晦〜二十九日目の月〜

 結局、雷雨の夜のことは、互いに触れぬままだ。
 抱きしめられたように感じたけれど、なにせ彼は天下のオールマイト。
 おそらく雷に怯えていたわたしを落ち着かせるために、受け止めてくれただけだろう。そして急に明るくなったので、互いに照れが出た。そういうことだ。

 ただ、今にして思うと、あの時の八木はちょっとかわいかった。元々チャーミングな人ではあるのだが、それを差し引いても、あの赤面ぶりはキュートだった。

 八木さん、もしかしてわたしに気がある?
 いやそれは絶対にない。

 じゃあ、もしかして、オールマイトって意外とウブ?
 いやいや、それもないだろう、と首を振った。

 あれだけ人気のある人だもの、女性慣れはしているはずだ。
 けれどその人気者は、一度たりとも女性問題を起こしたことがない。
 だからモテはするけれど、一人の人を長く大事にするタイプなのだろう。もしかしたら、実際に関係を持った人数はそう多くないのかもしれない。
 平和の象徴にふさわしく、オールマイトは品行方正。そういえば、八木はお酒も飲めないと言っていた。

 とすれば、やはりあの抱擁じみた行為に意味はないのだろう。相手はスーパースター。変に期待を抱いたところで、どうなるものでもない。
 いや……でも、もしかしたら――と、思考は堂々巡りをくり返す。

 個性を使って彼の感情を読めば簡単に結論は出るのだろうが、あまりそういうことはしたくなかった。
 自分の身を守るためならいざ知らず、なんでもないときに相手の気持ちを読むなんて、してはいけないことだ。
 それに今までの経験上、人の感情を盗み見てよかったことはあまりない。

 結局のところ、胸の奥にちいさな期待を抱いたまま、何事もなかったかのように振る舞うしかないのだろう。

***

「ただいま」
「おかえりなさいませ。今日はお早いですね」

 時刻は十八時を少し回ったところ。わたしも先ほど着いたばかりだ。
 すると八木は、うん、とちいさくうなずいた。

「今日から一年生が林間合宿なんだ。私は一年生担当だから、彼らがいないとすることがなくてね」

 一年生担当なのに合宿に同行しないのか、と思いかけ、痩せたこの姿を生徒たちに見られるわけにはいかないからだ、と答えを出した。
 すると、八木がカウンター越しに大きく身をかがめて、わたしの手元をのぞき込んだ。彼は背が高いけれど、やや猫背気味で物腰が柔らかいので、こんなことをされても威圧感はない。

「今日のごはんはなに?」
「白鯛のポワレをシャンピニオンソースで、付け合わせは野菜のグリルです。他は生ハムとクレソンのサラダ、白菜とオリーブのスープ。デザートはいちじくの赤ワイン煮の予定です。苦手なものなどございましたら、おっしゃってください」
「うわあ、美味しそうだね! 私、好き嫌いないし、どれも楽しみだよ」
「それはようございました。お食事の前に先にお風呂になさいますか?」

 明日用のおかずを作る都合上そうたずねると、八木は、うーん、と、少し考え込むような顔をした。

「今日は時間があるから、あとでゆっくり半身浴でもしようかな。先にごはんをいただくよ」
「かしこまりました」
「じゃあ、私、着替えてくるね」

 軽やかに身を翻し、八木は奥へと消えて行く。彼はおしゃれだから、家の中でもくたびれたスウェットなどは着ない。今日は何を着るんだろうなと思っていると、八木はモスグリーンのカーゴパンツに白Tシャツでリビングダイニングに現れた。ベルトのバックルにはAの文字。あれはきっとオールマイトのAなのだろうなと思ったが、それは口に出さなかった。



 夕食のあと、わたしは片付けをしながら明日以降のおかずを作り、八木は映画を眺めていた。それは古いフランス映画で、大きな画面いっぱいにいま映し出されているのは、家族だんらんのノエルの風景。

「いいよねえ。こういうの。クリスマスに誰かと過ごすっていうの、憧れちゃうよ」
「ヒーローの皆さんは、年末特にお忙しいでしょうしね」
「うん。年の瀬は事件が増えるし……」

 と、彼はそこで言葉を濁した。
 オールマイトは事件対応だけでなく、テレビの特番に呼ばれることも多いのだろう。
 だからね、と軽く苦笑しながら、画面を指して八木が続ける。

「こうやって家で誰かとクリスマスケーキを食べるのって、ちょっと憧れなんだ。子どもの頃は母が用意してくれたりもしたんだけど、ひとりになってからは、とんと、ね」

 大人になってから、ではなく、ひとりになってから、と、八木は言った。その意味を察して、眉を寄せる。
 それを見た八木が微笑して、ぽつりと続けた。

「うん。学生の時に両親を亡くしてね。以来、天涯孤独」

 ああ、やっぱり。

「重い話しちゃってごめんね。でもそれ、四十年以上も前の話だからさ」

 へにゃりと笑う、その笑顔がどこか切なかった。
 このひとはいつもこうして笑うけれど、その陰でどれだけ泣いてきたのだろうか。

「それに、まったく機会がなかったわけじゃないんだ。大学の頃は親友とクリスマスを祝おうって約束してたんだけど、毎年クリスマス当日は事件の連続でさ。ヒーロー活動をしていたら気づけば朝で、二人ともボロボロで帰宅して、結局祝えずじまいだったんだよね。ま、あれはあれで楽しく充実した日々だったけど」

 八木、いやオールマイトは、そんな頃から世のため人のために生きてきたのか。
 満身創痍で世界を守るこのひとを、強くて優しいこのひとの日々の暮らしを、ほんの少しでも支えたい。
 そう思ったら、言葉が唇から滑り出た。

「……そうしたら、今年は、わたしがお作りしましょうか」
「エッ?」
「小さめのホールでお作りします。親しい方と一緒にお召し上がりになってもよろしいですし、お一人でお召し上がりになられても」
「一人じゃ食べきれなかったら?」

 問うたその声に、からかうような響きが混じっていた。

「そうしましたら、僭越ながらわたしがご一緒させていただきます。もちろん、八木さんがご迷惑でなければの話になりますが」
「それは嬉しいね。ぜひ頼むよ」

 と、そこで八木は、申し訳なさそうに、声のトーンを一段落とした。

「ただ、本当に私、その時期の帰宅時間が読めないんだよね。だからこうやって約束しても、一緒に食べることができないかもしれないんだ。それでもいいかな」
「もちろんです。お作りいたしますね」
「嬉しいなあ。じゃあ、約束だよ」

 爽やかに告げた、その笑顔が眩しかった。
 大きなひまわりが咲くみたいに、華やかに笑うひと。

 この柔らかな関係がずっと続けばいい。
 少女のようなことを思ってしまった自分に呆れつつ、はい、とわたしは答えた。ひまわりのようなそのひとに。

***

 雄英高校の生徒がヴィランに誘拐されたという情報が流れてきたのは、翌朝のことだ。
 なんでも、林間合宿に参加した一年生の生徒が連れ去られたらしい。被害者は体育祭で優勝した優秀な少年だという。

 当然のように、八木からしばらく家事代行はお休みして欲しいと連絡が来た。おそらく少年の奪還のため、雄英に詰めているのだろう。
 こんな時こそ、滋養に富むものを食べて欲しいと思ったが、今のわたしがオールマイトである彼にできることはなにもない。そもそも雄英にはランチラッシュがいる。栄養バランスが整った美味しい食事が用意されていることだろう。
 今わたしにできることは、無事事件が解決することを祈る、ただそれだけだった。

***

「お茶飲む?」
「うん。ありがとう」

 お風呂上がりに、母が淹れてくれた冷たいルイボスティーを受け取った。絶妙なタイミングで誰かにお茶を淹れてもらう、それは小さいが贅沢なことだ。ありがとう、と、もう一度心の中でつぶやいて、母の隣に腰掛けた。
 店を辞め、いきなり実家に帰ってきたわたしを、事情も聞かずただ受け入れてくれた母には、感謝しかない。
 だからこそ、三十をいくつか過ぎているわたしが、継がねばならぬ家業があるわけでもなく、ましてや介護があるわけでもないのに、いつまでも実家で甘えているのはどうかと思った。
 週三日、二時間半勤務というのんきな暮らしを続けていくのは、当初の予定どおり今年度いっぱいにするつもりだ。
 そのあとはどうしようね、と小さく息をついたその時、母の見ていたテレビの画面が、突然切り替わった。

「……なにこれ……」

 それは崩壊してゆく街の光景だった。横浜市神野区、テロップにはそう書かれている。神野には、東京にいた頃何度か行ったことがある。
 だがテレビの中の神野区は、わたしが知っていた場所とはまったく異なる街へと姿を変えてしまっていた。
 高々とあがる白煙、崩れ落ちたビル。

『悪夢のような光景!』

 レポーターの興奮した声が耳につきささる。
 そして次の瞬間、わたしは凍り付いた。血まみれのオールマイトが、画面に映し出されたからだ。

『現在、オールマイト氏が元凶と呼ばれる敵と交戦中です! 信じられません! 敵はたった一人!』

 敵による被害でここまでのものを目の当たりにするのは、初めてのことだ。「オールマイト以前」には、よくある話だったらしいが、わたしが物心つくころにはすでに「オールマイト」がいて、彼の手で倒せない敵はいなかった――はずだ。

 けれどわたしは知っている。「オールマイト」が限界に近いということを。
 臓器を失い、体重と筋肉を、いや、命そのものをすり減らしながら、ずっと彼は抗っていた。

 胃袋がない彼は、食事を数回に分けて取る。ゆっくりと、よく噛んで。
 しかしそれでも摂取できない栄養素があった。ビタミンB12がそれだ。ビタミンB12は、胃粘膜から分泌される内因子によって吸収される。だが胃袋がない彼にはそれができない。なので彼は定期的にビタミンB12を注射し、補っていく必要があった。
 そのほかにもダンピング症候群、逆流性食道炎、など、後遺症も多い。
 それだけではなく、オールマイト……八木はちょっとした刺激で血を吐いた。苦しそうに咳き込んでいることもある。なぜなら彼の肺は、片方しかないからだ。

 それなのに、そんな満身創痍の状態で彼は戦う。平和の象徴として、大都市を半壊させるほどの敵の前に立つ。

 と、その刹那、敵の片腕が膨れあがった。間髪おかず、オールマイトに向け衝撃波が放たれる。迎え撃つヒーローもまた、拳を敵へと突き上げる。

 土煙が舞い、ビルが砕かれ、大地が裂けた。

 そしてもうもうと立ち上る粉塵の中、敵の衝撃波を拳で相殺したであろう男の姿が現れる。夜の闇に今にも消え入りそうな、繊月のようなその身体。
 「彼」は船の穂先のように三角形に切り取られた大地の先端に、独り立っていた。
 血と泥にまみれ、それでも拳を突き出すヒーローが着ているのは、青を基調にしたヒーロースーツだ。この国で、そのヒーロースーツを着たひとの名を知らぬ大人は、一人もいない。

『皆さん……見えますでしょうか? オールマイトが…………しぼんでしまってます……』

 晒されてしまった、真実の姿。
 目の前の映像が、ぼやけて揺れた。瞳に張った水膜のせいで。

 逃げて欲しい、と、心から思った。
 この国には他にもヒーローがいる。オールマイト一人で倒せぬ敵でも、エンデヴァーやベストジーニストなど、名だたるヒーローが協力すれば倒すことができるのではないか。

 だが、あのひとが絶対に逃げたりしないことも、また知っている。
 だからこそ八木……いや、オールマイトは、臓器を失ってなお、平和の象徴であり続けたのだ。
 しかも、今、彼の後ろには、瓦礫に挟まれた女性がいる。
 救ける対象を背にしたオールマイトが、敵前逃亡などするはずがない。そう、決して。

「ヒーローっていうのは……難儀な商売だねぇ……。あんなになっても、人のために命をかけなきゃいけないなんて……」
「そうね……」

 画面を凝視しながらぽつりと漏らした母に、ちいさくうなずいた。

 それでも、ここで己の命が失われたとしても、それで誰かが守れるのなら、あのひとはひとかけらの後悔もしないのだろう。
 満身創痍で戦い、さもなんでもないように笑いながら逝く。彼はそういう人だ。

 だからどうなろうと見届けよう。オールマイトというヒーローの戦いぶりを。
 壊滅しかけた遠い街で、彼は戦い続けている。互いの攻撃が繰り出されるたび、衝撃でビルが崩れ、大地が爆ぜた。

「オールマイト…………!」

 瞳に張った水膜が、重みに耐えきれず零れ落ちた。
 オールマイトは平和の象徴。完全無欠のヒーローだ。世を守り支える一柱だ。天にも地にもかけがえのない、唯一無二の。

 すると再び画面の中で、敵の腕が大きく膨れ上がった。モニター越しですらわかるその迫力に気圧され、思わずごくりと息を飲んむ。

 そして、英雄と悪漢がまた激突した。

 巻き起こる爆煙と粉塵に、画像が大きく乱れる。ヘリからの空撮でこれだ。おそらく現地はたいへんなことになっているに違いない。
 粉塵が渦を巻き、竜巻のように宙へと吹き上がる。

 そして少しずつ晴れていく画像の中に移っていたのは、青と赤を基調にしたスーツに身を包んだ偉丈夫が、空に向け拳を高く突き上げる姿。

『敵は動かず! オールマイト! 勝利のスタンディングです!』

 いとしいひとの姿が、涙でにじんだ。

 この日、オールマイトというヒーローは、伝説ではなく神話となった。

***

「急な話ですまないね」
「いえ……」

 痛々しくも腕を吊り、頭に包帯を巻いた八木……いや、オールマイトが、ぽつりと言った。古来より、目病み女に風邪ひき男と言うが、江戸紫の鉢巻きならぬ紺のポロシャツを着た傷だらけの彼も、色気がすごい。

「いえ……。うちの社長から、先生方も寮に入ると聞いております。オールマイトさんも大変ですね」
「うん。引っ越しとかの準備もあってさ、寮に入るまでの食事は雄英で取ることになったんだ。だから……」
「はい。ですので、わたしは本日までと聞いております」

 家事代行サービスの仕事は、相手の都合で急になくなることもある。それに今回は事情が事情だ。
 先日の誘拐事件がきっかけで今月から雄英高校が寮制になり、それに併せて教師も皆寮に入るというのだから、いたしかたない。
 そう思っていると、オールマイトが申し訳なさそうな顔で、頭をかいた。

「それから……びっくりしたろう? その……私がオールマイトだったこと」

 その問いに、小さく微笑みながら答える。

「それは、なんとなくわかってましたから」
「えっ? そうなの?」

 叫びながら、オールマイトが派手に血を吐いた。
 そっとおしぼりを手渡すと、ありがとう、と告げる低い声。そして彼はわたしの返答を待つかのように、眉を下げた後小さく笑った。

「はい。匂いでわかりました。わたしは犬のように鼻がいいので」

 もちろん、今の言葉が比喩ではないことを、オールマイトも知っている。だから彼は、ああそうか、と小さく呟き、軽く眉を上げた。

「踏切でおばあさんを助けた、あの時か。会っちゃったもんね」
「はい」
「そうか……そんな前から……。君は知っていて、何も聞かずにいてくれたんだね。ありがとう」

 いえ、と答えて、目を伏せた。
 今日で終わりということは、このひとと会うことはきっともうない。

「……さみしくなりますわ」

 すると八木は、きゅ、と軽く眉を寄せた。

「そうだね。……本当にさみしくなる」
「短い間でしたが、お世話になりました」
「こちらこそ。みづきさんが作ってくれたごはんはどれもおいしかった。……もう一度、君のブフ・ブルギニョンが食べたかったな」

 しんみりとそんなことを言うわりに、このひとはわたしの次の勤め先について、一言も聞いてはくれない。それはあたりまえのことではあるのだが、やはりさみしい。
 だからわたしは、ちいさな抵抗を試みた。

「そうですね。わたしも圧力鍋ではなく、厚手の鍋でじっくり煮込んだブフ・ブルギニョンを召し上がっていただきたかったです。そっちのほうが美味しいので」
「ええっ? あれよりも美味しいのかい?」

 はい、と答えて微笑んだ。
 こんなことを言ったところで、何一つ変化などないことは、充分わかっているけれど。

「それは残念だなぁ」
「いつか、機会がありましたらぜひ」
「うん。機会があったら」

 予想通りの、当たり障りのない言葉。だからわたしは小さく告げる。別れの言葉を。

「……それでは失礼いたします」
「うん。元気でね」
「八木……いえ、オールマイトさんこそ、お健やかにお過ごしください」

 頭を下げて、玄関扉を開いた。
 とたんにわたしを包み込んだのは、夏の夜ならではの、湿気を多分に含んだ空気。

 一歩を踏み出す前に、うん、と小さくうなずいて、顔を上げた。外廊下から見えるのは、漆のような黒い空。いくつか星が瞬いてはいるけれど、今宵の月はまだ見えない。

 ここに最初に来た日は、細い二日月が見えたっけ。
 そんなことを思い出しながら、歩き出す。
 このマンションを訪れることは、もう二度とないだろう。

***

 変な時間に目が覚めてしまい、そっとベッドから降りた。
 カーテンの隙間から、細い月が覗いている。繊月……二日目の月かと思ったが、よく見ると形が逆だった。今見ているのは、欠けてゆく二十九日目の月。姿を現すのが明け方近くになる、最後の月とも、晦とも呼ばれるものだ。

 初めてオールマイトの家に入った日に見えていたのは、あの人とよく似た細い月だった。二日月は満ちて行く始まりの月。けれどあれは失われる月。あの人と似ているようで異なる、晦だ。

「……本当に、終わっちゃったんだ」

 終わりゆく月を眺めながら、小さくひとりごちた。
 なにも得てはいなかったのに、大きなものを失ってしまったような気がする。
 天には金色に輝く晦。その細い月とあのひとの黄金の髪が重なって見え、わたしは深く、息を吐いた。

2024.9.2
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月とうさぎ