをかろうじてこらえる。するとみづきは、はい、と答え、少し気まずそうな顔をした。
「そこでわたし、ブチ切れてしまって」
「ブチ切れ?」
「はい」
意外と口が悪いんだな、と息を飲みつつ、続きを待った。浮気されたとなれば、ブチ切れたとしてもおかしくはないというか、当然だ。
「だってそうでしょう。子どもと彼女、どうすんだって話ですよ」
「え? そっち?」
こういう場合はたいてい、自分が裏切られたことに対して悲しんだり怒ったりするものだとばかり思っていたから、彼女の言葉に驚かされた。
「ええ。まずそっちです。さきほども申し上げた通り、彼女は苦学生でした。それがわかっていて手を出して、しかも妊娠までさせて……。なにしてんだって思っちゃったわけです」
「……でも彼女は彼女で、彼に君というひとがいるのを知って誘いに乗ったわけだろ? あるいは彼女から誘ったのかもしれないし……」
「それはそうですが……。年長者である彼が手を出さなければ、そういうことにはならなかったわけですから。いい大人なんだから避妊くらいちゃんとしろ、とも思いましたし」
「それは……たしかにそうだけど……」
だから別れる別れないで少しもめたのだと、彼女は言った。
「わたしは彼のことがとても好きでしたけれど、好きだったからこそ許せなかったんですよね。でも彼と続けたい気持ちもどこかにあって、決断するまで少し時間がかかりました」
「うん」
「でも、やり直したとしても、店で若い女の子を雇うたび、わたしは疑心暗鬼にならなきゃいけないわけでしょう……」
そう言って、みづきは目を伏せた。それは確かにそうだ。
一度裏切られた人間は、裏切った相手をもう一度信じることが難しい。
しかも相手は職場も同じ。どろどろとした気持ちを抱えながら、共に過ごす。それは何という名の地獄だろう。
「あと、彼が彼女と子どものことをちゃんとしないで、わたしと関係を続けようとしたことも引っかかってて。このひととはもう無理かなあって思っちゃったんですよね」
そもそもみづきと彼とが入籍をせず事実婚という形をとったのも、向こうの希望によるものだったという。みづき自身は特に結婚にこだわりがなかったので、それを飲んだが、今回のことで、彼が何に対しても責任を持ちたくない人間であることを知ったのだと、みづきは言った。
「店の権利を共同にしようと言い出したのも、そういえば彼でした」
「ああ……」
「……それでも結局、あの子と結婚したんですね。やっと誰かに対して責任を持とうと思ったわけだ……」
最後の言葉は、ごくごく小さく、独り言のように漏らされた。
それがみづきの、心の傷の深さを物語る。抑制された口調でさらりと話していたが、実際に彼女が別れを決めるまでは、そうとうの葛藤があったに違いなかった。
そして時に悲しみは、その場だけではなく、過ぎ去ってからも津波のように押し寄せることがある。おそらく彼女もそうであったのではないかと、悲しげな顔で、それでも微笑むみづきを見ていて、ひそかに思った。
「ねえ、ちょっとツッコんだこと聞いてもいい?」
はい、と微笑んだ、その笑顔がどうにも眩しい。
彼女に入れ込みはじめている自分に気づきながらも、この美しいひとが一方的に傷つけられたのだと思うとなんとも言えない気持ちになった。
「……こんなこと言うのはあれなんだけど、ちゃんと慰謝料はもらったの?」
「もらいましたよ。彼からは」
と、みづきは続けて平均的な離婚慰謝料よりも、かなり低い金額を告げた。
「それだけ? 彼女からは?」
「そちらは、申し立てませんでした。そもそもわたしと彼は正式な婚姻関係ではなく、籍を入れない事実婚でしたし。彼から取れれば充分ですよ」
「いや、君の場合、店を共同経営していたこともあるし、きちんと申し立てをしたら認められると思うぜ。今からでも遅くないから、いい弁護士を紹介しようか?」
するとみづきは、軽く眉を下げた。
「でも、悪いのは彼ですしねえ」
「さっきも言ったけど、女の子のほうにも責任はあるよ」
「そうかもしれないですけど、あの子がずっと苦労してきたのは知ってますから……。子どもが生まれたらお金もかかるでしょうし、しばらく彼女は店には出られない。その上でわたしという料理人が一人減るってことは、彼の負担も大きく増えたことでしょう。だから、お金のことはもういいんです」
なんたるお人好しだ、と内心でつぶやいた。
だが困ったことに、私はそういうお人好しが嫌いじゃあない。
「そんな形で別れて、吹っ切れたつもりではいたんですけど、ふたりがああして睦まじく暮らしているのを唐突に突きつけられると、ちょっとしんどいですね」
みづきは軽く首をかしげて、にこりと笑んだ。まるで、ちいさな花が咲くみたいに。
その姿が悲しく、同時にどうしようもなく愛おしい。
――愛おしいだって?
己の中に生じた感情に自分でも驚き、私は心中で声を上げた。
そして同時に、自分が彼女に向かって腕を伸ばしかけていたことに気がついて、ひどく慌てた。
私はいったい、なにをしようとしたのか。
傷心につけこんで、この腕に彼女を抱こうと? なんということだ。そんなこと、決して許されるはずがないのに。
私は誰も愛さない、誰のことも特別には思わない。
巨悪と戦い、象徴として生きるとは、そういうことだ。ずっとそうして生きてきたのに。
私は小さく息をつき、伸ばしかけた手をさりげなく止め、元の位置へと戻した。この葛藤がみづきに気づかれぬように、細心の注意を払いながら。
「申し訳ありません。重い空気にさせてしまって」
「……いや、私は気にしていないよ。それに……」
「はい?」
「悲しい時は無理に笑わなくていい。泣いたっていいんだぜ」
「いいえ。わたしはもう大丈夫です」
みづきはきゅっと唇を引き結び、まっすぐこちらを見つめたままそう答えた。
――アルプスの星。
私の脳裏に、はるか高嶺に咲くちいさな花の姿が浮かんだ。綿毛に覆われた、星の形のその花は、悠久の時を感じさせる屋久杉の次に私が好きな植物だ。
薔薇や蘭のような派手さはないが、過酷な状況下にも負けず咲く、強くて、けれどどこか儚い花。
その名は――。
「せっかく言ってくださったのに、かわいげがなくてすみません。きっと男性は、こういうとき素直に泣けるかわいい女性がお好きなのでしょうね。そういえばあの子も、春の日だまりの中で咲く可憐な花のようでしたから……」
「……君にかわいげがないと思ったことはないけどな。君は素敵な女性だよ。あっ、別に下心があるわけじゃないからね、これは正直な感想」
はい、と微笑んだその顔を見て、すこし後ろめたい気持ちになった。
本当に下心は微塵もないか? オールマイトよ、と、頭の隅で声がする。
それを振り払うように、私は口を開いた。
「それに好みはいろいろじゃないかな。私は芯の強いひとも好きだよ。春の日だまりの中で咲く小花もかわいいけれど、過酷な環境の中で凜と咲く花も、またいいじゃないか」
そういえば、お師匠もそういうタイプだった。
私は先代のことを異性としてではなく母を想うように慕っていたが、出会いが思春期だったからだろうか、どうしても私はお師匠のように、一本筋の通った強く優しい女性を好ましく感じてしまう傾向がある。
「お気遣いありがとうございます。では歴代の彼女さんも、そういうちょっと強いタイプでした?」
「エッ?」
思いもかけない質問に、私は狼狽した。
つきあった相手など、今までひとりもいない。
それは自分があえて選択したことであるし、それを恥じ入る気持ちもない。だがそれはそれとして、この年齢で異性との交際経験がないことを口にしたら、相手が引くであろうことはわかっている。
だから、困ったな、と頭をかくと、みづきははっとしたように頭を下げた。彼女は私の困惑を、別の理由で受け取ったようすだった。
「申し訳ありません。詮索しないよう言われているのに、立ち入ったことをおたずねいたしました」
「いや……」
そうじゃないんだけどな、と内心でうそぶきつつ、今はこの誤解に乗っかった方がいいだろうな、と思い直した。
「ともかく、芯の強い女性って、好ましいと思うよ」
「ありがとうございます。それに、お言葉に甘えて個人的なことをペラペラとお話してしまい、本当にお恥ずかしい限りです」
照れたように笑んだその顔が、やはり純白の花のようだと思った。
「珈琲、冷めちゃいましたね。淹れ直します」
「いや」
自分のカップの中身を干して、席を立った。
「私が淹れよう」
「いけません。それはわたしの仕事です」
「みづきさん、時計見て」
えっ、とちいさく呟いて、みづきが壁の掛け時計を振り仰ぐ。時計の針が指していたのは、八時半をほんの少しだけまわったところ。
「ね、もう勤務時間じゃない。それなのに、私は君に時間を割いてもらっている。なら、珈琲くらいは私が淹れるべきだろ?」
「でも……」
「いいから座っていて。君ほど上手には淹れられないけど、そこそこ美味しくできるとは思うからさ」
立ち上がりかけた彼女を無理矢理座らせ、湯を沸かした。ドリッパーにフィルターと豆をセットして、のの字を描くようにゆっくりと湯を落とす。時折、ダイニングにいる彼女のうつむき加減の横顔を見つめながら。
高山の強い紫外線に晒され、強風を受け流し、低い気圧にも耐え、岩だらけの地に根を張る、ちいさな白い花がある。
ドイツ語で「高貴な」「白」を意味するその花の名は、エーデルワイス。
その強さと可憐さで山男たちを魅了する、アルプスの星。
これはまったく、実にまずい感情だ。
高い峰の上で咲く花の残像が目の前の女性と重なって、私は心の中で、深い深いため息をついた。
2024.8.23
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