迅雷

 暑すぎる……、と、内心でひとりごちた。
 六月の終わりとは思えぬ強い日差しに閉口しつつ、歩を進める。

「……食材傷むといやだし、近道しちゃおうかな」

 今度は心の中ではなく、実際に言葉が漏れた。

 サービスを始めたばかりのころ、食材を用意していたのは八木だった。だが先月の半ばあたりから、こちらにすべて任せてくれるようになった。信頼されている証のような気がして、なんだか嬉しい。
 今回は「アメリカ風のお肉がぎゅっとつまったハンバーガーをお願いします」という八木のリクエストをかなえるべく、アメリカンビーフの肩ロースをはじめとする食材を買い込んでいた。

 この道をまっすぐ行くと、ちいさな踏切がある。少し先にある高架下の街道を利用する人が圧倒的に多いためひとけがなく、露出狂が出没することもあると言われる場所なので、わたしもあまり使わないようにしていたが、そこを使えば八木の家まではすぐそこだ。

 それにしても、と、六月十日の夜におきたことを思い出しながら、小さく息をついた。
 お客様のお言葉に甘えてケーキをいただいた。家政婦としてのルール上、セウトではあるが、それはまだいい。
 問題はわたしが身の上話をしてしまったことだ。しかも語った内容には、他の誰にも話したことのない、かなり重たい部分が含まれていた。

 内縁の元夫に対する未練はない。しかし、ずっとわだかまりはあった。
 わたしはふたりが好きだった。彼女はわたしになついていたし、彼に至っては、彼女との関係が発覚する前日まで、わたしと性交渉を持っていた。
 正直に言ってしまえば、わだかまりどころか、彼らに対する恨みに近い感情があった。

 だが彼らを責めたい気持ちがある反面、こうなったのはわたしに非があったせいではないのかと考えてしまうことがあった。

 なにがいけなかったのだろう。どうすればよかったのだろう。
 それは、どれだけ考えても答えの出せなかった問い。

 けれど――。

「君のせいじゃないだろ」
「君にかわいげがないと思ったことはないけどな」
「春の日だまりの中で咲く小花もかわいいけれど、過酷な環境の中で凜と咲く花も、またいいじゃないか」

 八木にそう言ってもらえた時、わたしの心の奥底に残っていた硬いしこりがほぐれていくのを感じた。
 今にして思えば、あれはわたしのせいではなく、ただ単純に、あのふたりが惹かれあい、求めあった。それだけのことなのだ。そう思ってしまえば、あとは楽なものだった。

 それにしても不思議なひとだ、としみじみ思う。
 あの低く優しい声でささやかれると、なんでも話してしまいたくなる。彼に微笑まれると、心の底から安心する。
 どうしてだろう。八木の声質がオールマイトと似ているからだろうか。
 いや、と内心で首を振った。それだけではない、きっとわたしは彼に惹かれているのだ。

 だからこそ、八木に対しては恥ずかしさと申し訳なさでいっぱいになる。
 そもそも、あの日は八木のお誕生日だった。そのためのケーキであったはずなのに、お祝いムードではなく、空気を激重にしてしまった。しかも八木は友人ではなく大切なお客様だ。それなのに、あんな話をしてしまって。

 あのあと、六度、八木宅を訪問したが、わたしのいる時間帯に彼が帰宅することはなかった。
 気を使って会わないようにしてくれているのか、彼自身も気まずくてわたしと会うのを避けているのか、ただ単純に忙しかっただけなのか、わたしにはわからないけれど。

 だが、いつまでも顔を合わせないわけにはいかないだろう。おそらく彼は大人だから、何事もなかったかのように接してくれるだろうけれど。

「あれ?」

 と、その時、思わず声が漏れた。
 踏切のなか……しかも線路の上で、小柄なおばあさんが倒れている。この暑さだ、熱中症かなにかだろうか。

「たいへん!」

 このあたりの電車は二十分に一本しかないが、すぐ来ないとも限らない。ともかく声かけを、と全力でおばあさんの元へと駆け寄った。

「大丈夫ですか?」

 耳元で声をかけたが、やはり返答はない。
 どうしよう、と思ったその刹那、カンカンカンカン、と、警告音が鳴り響いた。二つの警告灯が音に合わせて交互に点滅をくり返し、ゆっくりと遮断機が降りてゆく。

 まずいと思い、とっさにおばあさんを見おろした。
 体格は細身で小柄、たいして重たくはなさそうだ。脳出血の場合は動かさない方がいいのだが、そんなことを言っている時間はない。線路脇に避難させなければ大惨事だ。
 警告音にせき立てられるように、おばあさんの両脇に手を入れ、抱き起こそうと力を込めた。
 ところが――。

 細身のはずのおばあさんはびくともしない。鉛かなにかの個性だろうか。
 そうこうするうちに、電車が見えてきた。このままじゃだめだ、と、警報器まで駆け戻り、非常ボタンを思い切り押す。
 だが、近づいてくる電車を確認してぞっとした。流線型のボディをカナリーイエローで彩るあの列車は、イエローアロー。新幹線に次ぐ速度を誇る特急だ。かなりの速度が出ているぶん、そうすぐには止まれない。

 どうしよう、わたしの力ではどうにもできない。かといって、放っておくわけにはいかない。それなら引きずってでも、線路の上から避難させなければ。
 
 と、おばあさんの元に駆け戻ろうとした瞬間、高らかな笑い声と共に、頭上から太い叫びが響き渡った。

「そこにいてレディ! もう大丈夫! なぜって?」

 この声の主がその後に続ける言葉を知らない大人は、この国にはいない。
 しかし、ほっと息をつく間もなく、激しい警笛と共に、稲妻にも似た黄色い矢がやってくる。次いでごう、という風圧と、鳴り渡る警笛とブレーキ音。
 思わず目を閉じてしまったわたしの耳に、「私が来た」というお決まりの言葉は届かなかった。
 特急の音にかき消されたのか、それとも――。

 おそるおそる目を開ける。特急は踏切を通り過ぎ、百メートルほど先で停車していた。けれど先ほどまでおばあさんが倒れていたところには、誰もいない。

「……おばあさんは?」

 そう独りごちた、そのときだった。

「ありがとう。あなたが非常ボタンを押してくれたんだね」

 聞こえてきたのは、八木とよく似た、だがもうすこし張りのある声。その方角に視線を転じると、おばあさんを横抱きにしながらわたしのエコバッグを手に警報器の上に立つ、偉丈夫の姿が見てとれた。

「オールマイト!」
「ちょうど通りかかったところに、警告音が聞こえたからね。間に合ってよかった」

 警報器から下りてきたオールマイトが、はい、と、わたしにエコバッグを差し出した。

「ありがとうございます」

 エコバッグを受け取ろうとした瞬間、わたしは雷に撃たれたかのような衝撃を受けた。ナンバーワン・ヒーローから漂ってくる香りに、覚えがあったからだ。

 わたしは個性を使わなくても、犬並みの嗅覚を持っている。
 にこりと笑みながら首をかしげる平和の象徴から漂うのは、シナモンと白檀とバニラを基調とした男性用の香水だ。この香りの広告塔でもあるオールマイトがそれをつけていることには、なんの驚きもない。だが問題は、香水に混じるホワイトムスクにミルクが混じったような、柔らかな芳香だった。
 体臭というものは人によって違う。その違いは常人には嗅ぎ分けられないが、わたしの鼻はその微々たる違いが識別できる。
 おそらくはオールマイト本人の体臭であろうこの香りを、わたしは何度も嗅いだことがあった。中庭のある、ビンテージマンションの三階で。

「どうしたの? 大丈夫?」

 額に汗をかきながら、オールマイトがわたしにたずねる。「あのひと」とよく似たその声で。

「もしかして、警報ボタンを押した時、どこかぶつけた?」

 心配そうにこちらを見おろす瞳は、「あのひと」と同じ、晴れ渡った空の色。

「……ごめんなさい。大丈夫です。少し驚……いえ、なんでもありません」

 するとオールマイトは、一瞬気まずそうな顔をして、次になにもなかったかのように微笑んだ。

「そう……。なんでもないなら良かった! それじゃあ、私はこれで」

 駆けてきた駅員におばあさんを託して、オールマイトは飛び立った。
 夕陽の向こうに、筋肉の盛り上がった背中が消えていく。それが完全に見えなくなるまで見守って、わたしは大きく息をついた。

「……オールマイトだったのね……」

 そりゃあ声が似てるはずだ。だって本人なんだもの。
 そりゃあヒーロー名は言えないはずだ。普段の姿は別人だもの。

 胃袋全摘、片肺摘出。ほんの少しの刺激で血を吐くような満身創痍のその身体で、それでも戦う平和の象徴。
 彼の覚悟の大きさと、その人生の過酷さを想像しただけで、胸の奥が苦しくなった。

「……そうか……オールマイトだったのか」

 好きだったのにな、と心の中で呟いて、目を閉じた。

 この国のヒーロービルボードチャートの頂点に、何年も君臨し続けているスーパースター。世界的にも有名で、他国にも彼を尊敬するヒーローが多くいると聞いている。
 誰も知らないヒーローならいざしらず、そんな雲の上の人と自分がどうにかなるなんて、想像もつかない。

 そう思いかけ、いや、と首を振った。
 どちらにしろ、彼は近くて遠い存在だった。
 だから、初めから実るはずのない恋だったのだ。

「あーあ……」

 六月の強い西日に照らされながら、また小さくひとりごちる。

「早く行かないと、大事なお肉が傷んじゃうね」

 ぽつりと呟いて、歩を進めた。
 今日も美味しいごはんを作ろう、と、心の中で呟きながら。

***

「おかえりなさいませ」

 ちらりと時計を盗み見る、時刻は六時四十五分。珍しくずいぶん早いお帰りだ。

「リクエストにお応えして、本日はお肉がぎゅっとつまったハンバーガーをご用意させていただきます」
「ありがとう! 楽しみだよ」

 満面の笑みを浮かべるのは、痩せ細った平和の象徴。

 思った通り、八木は先日わたしが語ったことなどなかったように、自然に振る舞ってくれている。さすがの対応に救われる思いだ。
 当然わたしも、彼の正体に気づいたことには一言も触れず、作業をすすめる。

「ところで君、なにしてるの?」

 わたしの手元を見て、八木がたずねてきた。痩せても背が高い彼は、わたしと目線を合わせるために、大きく身を屈めねばならない。

「ミンチを作っているんです」
「ええ? そうなの? すごい手がかかってるんだね。ピクルスも手作りしてくれたって言ってたし、ほんとありがたいな。楽しみだよ」

 スーパーで売られている挽肉は、脂が多めだ。そのうえ日本人の嗜好に合わせ、和牛はサシが多い。だから今回は適度に脂が乗った、アメリカンビーフの肩ロースを塊で用意した。それを包丁で叩きパティにすれば、八木がリクエストした通りのお肉がぎゅっとつまったハンバーガーが作れる。
 また彼の言葉通り、ピクルスは自家製だ。リクエストをいただいたときにそうと伝えてあるので、材料費だけでなく、作業の対価もお給料に上乗せされることになっている。

「ありがとうございます。もう少しでお出しできますので、いましばらくお待ちくださいね」

 うん、とかわいくうなずいた八木に笑みを返し、わたしは調理に取りかかった。



「ごちそうさま。今日もすごく美味しかったよ!」

 無邪気な笑顔をよこした長身痩躯に、ありがとうございます、と頭を下げた。こうも嬉しげに食べてもらえると、こちらも作りがいがある。
 オールマイトはほめじょうず、と心の中で呟いて、下げた食器を食洗機に入れ、キッチンまわりの掃除を続けた。

 これで終わり――と、乾いたダスターでシンクをピカピカに拭き上げ、顔をあげた、その時だった。

 窓の向こうに広がる夜空を、研ぎ澄まされた刃のような光が引き裂いた。次いで轟いたのは雷鳴だ。

「雷か……これは一雨来そうだね」
「ですねぇ……」

 わたしは大きなため息をついた。
 この季節の迅雷が連れてくるのは、しとしとと降る雨ではなく集中的な豪雨だ。分厚い暗雲がかかった空からは、ゴロゴロという不穏な音が鳴り続けている。八木の言う通り、これは雷だけではすまないだろう。
 あと少しで退勤だというのに、本当についてない。

 そうこうするうちに、ふたたび光が空を駆け抜けた。二秒ほどの間を開けて、窓ガラスを震わせんばかりの轟音が鳴り響く。と、ほぼ同じタイミングで、激しい雨が降ってきた。
 バラバラという大きな音を立てながら、雨粒が中庭の樹木や屋根を叩いてゆく。息をする間もなく、また稲妻が駆け抜け、巨大な光のエネルギーが大気を揺らした。

「……すごい雷雨」

 雷獣の奏でるシンフォニーに辟易しながら、ぽつりと呟く。――と、いつの間にか隣に来ていた八木が、「君、このあとの予定は?」と静かに言った。

「特にありません」
「そうか。それならここで雨宿りしていったら? この振り方、ちょっとやばいよ」

 言われて再び窓の外を見やった。暗雲が広がる空を稲光が切り裂き、激しい雨が水煙をあげながら降りしきる。これでは前もろくに見えまい。しかもわたしは雷というものが苦手ときている。

「……お言葉に甘えて、少し小ぶりになるまでいさせていただいてもいいですか?」
「もちろんさ」

 と、八木が答えたその刹那、大砲が撃ち込まれたかのような爆音が、地響きと共に轟いた。

「きゃっ」
「おっと」

 思わず、隣にあった細い腕にしがみついた。柳のように細くしなやかでありながら、人ひとりの体重を軽々と受け止めた、強い腕。

「今のは近くて、びっくりしたね」

 言葉に反して、八木がまったく動じていないような笑みを浮かべた。
 わかっている、今のはフォローだ。かつて彼は、雷の個性を持つヴィランと戦い、落ちてくる稲妻をものともせずに真っ正面から敵とぶつかり、パンチひとつで瞬殺した。
 それだけじゃない。このひとは、拳ひとつで天候を変えたことすらあったはずだ。

「大丈夫?」

 わたしを見おろす八木の声は、からかうような調子だった。

「……大丈夫です。つい声が出ちゃっただけで」

 言いながらしがみついていた腕をさりげなく離す。と、八木がやや大げさにうなずいた。

「うんうん、そうだよね」
「本当ですよ」
「うん。わかってるよ」

 ニコニコと微笑みながら八木が答えた瞬間、またしても巨大な閃光が夜空を裂いた。続いたのは、先ほどのそれよりも激しい雷鳴。
 思わず膝を落としそうになったわたしを、ふたたび八木が抱きとめた。ふわりと漂う、スパイシーな白檀バニラ。そこに先ほど踏切で嗅いだのと同じ、ミルキーなホワイトムスクが追いかけてくる。

 その刹那、バチッ、という音がして、電源が落ちた。
 慌てて窓の外に視線を走らせる。と、そこに広がるのは漆を刷いたような闇。

「……停電みたいですね」
「そうだね……。でも大丈夫だよ。きっとすぐ復活する」

 柔らかい声に落ち着きを取り戻し、はたと気づいた。彼の腕の中にいるという、その事実に。
 心臓が早鐘のように鳴る。早く身体を離さなくては、と思うのだけれど、なぜか、そうすることができない。

「みづきさん……」

 耳元で、甘く低い声がした。声の主はわたしを抱きとめたままだ。だからわたしは思い切って、細い腰に腕を回した。

 瞬間、八木が身じろぎをした。
 わたしの鼓動に彼の鼓動が重なる。身長差があっても聞こえてくるほどの、激しい心音。
 窓の外は夏の嵐だ。だがその嵐に負けないくらい、互いの心臓が高らかに鳴り続けている。

 けれど八木は、それ以上なにもしようとはしなかった。わたしもまた、彼に倣った。
 無言で抱き合ったまま、どれだけの時間が過ぎただろうか。

 どうしよう。八木はどういうつもりなんだろう。
 思い切って声をかけてみようか、と思ったその時、唐突に部屋のあかりがついた。

「ああっ、ごめん!」

 八木が赤面して、わたしから身体を離した。わたしも「すみません」と叫んで距離を取る。そしたわたしたちは、そのままの形で見つめ合い、言葉を探した。

「ええとこれは……」

 先陣を切ったのは八木だった。だからわたしも彼に合わせる。

「これは――事故! そう、事故みたいなものです。わたし実は、雷がとても苦手で」
「そう、事故。これは事故だね! 雷びっくりしたよな」
「はい。とても!」

 そしてまた、彼は視線を泳がせた。そんなふうにされたら、こちらも気まずい。どうしたらいいかわからないまま、互いに立ち尽くすこと、しばし。

 まったく、いい年をした男女がなんということだろう。
 今時、高校生だってもう少しうまくやるのではないだろうか。

「あっ! 見て」

 と、話題を投げてくれたのは、やはり八木のほうだった。

「雨、小降りになってない?」
「ほ……ほんとうですね」

 言われるがまま、窓の外を見やった。たしかに雨はやみかけている。
 帰るなら今だ。

「それでは、わたしはこれで……」

 さっと身支度をして、早足で玄関へと向かった。

「そうだね、お気をつけて」

 八木もまた、早足で玄関まで着いてくる。

「そ……それでは失礼します」
「う……うん。じゃあまた」

 玄関の外に出ると、雨上がり特有の青臭い匂いが鼻腔を突いた。このマンションの中庭は樹木が多いから、なおさらオゾンを強く感じる。

 エレベーターのボタンを押して、まったく、わたしはなにをしているんだろう、と、大きなため息をついた。
 相手はただの客じゃない。スーパーヒーローだ。まったく、馬鹿みたいだ。叶うはずなどないとわかっていながら、こんなにも心を動かされてしまうなんて。若い娘でもあるまいし。
 けれど、と、唇を噛みながら、エレベーターに乗り込んだ。
 けれど理性でどうにかできないのが、恋心というものだ。するものではなく落ちるからこそ、恋なのだ。

 あの人はわたしの心を射抜いてしまった。稲妻が空を駆けるように。
 わたしは恋に落ちてしまった。まさしく落雷にあうように。

2024.8.28
- 5 -
prev / next

戻る
月とうさぎ